2024年8月5日月曜日

超自我の回帰[Wiederkehr des Über-Ichs]について

 

ジャック=アラン・ミレールはラカンから引き継いだ最初のセミネールで、超自我と原抑圧を等置している。

超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。 Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕


あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.  (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)



この指摘は現在においてさえ一般には意想外だろうが、フロイトにおいて超自我も原抑圧もどちらも固着である。


まず超自我ーー、

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


そして、原抑圧ーー、

われわれには原抑圧[Urverdrängung]、つまり、抑圧の第一段階を仮定する根拠がある。それは欲動の心的(表象-)代理 [psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes] が意識的なものへの受け入れを拒まれるという事実から成り、これにより固着[Fixerung]がもたらされる。問題となっているこの代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束される。

Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden.(フロイト『抑圧』1915年)


かつまた原抑圧されたものの回帰とは固着点への退行である。

抑圧の第一段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege]〔・・・〕


…侵入、抑圧されたものの回帰 [des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. ]。この侵入は固着点から始まる。そしてリビドー的展開の固着点への退行を意味する[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )第3章、1911年)


この『症例シュレーバー』では「抑圧されたものの回帰は固着点への退行」としか記されていないが、先の『抑圧』論文で見たように、抑圧の第一段階としての固着は原抑圧であり、厳密には原抑圧されたものの回帰である(原抑圧=排除であり、事実上、《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』第4章、1920年)の回帰、より厳密には排除された欲動の固着の回帰である)。

ほかにもフロイトは超自我について次のように記している。

我々に内在する破壊欲動の一部は、超自我へのエロス的拘束を形成するために使用される[ein Stück des in ihm vorhandenen Triebes zur inneren Destruktion zu einer erotischen Bindung an das Über-Ich verwendet.](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』8章、1930年)


超自我へのエロス的拘束とあるが、この「拘束」は固着であり、「エロス的」のエロスは、リビドー=欲動である。

対象への欲動の拘束を固着と呼ぶ[Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung ](フロイト「欲動とその運命』1915年)。

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)


つまり超自我へのエロス的拘束とは「超自我への欲動の固着」にほかならない。


以上から原抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Urverdrängten]と超自我の回帰[Wiederkehr des Über-Ichs]とは同一となる。どちらも固着への退行である(欲動の固着点への退行)。

固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年)

前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ](フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年)



……………………


ラカンにおいてはどうか。


まず原抑圧を見よう。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


ここで原抑圧とトラウマの穴を結びつけているが、ラカンにとって現実界のトラウマは固着である。

現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)

固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)


つまり原抑圧=現実界=トラウマ=固着(同化不能)であり、同化不能とはフロイトの「異者としての身体」の定義であり、トラウマかつエスの欲動である。

同化不能な異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)


さらに確認すれば、フロイトにとってトラウマは常に《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》(『続精神分析入門』第29講, 1933 年)であり、欲動自体、事実上固着である、《幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]》( フロイト『性理論三篇』1905年)

つまりラカンが次のように言うとき、欲動は固着の機能だということになる。

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


次に超自我を見よう。

私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)


この超自我の穴に関わる対象aは、異者としての身体かつ固着点である。

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


以上、ラカンにおいても原抑圧=固着=超自我であり、これが現実界のトラウマにほかならない。

なおフロイトは抑圧の第一段階である原抑圧を後年は抑圧としか言わなくなる[参照]。

例えば最晩年にフロイトが抑圧されたものの回帰とトラウマを結びつけているが、これは中期フロイト用語なら原抑圧されたトラウマの回帰であり、ここまで見てきたように超自我の回帰でもある。


抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)


フロイトは次の形でトラウマの回帰を言っている。

結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)




なおフロイトにおけるトラウマは身体の出来事を意味する。

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我の傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs ]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに取り込まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


不変の個性刻印としての固着の反復強迫とあるが、この反復は回帰と等価である。

以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)


以前の状態への回帰とあるが、事実上、トラウマへの固着点への退行にほかならない。



最後に、ーーこれまた一般には思いがけないだろうーー中井久夫の喜ばしいトラウマの回帰の指摘を掲げておこう。



PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


ここで「不変の刻印」とあるのが、先の『モーセと一神教』における《不変の個性刻印[unwandelbare Charakterzüge]》としての身体の出来事への固着である。トラウマが身体の出来事と定義されれば、当然、喜ばしきトラウマの回帰もありうる。


中井久夫は幼児期の単語の記憶でさえトラウマの回帰と結びつけている。

言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


この異物が先に掲げた異者としての身体 [Fremdkörper]である(この語は邦訳では一般に「異物」と訳されてきたが、私は身体的要素を強調するために「異者としての身体」と訳すのを好んできた)。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


そして中井久夫が《語りとしての自己史に統合されない》としているのが、《同化不能》を噛み砕いた表現である。

同化不能な異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)