俺は今までに自殺をはかつた経験が二度ある、一度は退屈の為に、一度は女の為に。俺はこの話を誰にも語つた事はない、自殺失敗談くらゐ馬鹿々々しい話はないからだ、夢物語が馬鹿々々しい様に。力んでゐるのは当人だけだ。大体話が他人に伝へるにはあんまりこみ入りすぎてゐるといふより寧ろ現に生きてゐるぢやないか、現に夢から覚めてるぢやないかといふその事が既に飛んでもない不器用なのだ。俺は聞手の退屈の方に理屈があると信じてゐる。(小林秀雄「Xへの手紙」1932(昭和7)年) |
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◼️大岡昇平『中原中也』より |
大正十四年十一月、長谷川泰子は中原中也の許を去り、小林秀雄と同棲した。中原の生涯はこの事件を抜いては語れないのだが、当事者の一方が生きていては、これは微妙な問題である。 昭和二十四年の「中原中也の思ひ出」で、小林は初めて事件について書いた。 |
私は中原との関係を一種の悪縁であったと思っている。大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってからそんな風に思い出し度がるものだ。中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。たゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根っこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味のことを言い、そう固く信じていたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変った、と書いている。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。 |
ここで小林が「口惜しい男」と憶えている断片は、「我が生活」に当る。欄外の記事から昭和三、四年に書かれたものと察せられ、既に思い出による「創作」が行われていると見倣すことが出来る。 しかし中原は書いている。 |
さて茲で、かの小説家と呼ばれる方々の、大抵が、私と女と新しき男とのことを書き出されるのであらうが、そして読者も定めしそれを期待されるのであらうが、不幸なことに私はそれに興味を持たぬ。そのイキサツを書くよりも、そのイキサツに出会つた私が、その後どんな生活をしたかを私は書かうと思ふのである。 |
そして「口惜しき人」の生活記録は書き継がれていないのである。 |
この穴に近づこうとする私の資料は次の三つである。まず中原が生前した談話、長谷川泰子の談話、及び小林が彼女の手許に残した当時の手記断片である。 小林自身は事件について語るのを好まない。ただ一応右の資料から、私が事件を考えるのを許してくれたのである。従って以下の記事は、小林の異議があれば、いくらでも訂正され得る。 |
中原が富永太郎の紹介で小林を訪れたのは、大正十四年四月初旬である。四月十日から小林は小笠原へ旅行、五月一日帰る。 富永は五月三日に片瀬を引き上げ、代々木富ヶ谷の家へ帰った。交友は富永を交えて三人で始められたと考えてよい。中原が泰子と共に四月から五月へかけて中野、次に高円寺に引越したのは、馬橋の小林の家に近いためであろう。六月富永の病気が悪化し、面会謝絶が続くようになってからは、二人だけの往来はしげくなったと思われる。中原が「いよいよ詩に専心しようと大体決まる」(「詩的履歴書」)のは、こういう雰囲気の中だったのである。 |
七月中原は山口へ帰った。九月最初の媾曳。小林は二十三歳、泰子二十一歳である。 |
九月七日。Tを見舞った帰り、Nと青山の通りを歩いた。四時、黄色い太陽の光線が塵汚とペンキの色彩と雑音の都会をヂリヂリ照りつけた。六丁目の資生堂に二人は腰を下した。二人ともひどく疲れてゐた。軍歌を呶鳴り乍ら兵隊の列が、褐色の塊を作つて動いて行く。 「なんだい、あの色は」 N は行列を見ながら、いまいましさうに言つった。 「保護色さ、水筒までおんなじ色で塗られてやがる」 二人は黙つた。私はY子のことを考へた。兵隊の列は続く。 「見ろ、あれだつて陶酔の一形式には違ひない」 「きまつてるさ、陶酔しない奴なんて一人も居るもんか。何奴も此奴も、夏なんてものを知りやしないんだ。暑けりや裸になるといふ事だけ知つてるんだ」 |
「もうよせ」 私は苛々して来た。あらゆるものに対して、それが如何に美であるかといふよりも、如何に醜であるか。如何に真であるかといふ事より、嘘であるかといふ事の方が、先づ常に問題になる頭が、こんな日には、特につらかつた。然し、Nと会ってY子の事許り考へてゐる自分にとつては、(Nが)かういふ性格で、苛々した言葉ばかりはく事が、自分の心を見破られないといふ都合のよさがあつた。然しそれを意識すると、如何にも苦しくなつた。 私はNに対して初対面の時から、魅力と嫌悪とを同時に感じた。Nは確かに私の持つてゐないものを持つてゐた。ダダイスト風な、私と正反対の虚無を持つてゐた。しかし嫌悪はどこから来るのか解らなかつた。彼は自分でそれを早熟の不潔さなのだと説明した。 |
断片は中絶され、別に次の様に記されている。 |
私は自分が痴情の頂点にあると思つた。 こんなことがあつた。Nは私に、君は、この辺で物を考へると言つて、手を眼の下にやつた。そして俺はこの辺で考ヘてあると額に手をやつた。傍でY子が、あたしはこの辺だわと指を揃えて頭の頂点にのせた。私は彼女がいつか、いんげん豆が椅子を降りて来る夢を見たと話したことを思ひ出した。 |
当時の二人の交友の有様が、少なくとも私には眼に見えるようである。中原は泰子を「男に何の夢想もさせないたちの女」と書いているが、それが小林には全然逆に映ったのである。しかしここで小林が自分を、「痴情の頂点」にいると意識していたことは注意すべきである。この意識は常に、小林を去っていないのであるが、事件の進行を止める力はなかった。 小林はその頃の自分を回想して、「自己に苛酷であること」に多忙であったと書いている (「富永太郎の思ひ出」)。既に富永や中原の批判者として現われていて、前に引いた中原の不潔さ云々の欄外に「レオナルデスク」と書き込みがあるのは、レオナルド風の思想をもって、中原に対抗しようとした気配が察せられる。 |
小林がそれまでに書いていたのは小説である。「一つの脳髄」(「青銅時代」十三年七月)は外界の捉え方に志賀直哉の影響が見られるが、自分の頭脳に対する異様な執着は、一人の思索するエゴイストを示している。「ポンキンの笑ひ」(『山繭」十四年二月。後「女とポンキン」と改題)は行きずりの女に対する頭脳的な恋情を戯画化したものだが、これが事件の半年前に書かれたことに、伝記作者は意味をつけたい誘惑にかられる。 半島の先端で出会った女は、ポンキンという名の変な毛の刈り方をした犬を連れている。 |
「これ狸よ」女は、ポンキンの頭に手を置いた。ポンキンはちょつと頭を凹ました。 バリカンで刈つてやったの、斯うするとライオンに見えるでせう」 「面白い犬を持つてますね」 ………………………… 「これ上げるからお読みなさい」彼女は本を私の膝の上に置いた。 家にはまだ二冊あるからいゝの」 私は、本を拡げて見た。頁が、方々切り抜いてある。余白だけ白く切り残された頁もある。 「これどうしたんです」私は、窓の様に開いた頁の穴に指を通して見せた。 「あ、さう、さう、いゝ処だけ切り抜いたの」女は、子供の折紙の様に折り畳んだ切り抜きを、ポケットから出して渡した。私は、本をポーンと海に投げ込んだ。 「何するの」女は、恐い顔をした。 「これがあれば構はない」私は、切り抜きを女に見せた。 「ソオね」と女は領いた。私は、少しばかり切ない気持になった。 |
女は少し気が変なのだが、例えば「ポンキン、いけません」と犬を叱る時の、女の真剣な顔を「 私」は美しいと思う。一か月後私は同じ海岸へ来る。相変らずポンキンを連れた女は、私に気づかず通りすぎるが、ポンキンは私を認めて立ち止る。「何か、 秘密なものを見られたやうな気がした。」女に「ポンキン」と呼ばれて、 犬は駆け出す。「振り返つた犬の顔が笑つた様に思はれ、私は、顔を背けた」 |
事件の正確な日附を知るまで、私はこの小説が、小林の中原と泰子に対する反応を書いたものだと思っていたのである。それほど雰囲気は、我々が三人の間に想像していたものと酷似している。十八歳の中原は泰子に連れられた犬ぐらいにしか、小林には映らなかったのではないかと思われた。 事実は無論違っていた。しかし当時小林がこういう感情的な傾斜にいたことと、泰子に惹かれたことと無縁ではないであろう。作品が事件に先行し、丁度小説に書いたように事件が起るのは、よくあることである。 |
事実中原は或る点ではポンキンのように小林を笑っていたのである。 「新しき男といふのは(略)非常に理智的な目的をその女との間に認めてゐると信じ、また女にもそれを語ったのだつた。女ははじめにはそれを少々心の中で笑つてゐたのだが……」(「我が生活」) |
この文章は前記のように三年後に書かれたもので、中原はそれまでに幾度となく人に話し、事件の筋道は頭の中で整理されていたと思われる。ほぼ同じように、私にも夜明しで話したりした。 要するに中原によれば、小林と泰子は「心意を実在と混同する底の幼稚な者たち」であったが、しかし当時小林が書きとめておいたものによると、事態はそう単純ではない。 |
暗い中でもすぐAだと解つた。 「散歩しても無駄ぢやないつて、気がしたの」とAはいつた。私は黙つてゐた。 「今日は何処へ行かうと思つたの」 「Sの家」 「ぢや、いらつしやい」 「いやだ」私は引き返した。Aは後からぼつくりの音をさせてついて来た。 「近いうちに会はないか」 「いや」 「何故、そんなことをいふんだ」 「何故でもいや」Aは蒼い顔をしてゐた。私はこの時AとBの間に妥協が成立したことを直覚した。 |
「私、如何してもあの人と離れられないわ」とAはしばらくして言つた。 「兎に角、この儘の状態を持続して行くことは、俺には不可能だからね、それに愚劣だ」 私は腹立たしく、昂奮して来た。何をいつていゝかわからなかつた。判然と感じたものは烈しい嫉妬だつた。 「俺は、俺の生活全部をあげて君に惚れてるんだからね」私はそんな意味の事をガミガミと 喋つた。 「えゝ、さうだろう」 「…………」 「何故、黙つてるんだ」 「よく聞いてなかつたの」 「聞いてなかつた。何故聞いてないんだ」 「嘘、みんな聞いてたわ」 私は苦り切つた。 …………………… |
「さあ、どつちにつくんだ。俺かBか」 私はAの両肩を抑へた。Aは蒼白い顔を、両腕で挟んで、烈しく首を振つた。そして「きめられない、きめられない」と言つた。 二人は黙つて、幾度も同じ道を行き来した。 「私、本当は何でもスーッと進んでしまふん(ママ)なんだけど、今度は (一字不明)かなの。せんより利巧になつたか、馬鹿になつたかわからない」(略) 「馬鹿」私は誰が馬鹿なのか解らなかつた。 「私もう帰るわ。ぢや決めてゝ頂戴、会ふ日を」 「あさつて」 「今日はまるで喧嘩腰ね」 「喧嘩腰が一番楽だからさ」 「あゝ、頭が痛い。私、あさつて頃、病気になり相だわ」 「大した事あるもんか。俺の方がよつぼど苦しいにきまつてるさ」 |
会話は大正的恋人の普通の型を示しているように思われる。ただ男が事件の最中にありながら、これだけ正確に記録しているのが異常である。恐らく女の態度に、警戒さすものがあったのだ。 十月八日、多分駆落ちの約束の場所へ、泰子は来なかった。小林はそのまま一人で大島へ向う。 |
彼女は来なかつた。私は、もう自分の為てゐる事が正しいのだか、悪いのだか解らなかつた。要するに自分の頭を客観化する能力がなくなつてしまつた。自分が去る事、それは logique で honnête で、必要なのだといふことすら、自分の脳髄の一体如何んなものが呼んでゐるのか、判然しないのだ。私は自分の脳髄の弱さを苦々しく眺める他何一つ出来ないのだ。(略) 私は泣いた。苦り切つて又泣いた。俺の生活に常々嫌悪がついて廻るものなら、甘くなつたつて、苦くなつたつて同じ事だと思つた。 翌日は雨だった。三原山は雨雲に首を突込んで、すそだけ見えた。 俺は如何なるか。如何にもならないことは確かだ。自殺、自殺といふことは事実私は思つても見ないことであつたが…… |
多分富永太郎宛の手紙の下書。 |
雨が降る何処にも出られぬ。実につらい、つらい、人が如何しても生きなければならないといふ事を初めて考へたよ。要するに食事をしようといふ獣的な本能より何物もないのだな。又それでなければ嘘なのだな。だからつらいのだな。芸術のために生きるのだといふ事は、山椒魚のキン玉の研究に一生を献げる学者と、何んの異なる処があるのか。人生に於て自分の生命を投げ出して賭をする点で同じぢやないか。賭は賭だ、だから嘘だ。世には考へると奇妙なセンチメンタリスムが存在する者だ。 |
これらの手記で小林はまったく健全である。だから事件は当然ここで終らなければならなかったのだ。それが結局二か月後に泰子が小林の許へ移ることになったのは、中原によれば、小林が旅行から帰ってすぐ、 病気になったからである。盲腸炎は京橋の泉橋病院で切開された。この間、富永太郎が死んでいる。十一月十四日、その報せを持って、小林を見舞った正岡氏は病室に泰子の姿を見出している。 病気というシチュエーションが、二人を再び結んだと中原はいっていたが、通俗小説を空想するのは、 中原の中の「ロ惜しき人」のさせる業である。ここにあるのは、単に泰子が遂に男を替えたという事実だけである。 秦子は私にとっても友人であるし、メロドラマの「悪魔のやうな女」だなんて、夢考えてはいない。 何なら中原に従って「非常に根は虔しやかであるくせに、ヒヨットした場合に突発的なイタヅラの出来る女」と思ってもよい。 |
しかし一体女が男を替える理由が判然としていることがあるだろうか。今日の泰子は京都時代の十七歳の中原は優しい叔父さんみたいなもので、全然恋愛じゃなかったといっているし、小林の場合にも恋愛はなかったと明言している。 二人の男が一人の女を争う場合、いずれ大差はないのだから、女はどっちかへつく。小林が盲腸炎にならなくても、泰子が小林と結びつくことは、それが実際にそうなった以上、必然であったのだ。 それが事件というものなので、深淵はそのまわりにいくらでも好きなだけ拡がるのである。 こうして中原は「口惜しき人」になり、小林は既にわかっていた恋愛の結果を、 口一杯頬ばらされる。以来彼は小説を書きもしないし、他人の小説も信じない。彼は批評家になる。 |
(大岡昇平「友情」初出「新潮」1956年4月号『中原中也』所収) |
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寺田寅彦氏はジャアナリズムの魔術についてうまい事を言っていた、「三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えている余裕はないのみならず、三原山時代に浅間へ行ったのでは『新聞に出ない』のである。このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き拡げ、あたかも世界中がその類型で充ち満ちているかの如き錯覚を起させ、そうすることによって、更にその類型の伝播を益々助長するのである」。類型化と抽象化とがない処に歴史家の表現はない、ジャアナリストは歴史家の方法を迅速に粗笨に遂行しているに過ぎない。歴史家の表現にはオリジナルなものの這入り込む余地はない、とまあ言う様な事は一般常識の域を出ない。僕は進んで問いたいのだ。一体、人はオリジナルな投身地を発見する余裕がないのか、それともオリジナルな投身地なぞというものが人間の実生活にはじめから存在しないのか。君はどう思う。僕はこの単純な問いから直ちに一見異様な結論が飛び出して来るのにわれながら驚いているのだ。現実の生活にもオリジナルなものの這入り込む余地はないのだ。(小林秀雄「林房雄の「青年」」『作家の顔』所収) |
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喪われた対象へのリビドーの拘束[Libido an das verlorene Objekt geknüpft zeigen](フロイト『喪とメランコリー』1917年) |
我々に内在する破壊欲動の一部は、超自我へのエロス的拘束を形成するために使用される [ein Stück des in ihm vorhandenen Triebes zur inneren Destruktion zu einer erotischen Bindung an das Über-Ich verwendet.](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』8章、1930年) |
対象への欲動の拘束を固着と呼ぶ[Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung ](フロイト「欲動とその運命』1915年) |