2017年6月5日月曜日

道化の鈴つき帽子のラカン爺

実をいうと、聖人は自分に功徳があるとは考えません。だからといって、彼が道徳を持っていないというわけではありません。他の人たちにとって唯一困るのは、そのことが聖人をどこに運んで行くのかわからないということです。

私といえば、また新たにこのような人たちが現れないかと懸命に考えています。おそらくそれは、私自身がそこに到達していないからに違いありません。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑います Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義的ディスクールからの脱却なのですが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならないでしょう。(ラカン、テレヴィジョン、1973、向井雅明訳)

◆Television": Lacan on the unconscious.



みなさんが道化役を演じることになるとしても、道化は存在価値のあるものと思ってください。わたしが出演したテレヴィジョンを観ればよいでしょう。わたしはピエロに映っていますよ。これを参考にしてください。但し真似はだめです。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム La Troisième』 31.10.1974、荻本芳信訳)

こういった映像を眺めると、ラカンってのは「ですます調」では訳さないほうがいいんじゃないかしら?





そもそもこの爺さんに耐えられるか否かは、〈あなた〉の資質による。

中井 ぼくはラカンじゃないから何とも言えないけど、大体ラカンというのはよくわからんですよ。あれは本物か贋物かよくわからんので、誰か教えていただきたいんですが、たとえば無意識というのは言語的に構造化されていると言うでしょう。どうなんですかね。
木村 「言語のように」というか。
中井 「ように」なんですか。
木村 コムを使っていますね。とにかく「として」、あるいは「ように」でしょうね。どう訳すのかの問題ね。
中井 「言語のように組織されている」と言うと、これ全然違うから。
木村 「言語として」と訳すか......。
中井 うーーん。ラカンさん、その辺、はなはだ不透明なんですよね。
木村 ラカンというのは非常に不透明ですよ。だからそれをラカニアンの人達が、バイブルにするものだから(笑)。
中井 でもあれは、全員を破門して一人で死んでいくわけで。
柄谷 あれはフランス的現象ですよ、明らかに。なぜみんながラカンについて語るのかわからなくて、いろいろ聞いても、みんなが語るからとか......。
木村 日本もそうですよ。
中井 ラカンは単に回しているだけじゃないかと。
市川 日本人はあんなもの信じてないとおもうけど(笑)。
木村 いや、信じている人達が何人かいて......。
中井  ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語と してはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないか とおもったんですけどね。(『シンポジウム』<分裂病>をめぐって. 木村敏・中井久夫・市川浩・柄谷行人 1988)

やっぱり通常は耐えられないわ・・・

このことから結果として生ずるのは何か? 「ラカン」を読むときには、手袋をはめたらよいということである。かくもはなはだしい不潔さの近くではほとんどそうせざるをえない。(ニーチェ『反キリスト者』)

ーーおわかりのように一語のみ(元の語は「 新約聖書」)変更。

次は一語も変更していない。

われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子はど、われわれに役立つものはない。(ニーチェ、悦ばしき知107 番)

次の文だって変更なし。

わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ。――だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖めいた要素はみじんもないーー宗教とは賤民の関心事である。わたしは、宗教的人間と接触したあとでは手を洗わずにはいられない……わたしは「信者」などというものを欲しない。思うに、わたしは、わたし自身を信ずるにはあまりに意地わるなのだ。わたしはけっして大衆相手には語らない……わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている。こう言えば、なぜわたしがこの書を先手をとって出版しておくのか、その真意を察してもらえるだろう。わたしは自分が不当なあつかいをされないよう、予防しておくのだ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだからーーわたしの語るところのものは真理なのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)

「誠実な」日本人にはラカンは向かないのよ、
ラブレーの正当的嫡子だわ、あれは。

ラブレーが読まれるようになったのはやっと最近だ
ce soit de nos jours qu'enfin Rabelais soit lu(ラカン Lituraterre 1971)

すくなくともジジェク程度の器量がないとダメね、
かつまた木村敏あたりを笑い飛ばす力がないとね。
そもそも、あの「シンポジウム」の「誠実そうな」連中全員が
《嘘でかたまった》滑稽さをもってないかどうかを疑う資質も必要だわ

私はラカンにぞっこん惚れこんでいるのは、きみたちは気づいているかどうか知らないが、ラカンのスタイルがまさにレーニン風だからだな。なんのことかわかるかい? まったく寸分ちがわない何か。きみたちはレーニン主義者をどのように認知してるのだろう? 典型的なレーニン主義者のひねりは、たとえば、誰かが「自由」と言ったとすると、彼らの問いは、「誰のための自由だい? 何をするための自由かい?」のたぐいだ。たとえば、ブルジョアが労働者を食い物にする自由とかね。君たちは気づいているだろうか? 『精神分析の倫理』にて、ラカンが「善」に対して、まさにほとんどおなじひねりを加えているのを。そうだよ、至高善についてね。だれの善なのか、なにをするための善なのか?等々とね。だから、ここでも、ラカンが“〈女〉は存在しない”と言うとき、同じようにレーニスト風にしなくちゃな。そしてこう問うべきだね、「どの女だって?」、「誰にとって女は存在しないんだい?」と。ふたたびここでのポイントは、女がふつう思われているような仕方、象徴秩序の内部に存在しないとか、象徴界に統合されるのに抵抗するとかではないことだ。私は言いたくなるね、これはほとんど正反対なんだと。 (Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture(1995年のレクチャーから私意訳)

アタシはどちらかというとラカンをマガオで受け取っているので(?)
たまには自戒のためにこうやって掲げておくわ・・・

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

(Foucault, Lacan, Levi-Strauss, Barthes)

ぼくはヴェルトが打ち明けてくれたことを思い出す、彼がノイローゼにかかっていた頃のことで、ファルスの診察室にわりと足繁く通っていた。「あんなところに通うとろくなことはないよ」…彼はまさにそのために動顛させられた…「彼に自分の今までの出来事を話しているうちに」、ヴェルトはつけ加えて言った、「突然わかったんだ、気のふれた奴とおしゃべりするなんて、ぼくはとんでもない阿呆だって」…明快な話さ… (同上『女たち』)

もっともこうはつけ加えておきましょう。

精神分析的記述(ラカンの記述である。語る人なら誰でも、ここで、その洞察の鋭さを確かめ得るだろう)に従えば、教師が聴講者にしゃべる時、「他者」はつねに存在し、彼の言述に穴をあける。そして、たとえ彼の言述が無謬の知性で完結し、科学的《厳密さ》や政治的急進性で武装していても、やはり穴はあけられるだろう。私がしゃべりさえすれば、私のパロールが流れさえすれば、私のパロールは外に流出するのである。もちろん、すべての教師が精神分析の被験者の立場にあるとはいっても、受講する学生が逆の状況を利用できるわけではない。なぜなら、まず第一に、精神分析的な沈黙には、何ら優越する点がないからである。第二に、時折、被験者が殻を破り、こらえることができず、パロールに身を焼き、弁論の淫らなパーティーに加わるからである(たとえ被験者が頑固に押し黙っているとしても、彼はまさに自分の沈黙の頑固さを語っているのだ)。

しかし、教師にとって、受講する学生は、やはり、模範的な「他者」である。なぜなら、彼らはしゃべらないふりをしているからであるーーしたがって、また、その無言の外見の中から、それだけに一層強く、あなたの中で語るからである。彼らの表に出ないパロールは私自身のパロールなのであるが、彼らの言述が私の中を満たさないだけに一層、私に打撃を与えるのである。

これが公的なパロールというものの背負う十字架である。教師がしゃべるにせよ、聴き手がしゃべるように要求するにせよ、いずれの場合も、まっすぐ(精神分析用の)長椅子に向かうのだ、教育の関係はその関係によって促される転移以上のものではない。《学問》、《方法》、《知識》、《観念》が群をなしてやってくる。それらは余分にあたえられるものであり、剰余である。(ロラン・バルト『作家、知識人、教師』1971,Tel Quel)