2017年6月19日月曜日

小此木啓吾氏の驚くべき誤訳

以下、フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年(フロイト著作集第9巻)の致命的誤訳(小此木啓吾訳)をめぐって。

※原文は、→ Psychoanalytische Bemerkungen Uber einen autobiographisch beschriebenen Fall von Paranoia (Dementia Paranoides)を見よ。

ーー精力的にフロイト邦訳における誤訳を指摘されている研究者の「翻訳正誤表」をもあわせて参照のこと。彼はこの論文だけでなく、フロイト著作集第9巻(小此木啓吾訳)の他の論文の邦訳についても、いささか過度にも思われるほどの難詰をしている。たとえば《訳者は「イマーゴ」の複数形もご存知ないらしい。これだからフロイトは独語で読まねばならないのである。》(参照

さて、その誤訳のなかでも致命的と思われる箇所を『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』から、ここでは一箇所のみ掲げる。

【小此木啓吾訳】
第一の段階は、各「抑圧」過程の先駆現象であり、その成立条件をなしている固着の形成段階である。(小此木訳)
Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«.

【翻訳正誤表による修正】:《第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている、固着である。》

ーーこの箇所は小此木訳においても、大きな問題はない。

問題は引き続く箇所である。

【小此木啓吾訳】
第二の段階は、《いわば本来の抑圧(原抑圧)である。》(小此木訳)
Die zweite Phase der Verdrängung ist die eigentliche Verdrängung


【翻訳正誤表による修正】:《いわば本来の抑圧である。》

なぜ小此木氏は、原抑圧などと付け加えてしまったのか? これはまったく抑圧/原抑圧を理解していない証拠である。

フロイトが原抑圧概念をはじめて実際に提出したのは、1915年の『抑圧』論文である。

そこでの記述を見てみよう。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。(……)

Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben;
抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧 eigentliche  Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。
Die zweite Stufe der Verdrängung, die eigentliche Verdrängung, betrifft psychische Abkömmlinge der verdrängten Repräsentanz oder solche Gedankenzüge, die, anderswoher stammend, in assoziative Beziehung zu ihr geraten sind.(フロイト『抑圧』1915年)

《本来の抑圧 eigentliche  Verdrängung》とは原抑圧と異なった第二段階の抑圧とある。そして第一段階のほうには、《固着 Fixierung》という用語が出現している。

1911年の『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』と同様なことが書かれている。

すなわち《第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている、固着 Fixierung である》と記されている。こちらが原抑圧Urverdrängungである。

それにもかかわらず小此木氏は、第二段階のほうを《いわば本来の抑圧(原抑圧)である》と余分な「誤った」注釈を丸括弧つきでつけ加えてしまっている。

これは抑圧/原抑圧について何もわかっていない証拠である。

原抑圧とは、後期フロイトの最も重要な概念のひとつである(ラカンのサントーム sinthome と等価)。

最晩年のフロイトが「終りなき分析」と言ったのは、この原抑圧=欲動の根のせいである。治療不能の核、それが原抑圧=原固着である。

たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

誰にでも些細な誤訳はあるだろうが、この最も核心的概念「原抑圧」をまったく逆に捉えてしまっているというのは、驚くべき「誤訳」であると言わざるをえない。