2020年10月23日金曜日

全能の原大他者

 


全能の母なる原大他者、原支配者

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。[la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](ラカン、S4、06 Février 1957)

(原母子関係には)母なる女の支配[une dominance de la femme en tant que mère ]がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存[dépendance ]を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


母なる原憎悪の対象

母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957)

母なる去勢 [La castration maternelle]とは、幼児にとって貪り喰われること [dévoration]とパックリやられること[morsure]の可能性を意味する。この母なる去勢が先立っているのである [cette antériorité de la castration maternelle]。父なる去勢はその代替に過ぎない[la castration paternelle en est un substitut]。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ [engloutissement]、貪り喰われこと[dévoration]に対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)


母なる鰐の口

母の溺愛 [« béguin » de la mère]…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?


母は巨大な鰐 [Un grand crocodile ]のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざす[le refermer son clapet ]かもしれないことを。これが母の欲望 [le désir de la mère ]である。(ラカン, S17, 11 Mars 1970)

ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 [le crocodile, le sujet à la gueule ouverte]として示した。(J.-A. Miller, La logique de la cure, 1993)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙』58)


分離不安と融合不安

最初の母子関係において、子供は身体的な未発達のため、必然的に、最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を引き起こす。…そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。


そのときの基本動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。この原不安は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話役としてもよい。寄る辺ない幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安がある。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安と呼びうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)


原誘惑者かつ原愛の対象

小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)

子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性へのアタッチメントに起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。


疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。

乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.]

最初の対象は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者ersten Verführerin」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ]

この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、死後出版1940年)


喪われた子宮内生活を償ってくれる「愛されたい唯一の対象」

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさと依存性[Hilflosigkeit und Abhängigkeit]ある。人間の子宮内生活 [Die Intrauterinexistenz des Menschen] は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界[realen Außenwelt ]の影響が強くなり、エスから自我の分化 [die Differenzierung des Ichs vom Es]が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben] をつぐなってくれる唯一の対象は、きわめて高い価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない愛されたいという要求 [Bedürfnis, geliebt zu werden]を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


幼虫(ラルヴァlarva), サナギ(ピューパ pupa), 成虫(イマーゴ imago)

 



幼虫(ラルヴァlarva), サナギ(ピューパ pupa), 成虫(イマーゴ imago)

幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

 

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。


たしかに、現在からみた過去の自己像は、それが現在であった時の自己像ではありえない。つねに現在との関連によって、その重要性も文脈も内容さえも変化をこうむっている。生きるとはライプニッツの言葉を借りれば「過去を担い未来をはらむ」現在を生きることであり、記憶もつねに現在との緊張関係においてある。

 

それは個人史も社会・民族・国家の歴史も同じことである。すなわち、人間集団の歴史的事実もたえず評価が変わり、事実も評価の変化をとおして代わってゆく。ある事象はそもそも書かれなくなり、忘却のかなたに去る。長い間、ささやかな挿話にすぎなかった事象が重大な意味を帯び、その観点から調査されてディテイルがくっきりしてくる。そのは事実自体も不動ではないということである。


もう一つは、非常に多くの記憶が消滅している。個人史においても世界史においても、いたるところに空隙があり、消失がある。記憶されているのはごく一部にすぎないのが事実である。しかも、個人も人間集団も、その歴史の連続性を疑わない。少なくとも個人においては三歳以後の人生が連続しているという感覚がある。これを「自己史連続感覚」と名づけよう。

 

自己史連続感覚は多くの忘却や空隙にもかかわらずゆるがない。したがって外傷性障害における時間喪失や逆行性健忘が苦痛や困難をともなって長く「外傷的」に記憶されるのは一見ふしぎである。


「正常な時間喪失」や「正常な忘却」が異常なそれらよりも圧倒的に多量であるはずなのに、自己史連続感覚がゆるがないのはなぜであろうか。

 

二歳半から三歳半までに成立するものは成人文法性だけではない。それはより大きなものの一部分にすぎない。ここで成立するものは何であろうか。


私たちは、ここで成立する事態に、①成人文法性、②三者関係の理解(エディプス葛藤はその一例にすぎない)、③自己史連続感覚の成立、の三つを挙げることができる。


三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性contextualityである。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

 

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。


ここでは、現象的には二者の関係であっても、目に見えない第三者すなわち社会(世間)が背景として厳存する場合は三者関係とする。したがって四者以上でも三者関係に含まれる。私のいう二者関係とは「文脈以前の二者関係」あるいは絶対的な二者関係と呼んでもよかろう。バリントが「基底欠損患者」について「独特な二者関係」と呼んだものである。このタイプの患者の一例に「境界例」を挙げてもよいであろう。「境界例」性には、治療者や家族・友人が身を以て味わうように、些細な遅刻をも重大な裏切りをも同じ強度で感受し、同様に烈しく糾弾するということがある。


バリントはいみじくも、境界例患者を含む「基底欠損」患者は「通常の成人言語」common adult languageを理解しないと述べている。臨床的には、文字通りの幼児語に戻るわけではなく、妥当な文脈性(前後関係)を失った形で成人言語を使用するためにさまざまな混乱が生じるのである。成人文法性以前への復帰ではないが成人文法性の大きな障害ということはできる。それは妥当な文脈性の喪失であり、それは自己史連続感覚の障害につながる。事実、自己史は単調な反復、一種の永劫回帰としか感じられていないのではないか。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2003年『徴候・記憶・外傷』所収P167-170)


2020年10月22日木曜日

「抑圧されたものの回帰」の真のメカニズム

フロイトの 「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」はいまだほとんど理解されていない。それはフロイト学者であってもそうである。以外、その真の内実を文献列挙することにより示す。

人は抑圧されたものを行為として反復する

人は、忘れられたものや抑圧されたもの[Vergessenen und Verdrängten]を「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに(行為として)反復している[ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt]。(フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)

想定された本能的ステージにおけるどの固着も、何よりもまず歴史のスティグマである。恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される。[toute fixation à un prétendu stade instinctuel est avant tout stigmate historique :  page de honte qu'on oublie ou qu'on annule, ou page de gloire qui oblige.  Mais l'oublié se rappelle dans les actes](Lacan, E262, 1953)

ラカンは欲動的対象との関係[le rapport à l'objet pulsionnel ]において「抑圧されたもの」のモデルを考えようとした。これが次の凝縮された叙述が意味していることである。《このページは忘れられている。だが行為として呼び戻される[cette page est oubliée mais elle se rappelle dans les actes ]». これが意味するのは、抑圧されたものの回帰は欲動的享楽に関係するということである[le retour du refoulé dans le rapport à la jouissance pulsionnelle]。(J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 3/02/99)



抑圧されたものの回帰はリビドー固着点から始まる

「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている「固着」であるDie erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。〔・・・〕この欲動の固着[Fixierungen der Triebe] は、以後に継起する病いの基盤を構成する。

②正式の抑圧[eigentliche Verdrängung]の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ後期[Nachdrängen]の抑圧ある。〔・・・〕原初に抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe] がこの二段階目の抑圧に貢献する。

③第三段階は、病理現象として最も重要であり、抑圧の失敗[Mißlingens der Verdrängung]、侵入突破[Durchbruchs]、抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Verdrängten]である。この侵入[Durchbruch]とは固着点[Stelle der Fixierung]から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年、摘要)


リビドー固着点の非可動機能

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)


トラウマへの固着点の永遠回帰

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫Wiederholungszwang〔・・・〕あるいは運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)

トラウマは、自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。〔・・・〕この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」〔・・・〕これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)








後期抑圧と原抑圧

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。


die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


精神神経症と現勢神経症

原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。〔・・・〕現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。〔・・・〕


利用されないリビドーの過剰は不安の生成にはけ口を見出だす事はおおいにありうる。daß gerade der Überschuß an unverwendeter Libido seine Abfuhr in der Angstentwicklung findet。この現勢神経症の基盤の上に精神神経症が起きやすい。自我は、しばらくの間、宙吊りにしていた不安を症状形成によって拘束しようとするように見える。〔・・・〕

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


外傷神経症と固着

外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt.(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)

(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)





「後期抑圧されたものの回帰」と「原抑圧されたものの回帰」をより厳密に区別するなら、後者を「排除されたものの回帰 Wiederkehr des Verworfenen」と呼ぶべきかもしれない。


現実界のなかに排除されたものの回帰 le retour du forclos dans le réel

排除Verwerfungの対象は現実界のなかに再び現れる [qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. ](ラカン、S3, 11 Avril 1956)

私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。


Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969)





◼️以下、確認用のためのさらなる文献列挙。


エスの核に置き残された原無意識としての異者としての身体

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)






抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識 としてエスのなかに置き残されたままである。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1939年)


欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。


Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


個人の初期の記憶痕跡は、その個人のなかに保存されている。しかし独特な心理学的条件でである。〔・・・〕忘却されたものは消滅されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗備給 Gegenbesetzungenにより分離されているのである。〔・・・〕それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離されている。

Die Erinnerungsspur des früh Erlebten ist in ihm erhalten geblieben, nur in einem besonderen psychologischen Zustand. […] Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«, seine Erinnerungsspuren sind in aller Frische vorhanden, aber durch »Gegenbesetzungen« isoliert. […] Sie können sind unbewußt, dem Bewußtsein unzugänglich. Es kann auch sein, daß gewisse Anteile des Verdrängten sich dem Prozeß entzogen haben, der Erinnerung zugänglich bleiben, gelegentlich im Bewußtsein auftauchen, aber auch dann sind sie isoliert, wie Fremdkörper außer Zusammenhang mit dem anderen. (フロイト『モーセと一神教』1939年)


人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された 。

die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、死後出版1940年)





異者は現実界である

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

このモノは分離されており、異者の特性がある。〔・・・〕モノの概念、それは異者としてのモノである。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  […] La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



現実界はレミニサンスする

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscence」と呼ばれるものによって。


Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. […] Disons que c'est un forçage.  […] c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

強制とは基本的に、トラウマと呼ばれるものの初めの強制の反復である。幻想の仮面の背後には、現実界との出会いがあり、この出会いは常にトラウマの価値をもっている。


Un forçage, au fond, répétant ce forçage initial qui s'appelle le traumatisme. Derrière le voile du fantasme il y a la rencontre du réel et cette rencontre a toujours valeur de traumatisme.  (J.-A. MILLER, - La vie de Lacan - Cours n°2 - 03/02/2010)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こす。ヒステリー はほとんどの場合、レミニサンスに苦しむのである。


das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […]  der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)




心的装置に同化されない現実界のトラウマの反復

(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式の下にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン, S11, 12 Février 1964)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)


リビドー 固着の残滓という異者

我々がモノと呼ぶものは、思考に抵抗する残滓である。Was wir Dinge mennen, sind Reste, die sich der Beurteilung entziehen  (フロイト『心理学草案』Entwurf einer Psychologie, 1895)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

いわゆる享楽の残滓 [reste de jouissance]。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。(J.-A. MILLER,  - Orientation lacanienne III-  5/05/2004)

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)



2020年10月21日水曜日

あたかも自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性

 


経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される

経験科学の真理にかんしては、「確証可能性 confirmability」をあげる論理実証主義者(カルナップ)と「反証可能性 falsifability」をとなえるポパーとのあいだに、有名な論争がった。ポパーの考えでは、科学的法則はすべて帰納的な支持をもつ仮説でしかなく、観察によってそれと衝突する「否定的データ」が発見されると、その例を肯定的事例として証明できるような新しい包括的な理論が設定され、理論の転換がおこる。したがって、「否定的データ」の発見が科学の進歩や発展の原動力である。ところが、T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。


しかし、こうした考えは、それ自体、“事物”や“意味”は言語的あるいは理論的網目組織によって分節化されたものだという「形式主義」的観点にほかならない。しかも、このような科学史(メタ科学)的認識は、その対象、たとえば量子力学やサイバネティックスにもとづいている。科学史をそのように変化させたのは、すでに現代の科学が経験・データではなく知的構成(建築)にもとづくといわざるをえない事実である。科学史あるいはもっと広く思想史において用いられる理論的枠組(たとえば構造主義)は、科学自体から導入されている。この関係はのちに説明するように自己言及的である。すなわち、科学史あるいは思想史は、それが対象とするものに逆に属してしまうのであって、それらはけっして外在的、あるいは“超越的”(メタ)であることができない。同じことが、フランス的な文脈で語られたフーコーの“アルケオロジー”についてもあてはまる。「構造主義」を知における一つの徴候として読む「立場」は、超越的なものではありえず、それ自体「構造主義」に内属している。このような「不思議な円環」(ホッフシュタッター)を不可避的にするものをこそ、私は「形式化」とよぶのである。(柄谷行人「形式化の諸問題」1983年『隠喩としての建築』所収、1983年)


あたかも自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性

だが、解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。


それにもかかわらずクーンが提起したパラダイムの概念、およびそれが煽りたてたもろもろの議論に何がしかの意味があったとするなら、それは、科学の客観性と連続性という双生児的概念に人びとがようやく疑いの目を注ぎはじめたからではなく、科学をも含めたあらゆる今日的思考が、風景論の時代に属しているという現実をクーンが無意識ながら告白しているからにほかならない。またそれにもまして興味深いのは、風景論の時代に特有な認識の配置図や「知」の流通形態の全域を理論的に踏査しつくしたわけでもないのに風景論の時代の言説をもてあそび、そのことできわめて逆説的ながらみずからの立場を証拠だてているかにみえるクーンが、なおそのパラダイム概念の提起にあたって、ほとんどデカルト的というほかない認識のパターンに頼って自分を科学史という物語の話者に仕たてあげ、その視点を修正したり再強化したりしているという点である。その一点に限っていえば、あたかも彼は自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性がそこに露呈しており、その意味でクーンはいささかも革命的ではないし、ましてや反科学的でもない。彼は風景による教育にことのほか忠実なる風景論の饒舌な語り手にすぎないのだ。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批判宣言』所収、1979年)


2020年10月19日月曜日

プルーストの友情批判

 


早くも彼と私とのあいだには、二人がすでに永久の親友になったということが認められた。そして、まるで私たちから独立して存在する、何かたいせつな、気持のよいもののことでもいうように、彼は「ぼくたちの友情」notre amitiéと言い、まもなくそれを恋人への彼の愛情はべつとして 彼の人生の最大のよろこびと呼んだ。


Il fut bien vite convenu entre lui et moi que nous étions devenus de grands amis pour toujours, et il disait « notre amitié » comme s'il eût parlé de quelque chose d'important et de délicieux qui eût existé en dehors de nous-mêmes et qu'il appela bientôt – en mettant à part son amour pour sa maîtresse – la meilleure joie de sa vie. 

そうした言葉は、私には一種の悲哀を感じさせ、それにたいする答えかたにいつも当惑するのであった、というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。

Ces paroles me causaient une sorte de tristesse, et j'étais embarrassé pour y répondre, car je n'éprouvais à me trouver, à causer avec lui – et sans doute c'eût été de même avec tout autre – rien de ce bonheur qu'il m'était au contraire possible de ressentir quand j'étais sans compagnon. 


ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。

Seul, quelquefois, je sentais affluer du fond de moi quelqu'une de ces impressions qui me donnaient un bien-être délicieux. Mais dès que j'étais avec quelqu'un, dès que je parlais à un ami, mon esprit faisait volte-face, c'était vers cet interlocuteur et non vers moi-même qu'il dirigeait ses pensées, et quand elles suivaient ce sens inverse, elles ne me procuraient aucun plaisir.


ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。

Une fois que j'avais quitté Saint-Loup, je mettais, à l'aide de mots, une sorte d'ordre dans les minutes confuses que j'avais passées avec lui ; je me disais que j'avais un bon ami, qu'un bon ami est une chose rare et je goûtais, à me sentir entouré de biens difficiles à acquérir, ce qui était justement l'opposé du plaisir qui m'était naturel, l'opposé du plaisir d'avoir extrait de moi-même et amené à la lumière quelque chose qui y était caché dans la pénombre. 


ロベール・ド・サン = ルーと話をして二、三時間を過ごし、私が述べたことを彼がほめてくれた場合でも、そのあとでは、自分ひとりでひきこもっていよいよ仕事にはいるという準備をしなかったことにたいする一種の阿責、後悔、疲労を感じるのであった。

Si j'avais passé deux ou trois heures à causer avec Robert de Saint-Loup et qu'il eût admiré ce que je lui avais dit, j'éprouvais une sorte de remords, de regret, de fatigues de ne pas être resté seul et prêt enfin à travailler. (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)





つまり、友情はきわめてとるに足らぬものであるというのが私の考えかたであり、なんらかの天才と称せられる人たち、たとえばニーチェなどが、これにある種の知的価値を賦与するといった、したがって知的尊敬にむすびつかなかったような友情はこれを認めないといった、そのような素朴な考をもったのは、私の理解に苦しむところなのだ。

ce que je pense de l'amitié : à savoir qu'elle est si peu de chose que j'ai peine à comprendre que des hommes de quelque génie, et par exemple un Nietzsche, aient eu la naïveté de lui attribuer une certaine valeur intellectuelle et en conséquence de se refuser à des amitiés auxquelles l'estime intellectuelle n'eût pas été liée. 

そうだ、自己への誠実さに徹するあまり、良心にとがめて、ワグナーの音楽と手を切るまでになった人間が、本来つかみどころがなく妥当性を欠く表現形式であり、一般的には行為であるが個別的には友情であるこの表現形式のなかに、真実があらわされうると想像した、またルーヴルが焼けたというデマをきいて、自分の仕事をすてて友人に会いに行き、その友人といっしょに泣く、といったことをやりながら、そこに何ほどかの意味がありうると想像した、そんな例を見ると、私はいつもあるおどろきを感じてきたのである。


Oui, cela m'a toujours été un étonnement de voir qu'un homme qui poussait la sincérité avec lui-même jusqu'à se détacher, par scrupule de conscience, de la musique de Wagner, se soit imaginé que la vérité peut se réaliser dans ce mode d'expression par nature confus et inadéquat que sont, en général, des actions et, en particulier, des amitiés, et qu'il puisse y avoir une signification quelconque dans le fait de quitter son travail pour aller voir un ami et pleurer avec lui en apprenant la fausse nouvelle de l'incendie du Louvre 。


私がバルベックで若い娘たちとあそぶことに快楽を見出すにいたったのも、そういう考えかたからなので、つまりそんな快楽は、精神生活にとって友情よりも有害ではない、すくなくとも精神生活とはかかわりがないと思われたのであって、そもそも友情なるものは、われわれ自身のなかの、伝達不可能な(芸術の手段による以外は)、唯一の真実な部分を、表面だけの自我[un moi superficiel]のために犠牲にするという努力ばかりを要求するのであり、この表面だけの自我のほうは、もう一つの真実の自我のようには自己のなかによろこびを見出さないで、自分が外的な支柱にささえられ、他人から個人的に厚遇されていると感じて、つかみどころのない感動をおぼえる、そしてそういう感動にひたりながら、この表面的な自我は、そとからあたえられる保護に満悦し、その幸福感をにこにこ顔でほめたたえ、自己のなかでなら欠点と呼んでそれを矯正しようとつとめるであろうような相手の性癖のたぐいにも、目を見張って関心するのである。

J'en étais arrivé, à Balbec, à trouver le plaisir de jouer avec des jeunes filles moins funeste à la vie spirituelle, à laquelle du moins il reste étranger, que l'amitié dont tout l'effort est de nous faire sacrifier la partie seule réelle et incommunicable (autrement que par le moyen de l'art) de nous-même, à un moi superficiel, qui ne trouve pas comme l'autre de joie en lui-même, mais trouve un attendrissement confus à se sentir soutenu sur des étais extérieurs, hospitalisé dans une individualité étrangère, où, heureux de la protection qu'on lui donne, il fait rayonner son bien-être en approbation et s'émerveille de qualités qu'il appellerait défauts et chercherait à corriger chez soi-même.(プルースト 「ゲルトマントのほう」)






さて、友人もなく、歓談もないそのような生活、もっとも偉大な人たちにさえときには不幸と思われたそんな生活をすることも、私には不幸とは思われないばかりか、つぎのように自分で理解するのだった、 精神高揚のための力を友情に費すのはいわばお門違であり、そのやりかたでは、なんの得るところもなくておわる個人的友情を目ざすことになり、もともと精神高揚のための力はわれわれを真実にみちびくものであるのに、その真実からそれてしまうことになる、と。


Et bien loin de me croire malheureux de cette vie sans amis, sans causerie, comme il est arrivé aux plus grands de le croire, je me rendais compte que les forces d'exaltation qui se dépensent dans l'amitié sont une sorte de porte-à-faux visant une amitié particulière qui ne mène à rien et se détournent d'une vérité vers laquelle elles étaient capables de nous conduire. 


しかし結局、休息や社交をする合間が私に必要になってくるときがあるとしても、私に感じられるのは、社交界の人たちが作家に有益であると思う知的な会話よりも、花咲く乙女たちとの気軽な恋が、ばらの花だけで飼われていた有名な馬のように、極端にいって私の想像力にゆるされる最上の糧になるだろう、ということだった。すると突然、私の願望によみがえるのは、私がバルベックで夢みたものなのだ、まだ花咲く乙女たちと知りあいにならないころ、海のまえをアルベルチーヌやアンドレやその仲間の少女たちが通ってゆくのを見たときに、私が夢みたものなのだ。しかし、ああ! まさしくいま私がかくも強く望む少女たちにめぐりあおうとしても、それはかなえられぬことであった。


Mais enfin, quand des intervalles de repos et de société me seraient nécessaires, je sentais que, plutôt que les conversations intellectuelles que les gens du monde croient utiles aux écrivains, de légères amours avec des jeunes filles en fleurs seraient un aliment choisi que je pourrais à la rigueur permettre à mon imagination semblable au cheval fameux qu'on ne nourrissait que de roses ! Ce que tout d'un coup je souhaitais de nouveau, c'est ce dont j'avais rêvé à Balbec, quand, sans les connaître encore, j'avais vu passer devant la mer Albertine, Andrée et leurs amies. Mais hélas ! je ne pouvais plus chercher à retrouver celles que justement en ce moment je désirais si fort. (プルースト「見出された時」)







哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。

Dans philosophe, il y a « ami ». li est important que Proust adresse la même critique à la philosophie et à l'amitié. 


友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志のひとたちとして、互いに関係している。彼らは、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。

Les amis sont, l'un par rapport à l'autre, comme des esprits de bonne volonté qui s'accordent sur la signification des choses et des mots: ils communiquent sous l'effet d'une bonne volonté commune.


哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。La philosophie est comme l'expression d'un Esprit universel qui s'accorde avec soi pour déterminer des significations explicites et communicables. 


プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志  にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。La critique de Proust touche à l'essentiel : les vérités restent arbitraires et abstraites, tant qu'elles se fondent sur la bonne volonté de penser. 


慣習的なものだけが明示的である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

Seul le conventionnel est explicite. C'est que la philosophie, comme l'amitié, ignore les zones obscures où s'élaborent les forces effectives qui agissent sur la pensée, les déterminations qui nous forcent à penser.

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。


 Il n'a jamais suffi d'une bonne volonté, ni d'une méthode élaborée, pour apprendre à penser; il ne suffit pas d'un ami pour s'approcher du vrai. Les esprits ne se communiquent entre eux que le conventionnel; l'esprit n'engendre que le possible. 


哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的である。.


Aux vérités de la philosophie, il manque la nécessité, et la griffe de la nécessité. En fait, la vérité ne se livre pas, elle se trahit ; elle ne se communique pas, elle s'interprète; elle n'est pas voulue, elle est involontaire. Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci : la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire. 


『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である。


Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci : la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire. La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser» ; plus important que le philosophe, le poète. 〔・・・〕


『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。


Le leitmotiv du Temps retrouvé, c'est le mot forcer : des impressions qui nous forcent à regarder, des rencontres qui nous forcent à interpréter, des expressions qui nous forcent à penser. 〔・・・〕


われわれは、無理に強制されて、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。Nous ne cherchons la vérité que dans le temps, contraints et forcés. Le chercheur de vérité, c'est le jaloux qui surprend un signe mensonger sur le visage de l'aimé. 


それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。C'est l'homme sensible, en tant qu'il rencontre la violence d'une impression. 


それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。C'est le lecteur, c'est l'auditeur, en tant que l'œuvre d'art émet des signes qui le forcera peut.être à créer, comme l'appel du génie à d'autres génies. 


恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. 


哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。La philosophie, avec toute sa méthode et sa bonne volonté, n'est rien face aux pressions secrètes de l'œuvre d'art. 


思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。Toujours la création, comme la genèse de l'acte de penser, part des signes. L'œuvre d'art naît des signes autant qu'elle les fait naître ; le créateur est comme le jaloux, divin interprète qui surveille les signes auxquels la vérité se trahit. 

(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)



2020年10月18日日曜日

大他者なき大他者

 


L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥで、《大他者の大他者はない [Il n'y a pas d'Autre de l'Autre]》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式[forme logique S(Ⱥ) ]を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは、私に言わせれば、精神分析の大いなる秘密である[c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse]》と。〔・・・〕


この刻限は決定的転回点である。〔・・・〕ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。〔・・・〕一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。〔・・・〕


エクリ583頁には、《父の名は、シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである[le Nom-du-Père est…le signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi] 》(Lacan, É 583)とある。


あなたがたはこの定義を形式的にのみ読まなければならない。そこに見ることができる、二つの大他者、大他者の二つの地位が。それは、シニフィアンの大他者と法の大他者である[l'Autre du signifiant et l'Autre de la loi]。そして最初の大他者、つまりシニフィアンの大他者は、二番目のシニフィアン、法の大他者を含んだ形で示されている。すなわち法の大他者、これが大他者の大他者である[l'Autre de la loi, c'est l'Autre de l'Autre]。〔・・・〕


なぜラカンは、その教えの出発点で、法への情熱をもったのか。そして《大他者の大他者はいない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、言説等の)を我々に教え、この表明に到った。私はこれらの法の分類を試みよう。〔・・・〕


第一に、言語学の法[les lois linguistiques]がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィアンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法もまたある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズムとして語った。


第二に、弁証法的法[la loi dialectique]がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法が告げるのは、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ彼の存在を想定しうるということである。ラカンはこれを承認の弁証法的法[la loi dialectique de la reconnaissance]と呼んだ。


第三に、我々はラカンのなかに数学的法[les lois mathématiques]を見出す(これはある時期とてもよく用いられたが、もはや我々のものではない)。例えばラカンがその最初の図式とともに、「盗まれた手紙 la lettre volée」についてのセミネールにおいて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識的記憶にとってのモデルを提供した。


第四に、社会学的法[les lois sociologiques]がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用した同盟と親族の法である。


第五に、想定されたフロイトの法[la loi ou la supposée loi freudienne]、エディプス [Œdipe]がある。最初のラカンはそれを法へと作り上げた。すなわち、父の名は母の欲望の上に課されなければならない[le Nom-du-Père doit s'imposer au Désir de la Mère,]。その条件のみにおいて、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる[la jouissance du corps se stabilise et que le sujet accède à une expérience de la réalité qui lui sera commune avec d'autres sujets.  ]と。


さて、私は面倒を厭わず、法の5つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社会学的・フロイト的法である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐって教え始めたとき、この法の5つの領域は、彼にとって、象徴界 [le symbolique ]と呼ばれるものを構成した。〔・・・〕


なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとって法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも《法がある場にのみ科学はある[il n'y a de science que là où il y a loi]》という格言に駆り立てられていたかのようだ。〔・・・〕


しかしながら、はっきりさせておかねばならない。ラカンの教えにおいて、この法概念は、最初に駆り立てられていた後、消滅したことを。ラカンはそれを発明し導入した。それは彼の概念化にとっての基礎として現れた。象徴界・想像界・現実界のあいだの三幅対的分割の基本としてだ。だが彼はそれを保持し続けなかった。


注意しておかねばならない。この秩序の概念、法の5つの領域は混じり合わさられていることを。言い換えれば、秩序という視点からは、それらは、事実上、同じものとして現れる。数学的法、弁証法的法等であれなんであれ。〔・・・〕


法がある場には秩序がある。初期ラカンのシステムにおいて、唯一の秩序とは象徴界である。象徴的秩序 [l'ordre symbolique ]はーーもし人がこのように言うのを好むならーー想像的無秩序[le désordre imaginaire]と対立しうる。


象徴界において、各々のもの・各々の要素はその場のなかにある。正確に言えば、象徴界のなかにおいてのみ場がある。


反対に想像界においては、要素は場を入れ替える。したがって、事実上、場は区別できない。いや、要素自体が区別されうるかさえ確かでない。想像界においては、別々の、分離した要素はない。象徴界において分離した要素があるようにはない。これらの用語にて、ラカンは、自我と他者ーー外部にある自身のイメージであるだけの他者ーーとのあいだの関係を叙述した。そこでは、自我と他者の相互侵入があり、競争相手となり、戦いがあり、ただ互いの間に不安定な平等を見出すのみである。その意味で、想像界は、本質的非一貫性 [inconsistance essentielle] によって特徴づけられて現れる。ラカンはかつて想像界を《影と反映 [ombres et reflets]》のみの存在とさえ言った。


現実界に関しては、この秩序と不秩序との間の裂目の外部にあるものだ [il est en dehors du clivage entre ordre et désordre]。それは純粋で単純である。(J.-A, Miller, L'Autre sans Autre (大他者なき大他者), 2013)




象徴秩序は現実界に従属している

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的結びつきの現実界は性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. 


象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。Tant que l'ordre symbolique était conçu comme un savoir régulant le réel et lui imposant sa loi, la clinique était dominée par l'opposition entre névrose et psychose. 


象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属している。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。L'ordre symbolique est maintenant reconnu comme un système de semblants qui ne commande pas au réel, mais lui est subordonné. Un système répondant au réel du rapport sexuel qu'il n'y a pas. (J.-A. Miller, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014)




象徴界は言語である

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


言語は存在しない

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

「メタランゲージはない」とは、より格言的に言えば「大他者大他者はない」である。qu'il n'y a pas de métalangage[…]plus aphoristiquement : qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre. (ラカン, E 813, 1960年)




現実界は穴である

我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


現実界は書かれることを止めない

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

書かれることを止めないもの [un ne cesse pas de s'écrire]。これが現実界の定義 [la définition du réel] である。〔・・・〕


書かれぬことを止めないもの[ un ne cesse pas de ne pas s'écrire]。すなわち書くことが不可能なもの[ impossible à écrire]。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である[le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique ](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX  Cours du 11 février 2009)




現実界は反復強迫する

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

心的無意識のうちには、欲動蠢動Triebregungenから生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫をinneren Wiederholungszwang思い起こさせるものである。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




反復強迫は死の欲動である

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges [] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mortLacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能(トラウマの機能)に還元する。

il y a un réel pulsionnel [] je réduis à la fonction du trou.(ラカン, Réponse à une question de Marcel RitterStrasbourg le 26 janvier 1975

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel [] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel Lacan, S23, 16 Mars 1976)

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)