2020年10月23日金曜日

幼虫(ラルヴァlarva), サナギ(ピューパ pupa), 成虫(イマーゴ imago)

 



幼虫(ラルヴァlarva), サナギ(ピューパ pupa), 成虫(イマーゴ imago)

幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

 

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。


たしかに、現在からみた過去の自己像は、それが現在であった時の自己像ではありえない。つねに現在との関連によって、その重要性も文脈も内容さえも変化をこうむっている。生きるとはライプニッツの言葉を借りれば「過去を担い未来をはらむ」現在を生きることであり、記憶もつねに現在との緊張関係においてある。

 

それは個人史も社会・民族・国家の歴史も同じことである。すなわち、人間集団の歴史的事実もたえず評価が変わり、事実も評価の変化をとおして代わってゆく。ある事象はそもそも書かれなくなり、忘却のかなたに去る。長い間、ささやかな挿話にすぎなかった事象が重大な意味を帯び、その観点から調査されてディテイルがくっきりしてくる。そのは事実自体も不動ではないということである。


もう一つは、非常に多くの記憶が消滅している。個人史においても世界史においても、いたるところに空隙があり、消失がある。記憶されているのはごく一部にすぎないのが事実である。しかも、個人も人間集団も、その歴史の連続性を疑わない。少なくとも個人においては三歳以後の人生が連続しているという感覚がある。これを「自己史連続感覚」と名づけよう。

 

自己史連続感覚は多くの忘却や空隙にもかかわらずゆるがない。したがって外傷性障害における時間喪失や逆行性健忘が苦痛や困難をともなって長く「外傷的」に記憶されるのは一見ふしぎである。


「正常な時間喪失」や「正常な忘却」が異常なそれらよりも圧倒的に多量であるはずなのに、自己史連続感覚がゆるがないのはなぜであろうか。

 

二歳半から三歳半までに成立するものは成人文法性だけではない。それはより大きなものの一部分にすぎない。ここで成立するものは何であろうか。


私たちは、ここで成立する事態に、①成人文法性、②三者関係の理解(エディプス葛藤はその一例にすぎない)、③自己史連続感覚の成立、の三つを挙げることができる。


三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性contextualityである。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

 

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。


ここでは、現象的には二者の関係であっても、目に見えない第三者すなわち社会(世間)が背景として厳存する場合は三者関係とする。したがって四者以上でも三者関係に含まれる。私のいう二者関係とは「文脈以前の二者関係」あるいは絶対的な二者関係と呼んでもよかろう。バリントが「基底欠損患者」について「独特な二者関係」と呼んだものである。このタイプの患者の一例に「境界例」を挙げてもよいであろう。「境界例」性には、治療者や家族・友人が身を以て味わうように、些細な遅刻をも重大な裏切りをも同じ強度で感受し、同様に烈しく糾弾するということがある。


バリントはいみじくも、境界例患者を含む「基底欠損」患者は「通常の成人言語」common adult languageを理解しないと述べている。臨床的には、文字通りの幼児語に戻るわけではなく、妥当な文脈性(前後関係)を失った形で成人言語を使用するためにさまざまな混乱が生じるのである。成人文法性以前への復帰ではないが成人文法性の大きな障害ということはできる。それは妥当な文脈性の喪失であり、それは自己史連続感覚の障害につながる。事実、自己史は単調な反復、一種の永劫回帰としか感じられていないのではないか。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2003年『徴候・記憶・外傷』所収P167-170)