2020年10月12日月曜日

藤田博史による内田樹批判

 


藤田博史による内田樹批判、2013年

「内田樹式批判の技法」のカラクリ〔・・・〕。


つまり、最初に相手の主張を自分の都合の良いように改変する。読者に共感してもらうために、大概は「×××原理主義」であるかのように捏造する。そして捏造された「×××原理主義」の極端さや権威主義的な側面を批判する。このトリックに引っかかった読者はその語りに乗ってくる。彼の語り口は意図的に「上から目線」ではなく「下から目線」であるかのようになされ、日常のなかで「上から目線」で圧迫を受けている人たちの共感を引き出す。そして、わたしは読者の味方ですよ、原理主義、上から目線、いやですね~、と読者を引き寄せる。あらかじめ自分で批判用に捏造しているのだから、批判できるのは当たり前である。

つまり内田樹が誰かを批判する場合、その手口は一定のパターンがある。それはこんな風だ。原理主義的仮想敵の捏造→原理主義に対する批判→自分は極端に走らないバランスの取れた人間だという自己宣伝、で結ぶ。あらかじめ読者を味方につけるために、意図的に相手の主張を都合よく捏造する。ここに見られるのは「自作自演」という常習的に嘘をつくという病的な傾向をもった人たちがよく使う手法とまったく同じである。

次に指摘されるのは、文章のなかに頻繁に登場する「私」である。うんざりする。とにかくこの「私」の登場回数は半端ではない。特に持論を展開する時など頻繁にしゃしゃり出てくる。特に多いのが「私は」で始まるフレーズだ。勘弁して欲しい。もう少し「私」を削った文章が書けないものだろうか。〔・・・〕

知的な人間を装った虚しいおしゃべりのなかで、空想と捏造を交えていろんなことを論じているが、注意深く読んでゆくと、引用の一つ一つの客観性が見えてこない。括弧で括ったりして引用の体裁を取ってはいるが、肝腎の出典が殆ど示されていないのだ。むしろ、一見引用に見えるものが実は引用ではなく、自分に都合の良いように書き換えられ、捏造された「偽引用」であることがわかる。つまり、引用に見せかけて、自分が反論しやすい形にすでに相手の主張を改竄し、作話している。冒頭で見たように、わたしが書いたこともないような言葉が、丁寧に括弧で括られて、藤田の主張となっているのがその良い例だ。わたしの著作を読んだことのない人がこの捏造された言葉を信じてしまったとしたら、これは、読者に対する一種の洗脳であり、学問に対する冒涜である。

以上をまとめると以下のようになる。


内田樹の文章は、客観性に乏しく、一人芝居的。殆どの話題や対象は、自分流に改変され、あたかも幼児が玩具を自分の周りに散らかして、そのなかで空想物語を作り続けているようだ。自分の空想のなかで、対象どうしの関係を想像的に決めて語り続ける。語りは「私は~」という一人称で連続してゆく。つまり、論考自体が自閉的な性質を持っている。精神分析ではこういう語りを「想像的ディスクール」と呼んでいる。すべての価値は判断主体である「私」との双数的関係のなかで決まっており、何でも言えるし、何を言っても仕方のない領野である。

したがって、「私」の物語は外部に向かって開かれていないので、時々その信憑性を確かめたくなって、外の世界にちょっかいを出すのだろう。そしてすぐ自分の殻のなかへと避難する。子供がよくやる「ピンポンダッシュ」に見られるような、幼児的な自我の防衛機制である。実際に呼び鈴を押されてとばっちりを食らったのが上野千鶴子氏であり、わたしである。

最後に、内田樹の心性を精神病理学的に推察すれば、彼の自閉的な一連の行為の背後には、おそらく幼い頃に味わった強烈な劣等感が潜んでいるのではないかと強く推測される。さもなければ、彼の理不尽なまでの不必要な外部への攻撃とすぐさまの逃避は説明がつかないだろう。人生の黎明期に味わった劣等感を、歳を取ってから克服するために、迷惑なことにレヴィナスが利用され、合気道でカモフラージュされている。ちゃっかり利用しているので「ちゃっかりおじさん」と呼びたくなるくらいだ。この二つの社会性を持った名札を胸に付けて、自閉のドアを開いて外へ出ようとするが、もともとレヴィナスも自己流に改変されているから、まともな批判は受けたくない。したがって、常に空想のなかで語るしかなく、論考は常に想像的なものであり、結局、客観的な論の運びができないままだ。

そこで編み出されたのが「ゆるいキャラ、決定しないキャラ」である。「わからない」と言い訳しながら、語り続ける。わたしはこれを植木等主演映画の「無責任」キャラに喩えた。この手の知識人が一番厄介だ。

いずれにせよ、賢明な読者であれば、彼の専門書においてすら、読み終わった後、論理ではなく思い込みが、見せかけばかりが撒き散らされていて、結局、肝腎なことは何も言われていない、ということに気づくだろう。端的にいえば彼の著作は自閉的自我の空想によるサンブラン(見せかけ)で構成されている。


もしフロイトが生きていて、日本語が読めたならば、内田樹の本は、批判と自己擁護、つまり幼児的な他者廃棄と自閉的自我の確認作業の産物であることを見抜くだろう。そして、彼の話術に化かされ、幼児的空想という一個人の排泄物を、美味しい美味しいと食べさせられている人たちに、そろそろ誰かが警鐘を鳴らさなければならない時が来ているのかも知れない。