2020年10月5日月曜日

心の間歇文献

 

◼️プルースト「心の間歇 intermittence du cœur」の章(『ソドムとゴモラ』1921年、井上究一郎訳)より(「心情の間歇」➡︎「心の間歇」のみ変更)


私の全人間の転倒

私の全人間の転倒 Bouleversement de toute ma personne.。夜がくるのを待ちかねて、疲労のために心臓の動悸がはげしく打って苦しいのをやっとおさえながら、私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられて、どっと目から涙が流れた。いま私をたすけにやってきて魂の枯渇を救ってくれたものは、数年前、おなじような悲しみと孤独のひとときに、自我を何ももっていなかったひとときに、私のなかにはいってきて、私を私自身に返してくれたのとおなじものであった、自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi (内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器 le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait)だったのだ。

無意志的で完全な回想のなかの祖母の生きた実在

私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった。彼女が病気の発作を起こしたあのシャン=ゼリゼ以来はじめて、無意志的で完全な回想 souvenir involontaire et complet のなかに、祖母の生きた実在 réalité vivanteを見出したのだ。そのような実在 réalité は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない(そうでないなら、大規模な戦闘に加わった人間はことごとく偉大な叙事詩人になるはずだ)、こうして私は、彼女の腕のなかにとびこみたいはげしい欲望にかきたてられ、たったいまーーその葬送後一年以上も過ぎたときに、しばしば事実のカレンダーを感情のそれに一致させることをさまたげるあの時間の錯誤のためにーーはじめて祖母が死んだことを知ったのだ。

われわれの魂の総体の架空の価値

なるほどあれ以来、たびたび彼女のことを語り、また彼女のことを思った、しかし恩知らずな、利己主義な、冷酷な若者の私の言葉や思考の底には、祖母に似たものは何一つなかった、なぜなら、浮薄で、快楽を好む私、病気の彼女を見慣れていた私は、自分のなかに、彼女の在世のころの回想を、仮の状態でしか入れていなかったからだ。いつどんなときに考察しても、われわれの魂の総体などというものは、ほとんど架空の価値しかもたないものであるnotre âme totale n'a qu'une valeur presque fictive。そこにふくまれている富の明細書がいくらあってもそれを全体としてとらえることはできない、かならずどこか一方に、不渡りがあるからである。このことはまた、想像の内容についても、現実の内容についても同様で、私の場合、たとえばゲルマントの古い名についても、さらにどれほどか重要な祖母の真の思出についても、おなじことがいえた。

記憶の混濁と心の間歇

というのも、記憶の混濁 troubles de la mémoire には心の間歇 les intermittences du cœur がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか苦痛とかのすべて tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleursが、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている瓶[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。同様に、そんなよろこびや苦痛が、姿を消したり、舞いもどってきたりすると思うのも、おそらく正しくないであろう。とにかく、そうしたものがわれわれのなかに残っているとしても、多くの場合、それはしらじらしい領域に、もうわれわれにとってなんの役にも立たないものになって残っているだけであって、そのなかでもっとも役に立つものさえ、ちがったさまざまな種類の回想の逆流を受けるわけであり、それとてもまた、元の感情との同時性は、意識のなかでは全然望まれないのである。

祖母が私のほうに身をかがめたあの瞬間

ところが、よろこびや苦痛のはいっている感覚の枠ぶちがふたたびとらえられるならば、こんどはそのよろこびや苦痛は、相容れない他人をすべて排斥して、ただ一つ生みの親である自我をわれわれのなかに定着する力をもつものである。ところで先ほど、たちまち私に復帰した自我は、祖母がバルベックに着いたときに、上着と靴とのボタンをとってくれたあの遠い晩以来あらわれたことがなかったので、祖母は私のほうに身をかがめたあの瞬間 la minute où ma grand'mère s'était penchée vers moi.にいま私がぴったり一致したのは、あの自我のかかわり知らぬきょうのひるの一日のあとにではなくーー時のなかにはいくつものちがった系列が並行して存在するかのようにーー時間の連続を中断することなしに、ごく自然に、かつてのバルベック到着第一夜ののちに、じかにつづいてであった。

長いあいだ失っていた当時の自我

あんなに長いあいだ失っていた当時の自我は、いまふたたび私に非常に近くせまった[Le moi que j'étais alors, et qui avait disparu si longtemps, était de nouveau si près de moi ので、はっきり目のさめない人が、消えてゆく夢を追いながら、その夢のなかの物音をごく身近に感じるように、上着と靴とをぬがせてくれる直前に祖母の口から出た、いまではもう夢でしかない言葉までが、まだきこえるような気がした。私はもはや、祖母の腕のなかにとびこんで、接吻しながら、彼女の心配そうな表情を消そうとしている存在でしかなかった、そういう存在を、もし私が、しばらくまえまで私のなかに継起していた存在のままで想像するとしたら、ずいぶん困難であっただろうし、同様に、いま、もし私が、すくなくともひとときもはや私を離れている元の存在の、欲求やよろこびを感じようとすれば、やはり努力を、それも空しい努力を要したであろう。

祖母をふたたび見出したことによって、永久に祖母を失ってしまった

私は思いだすのだった、祖母が買物先から帰ってきて、ガウンを着てあのように私の半長靴のほうに身をかがめてくれるまでの一時間というもの、暑さに息づまりそうなホテルのまえの通をあちこちしながら、菓子屋の店先で、一刻も早く彼女の接吻を受けたい欲求に、もうこれ以上ひとりで待っていることはとてもできないとどんなに思いつめたかを。そして、そのおなじ欲求がふたたびあらわれたいま、私は知るのだった、いまの私は何時間でも待つことができるのに、祖母はもう二度と私のそばに帰ってこないことを、それがやっとわかったのは、いまにも張りさけるばかりに胸を詰まらせながら、はじめて、生きた、真の、祖母を感じたことによって、つまり彼女をふたたび見出したことによって、永久に彼女を失ってしまったと気づいたからである en la retrouvant enfin, d'apprendre que je l'avais perdue pour toujour。

(中略)

祖母に口走ったひどい言葉

しばらくのあいだ味わった先ほどの快感にひきかえて、いま私が味わうことのできるものがあるとすれば、それはただ一つ、過去にふたたびふれながら、あのときの祖母の心痛をすくなくしてやれたらretouchant le passé, de diminuer les douleurs que ma grand'mère avait autrefois ressentiesと思うことだった。ところで、私が思いうかべたのは、単に彼女のあのガウン姿、おそらくからだのためによくなかったろうに私のためにする苦労ならかえって心地よさそうにさえ見える疲れた彼女の、そんな場合のつきものであり、ほとんど象徴となってしまったあのガウン姿、それだけの祖母ではなくて、いまや私の回想は次第にほぐれ、自分の苦しみを彼女の目に入れ、いざとなればむりにも苦しみを誇張して見せつけながら、祖母を心配させてそのあと自分の接吻でぬぐいとれるものと想像し、自分のそうしたやさしさが、自分の幸福とおなじように彼女の幸福をもつくりだすことができると思って、あらゆる機会をとらえたのを思いだしたのだ。

それよりももっとわるいことは、いまでこそ回想のなかで、盛りあがる愛情にかしげられたあの顔の傾きをふたたび見ながら、せめてそれがよろこびの色をたたえていてくれたらそれにまさる幸福はないだろうとくやむ私が、かつてはあの顔から、無謀にもいささかの快感の影さえ根こぞぎにしようとして躍起になったことがあったのであって、たとえば、サン=ルーが祖母の写真をとってくれたときがそうであったが、その日、大きなふちの帽子をかぶり、自分に適した薄あかりのなかにポーズをしようとして祖母のつくり嬌姿がほとんどこっけいなまでい子供っぽいのを、祖母にだまっていることができなくて、思わず私は、人を傷つけるような言葉を、いらだたしげに、二こと三こと口走ったのだったが、それが祖母の神経にひびいて、彼女の感情を害したらしく、つとしかめた顔に私はそれを読みとったのだった、惜気もなくあたえられたあの接吻のなぐさめを求めることが永久に不可能となったいま、自分の口走ったひどい言葉に身をさかれるのはこの私だった。je m'étais laissé aller à murmurer quelques mots impatientés et blessants, qui, je l'avais senti à une contraction de son visage, avaient porté, l'avaient atteinte ; c'était moi qu'ils déchiraient, maintenant qu'était impossible à jamais la consolation de mille baisers.

祖母の記憶を打ちこんでいるこの釘

しかし、あのしかめ面、あの祖母の心の苦しみは、いつまでも消しさることができないであろう、いや消しされないのはむしろ私の心の苦しみだった、なぜなら、死んだ人たちは、もはやわれわれのなかにしか存在しないので、彼らに加えた打撃を執拗に思いだすとき、われわれはたえず自身を打ちのめすことになるからである。そうした苦痛がどんなに残酷であっても、私はそれに懸命いかじりつくのであった、その苦痛こそ、祖母の回想の結果であり、祖母の回想がたしかに私のなかにあらわれているという証拠であることを、自分に切実に感じたからである。私は感じるのだった、祖母を真に思いだすのはもはや苦痛によってでしかないことを、それならば、祖母の記憶を打ちこんでいるこの釘が、もっとしっかり私のなかに食い入ってくれればいい。j'aurais voulu que s'enfonçassent plus solidement encore en moi ces clous qui y rivaient sa mémoire.

私のなかで交錯する残存者と虚無とのふしぎな矛盾

彼女の写真に(サン=ルーがとってくれて、私が肌身離さずもっている写真に)、わかれていても生き生きとした個性をつたえ、つきない調和にむずばれて心に残る、そういう親しい人にたいするように、言葉をかけたり祈をささげたりしながら、苦しみをもっとやわらげ、それを美化し、祖母が単に不在でしばらく姿を見せないだけであると想像する、そういうことにつとめようとは私はしなかった。けっしてやらなかった、なぜなら、単に苦しむことをねがっただけではなく、私が受けた苦しみの独特さを、私がふいに、無意志で、それを受けた状態のままで、尊敬してゆこうとしたからだ、そして、私のなかで交錯する残存者と虚無とのそのようなふしぎな矛盾 contradiction si étrange de la survivance et du néant entre-croisés en moi が立ちあらわれるたびに、私は自分の苦しみがもつ掟にしたがって、いつまでもその苦しみを受けてゆこうと思ったからだ。

いまは解きにくい、ひどい苦痛の、この印象から、いつか多少の真理をひきだすようになるかどうかはたしかではなかったが、万一わずかの真理をいつかひきだすことができるとしたら、それは、理知によって強められることもなく、無気力によって減じることのない、特異な、偶発的な、この印象からでしかありえないであろうこと、とにかく死そのものが、死の突然の啓示が、稲妻のようにくだって、ふしぎな無慈悲な記号で、二つにさけた、神秘なみぞのように、私のなかにうがってしまったこの印象からでしかありえないであろうことを知るのだった。(祖母を思わずに暮らしてきたいままでの忘却はといえば、そこから真理をひきだすためにそれに心を傾けようとは考えることさえできなかった。それもそのはずで、忘却そのもののなかには否定よりほかの何物もなく、そこには、人生の真実を再生することができない思考の衰退、真実の瞬間のかわりに習慣的なよそよそしい映像を置きかえなくてはならないような思考の衰退があるばかりだ。) 

残存者と虚無との痛ましい再統合 

しかし一方、生存本能、苦痛をまぬがれようとする巧妙な理知が、まだくすぶっている余燼の上に、早くも抜目のない、無気味な基礎工事をはじめたのであろう、私はいとしいひとの判断をあれやこれやと思いだし、あたかも彼女がまだやさしい指図をしてくれるかのように、まだ彼女が生存しているかのように、あたかも自分がまだ彼女のために生きつづけているかのように、彼女のさまざまな判断を思いだして、そのあまいなぐさめにむさぼりつこうとするのだ。

しかし、やっと私が寝入った瞬間、そして私の目が外界の事物にたいしてとじられてしまったいっそう真実な時間に私がはいったとたんに、睡眠の世界は(その敷居に立つと理知も意志もしばらくその機能を失い、私の真の印象の凶暴さから私を救うことができなかった)、神秘なあかりに照らされる内臓の、半透明となった組織の深部に、残存者と虚無との痛ましい再統合 douloureuse synthèse de la survivance et du néant のすがたを反映し、屈折させた。睡眠の世界では、内的知覚は器官の障害に従属していて、心臓や呼吸のリズムを早める、なぜならおなじ分量のおどろきや、悲しみや、悔も、たとえば静脈に注射されていると、百倍の強さになってはたらくからである、そうした地下都市の大動脈をめぐろうとして、あたかもあの六つにわかれて蜿蜒とうねる冥界の「忘却の河〔レーテーLéthé〕」を行くように、自分の血の黒い波の上に船出したと思うと、荘重な崇高な人の顔がつぎつぎにあらわれ、近づいては、われわれを涙にかきくれさせながら遠ざかってゆくのだ。私は薄ぐらいポーチの下につぎつぎと駆けよっては祖母の顔を空しく探し求めた……(プルースト「心の間歇 intermittence du cœur」の章(『ソドムとゴモラ』1921年、井上究一郎訳)



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心の間歇と解離された異物(排除された異物)の反復

「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年『日時計の影』所収)

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。〔・・・〕


解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


自我から分離された異物(異者としての身体 Fremdkörper)


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こす。ヒステリー はほとんどの場合、レミニサンスに苦しむのである。


das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […]  der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

個人の初期の記憶痕跡は、その個人のなかに保存されている。しかし独特な心理学的条件でである。…忘却されたもの は消滅されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗リビドー(対抗備給 Gegenbesetzungen)により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離されている。


Die Erinnerungsspur des früh Erlebten ist in ihm erhalten geblieben, nur in einem besonderen psychologischen Zustand. […] Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«, seine Erinnerungsspuren sind in aller Frische vorhanden, aber durch »Gegenbesetzungen« isoliert. […] Sie können sind unbewußt, dem Bewußtsein unzugänglich. Es kann auch sein, daß gewisse Anteile des Verdrängten sich dem Prozeß entzogen haben, der Erinnerung zugänglich bleiben, gelegentlich im Bewußtsein auftauchen, aber auch dann sind sie isoliert, wie Fremdkörper außer Zusammenhang mit dem anderen. (フロイト『モーセと一神教』1939年)





排除された現実界の外立(現実界の応答)

排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel   (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne,  3 JUIN 1987)

「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(Lacan, S23, 10 Février 1976)

享楽は外立するla jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (Lacan, S22, 11 Février 1975)


異物のレミニサンス(異者のレミニサンス)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

モノをフロイトは異者(異物)とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscenceと呼ばれるものによって。Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. […] Disons que c'est un forçage.  [] c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)




異者は私自身だった、幼少の私だった 

l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors

最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつは、と自問したのだった。その見知らぬやつは、私自身だった、当時の少年の私だった。そんな私を、いまこの本が私のなかにさそいだしたのだ、というのも、この本は、私についてはそんな少年しか知らないので、この本がただちに呼びだしたのもそんな少年であり、その少年の目にしか見られたくない、彼の心にしか愛されたくない、彼にしか話しかけたくない、とそうこの本は思ったからなのだ。コンブレーで、ほとんど朝まで、私の母が声高に読んでくれたこの本は、だから、その夜の魅力のすべてを、私のために保存していたのだ。


Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, que le livre venait de susciter en moi, car de moi ne connaissant que cet enfant, c'est cet enfant que le livre avait appelé tout de suite, ne voulant être regardé que par ses yeux, aimé que par son cœur et ne parler qu'à lui. Aussi ce livre que ma mère m'avait lu haut à Combray, presque jusqu'au matin, avait-il gardé pour moi tout le charme de cette nuit-là. (プルースト「見出された時」井上究一郎訳 p345)




心の間歇という遅発性トラウマ障害

たとえば総題が『心の間歌』、第一巻が副題『失われた時』、二巻目の副題が『永遠の崇拝』、第三巻の副題が『見出された時』です。(プルースト、ガリマールへの手紙、1912年11月)

遅発性の外傷性障害がある。〔・・・〕これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)


トラウマ:不変の刻印として永続する記憶

PTSDに定義されている外傷性記憶〔・・・〕それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)




身体の出来事という不変の個性刻印の反復強迫

幼児期に起こるトラウマは、自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


トラウマへの固着=享楽の固着

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

フロイトが固着と呼んだものは、…享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)




享楽の固着=リビドーの固着

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドー の可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)


幼児期の純粋な出来事的経験は、リビドーの固着を置き残す傾向がある[daß rein zufällige Erlebnisse der Kindheit imstande sind, Fixierungen der Libido zu hinterlassen].(フロイト 『精神分析入門』 第23 講 「症状形成へ道」1917年)

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


リビドー 固着の残滓という異者

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

いわゆる享楽の残滓 [reste de jouissance]。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。(J.-A. MILLER,  - Orientation lacanienne III-  5/05/2004)












想像界の享楽=自我の享楽

自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)


大他者の享楽=身体の享楽

ファルス享楽とは身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。la jouissance phallique [JΦ] est hors corps,  la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique,  (ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

大他者は身体である!L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)


身体の享楽=異者としての身体の享楽

大他者の享楽は、自己身体の享楽以外の何ものでもない。La jouissance de l'Autre, […] il n'y a que la jouissance du corps propre. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009)

自己身体の享楽はあなたの身体を異者としての身体にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté.](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)



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プルースト的精神医学

もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。〔・・・〕先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つにちがいないが、著者自身が小説全体の題に「心の間歇」を考えていた時期があることをみれば、まず、この概念を取り上げるのが正当だろう。フロイトの「抑圧」に対して「解離」を重視するのがピエール・ジャネにはじまる十九世紀フランス精神医学である。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)