2020年10月17日土曜日

すべて愛と呼ばれるもの

 


すべて愛と呼ばれるもの 

所有欲(貪欲)と愛 Habsucht und Liebe、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じを我々にあたえることだろう! ―だがしかしそれらは同一の衝動 Trieb なのによびかたが二様になっているのかもしれぬ。つまり一方のは、すでに所有している者ーーこの衝動がどうやら鎮まって今や自分の「所有物 Habe」が気がかりになっている者ーーの立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが「善」として賛美された呼び名であるかもしれない。我々の隣人愛ーーそれは新しい所有権への衝迫 Drang nach neuem Eigenthum ではないか? 知への愛、真理への愛 Liebe zum Wissen, zur Wahrheit も、同様そうでないのか? およそ目新しいものごとへのあの衝迫 Drang の一切が、そうでないのか? ……


我々は古いもの、安全に所有しているものにしだいに退屈し、ふたたび手を伸ばすようになる。最も美しい風景でさえも三カ月住めば、もはや我々の愛を確保しない。そして遠くの海辺が所有欲を刺激するselbst die schönste Landschaft, in der wir drei Monate leben, ist unserer Liebe nicht mehr gewiss, und irgend eine fernere Küste reizt unsere Habsucht an。所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなるのである der Besitz wird durch das Besitzen zumeist geringer。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものをわれわれ自身のなかへ取り入れ、変化させることによって維持しようとする。所有するとは、まさにそういうことだ。


所有への衝迫 Drang nach Eigenthum としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛 Liebe der Geschlechter である。愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。…


われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーつまり性愛 Geschlechtsliebe のこういう荒々しい所有欲(貪欲)Habsucht と不正 Ungerechtigkeitが、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーという事実に、である。…


だがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継続 Fortsetzung der Liebe がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求 habsüchtige Verlange がある新しい熱望と所有欲 neuen Begierde und Habsuchtに、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの共同の高次の渇望 höheren Durste に道をゆずる、といった風の愛の継続である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか? 誰がこの愛を体験したろうか? この愛の本当の名は友情Freundschaftである。(ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)




女の愛憎を恐れるがよい

女が愛するときは、男はその女を恐れるがいい。愛するとき、女はあらゆる犠牲をささげる。そしてほかのいっさいのことは、その女にとって価値を失う。


Der Mann fürchte sich vor dem Weibe, wenn es liebt: da bringt es jedes Opfer, und jedes andre Ding gilt ihm ohne Werth.


女が憎むときは、男はその女を恐れるがいい。なぜなら、魂の底において、男は「たんなる悪意の者 Seele nur böse」であるにとどまるが、女は「悪 schlecht」(何をしでかすかわからない)だから。


Der Mann fürchte sich vor dem Weibe, wenn es hasst: denn der Mann ist im Grunde der Seele nur böse, das Weib aber ist dort schlecht.


女はどういう男をもっとも憎むか。――鉄が磁石に言ったことがある。「わたしがおまえをもっとも憎むのは、おまえがわたしを引きながらも、ぐっと引きよせて離さぬほどには強く引かないからだ」と。


Wen hasst das Weib am meisten? - Also sprach das Eisen zum Magneten: "ich hasse dich am meisten, weil du anziehst, aber nicht stark genug bist, an dich zu ziehen."(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)





※付記


プルーストの小説の話者による友情批判

…つまり、友情はきわめてとるに足らぬものであるというのが私の考えかたなので、なんらかの天才と称せられる人たち、たとえばニーチェなどが、これにある種の知的価値を賦与するといった、したがって知的尊敬にむすびつかなかったような友情はこれを認めないといった、そのような素朴な考をもったのは、私の理解に苦しむところなのだ。


そうだ、自己への誠実さに徹するあまり、良心にとがめて、ワグナーの音楽と手を切るまでになった人間が、本来つかみどころがなく妥当性を欠く表現形式であり、一般的には行為であるが個別的には友情であるこの表現形式のなかに、真実があらわされうると想像した、またルーヴルが焼けたというデマをきいて、自分の仕事をすてて友人に会いに行き、その友人といっしょに泣く、といったことをやりながら、そこに何ほどかの意味がありうると想像した、そんな例を見ると、私はいつもあるおどろきを感じてきたのである。


私がバルベックで若い娘たちとあそぶことに快楽を見出すにいたったのも、そういう考えかたからなので、つまりそんな快楽は、精神生活にとって友情よりも有害ではない、すくなくとも精神生活とはかかわりがないと思われたのであって、そもそも友情なるものは、われわれ自身のなかの、伝達不可能な(芸術の手段による以外は)、唯一の真実な部分を、表面だけの自我のために犠牲にするという努力ばかりを要求するのであり、この表面だけの自我のほうは、もう一つの真実の自我のようには自己のなかによろこびを見出さないで、自分が外的な支柱にささえられ、他人から個人的に厚遇されていると感じて、つかみどころのない感動をおぼえる、そしてそういう感動にひたりながら、この表面的な自我は、そとからあたえられる保護に満悦し、その幸福感をにこにこ顔でほめたたえ、自己のなかでなら欠点と呼んでそれを矯正しようとつとめるであろうような相手の性癖のたぐいにも、目を見張って関心するのである。(プルースト 「ゲルトマントのほうⅡ」 井上究一郎訳)