2020年10月18日日曜日

大他者なき大他者

 


L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥで、《大他者の大他者はない [Il n'y a pas d'Autre de l'Autre]》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式[forme logique S(Ⱥ) ]を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは、私に言わせれば、精神分析の大いなる秘密である[c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse]》と。〔・・・〕


この刻限は決定的転回点である。〔・・・〕ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。〔・・・〕一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。〔・・・〕


エクリ583頁には、《父の名は、シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである[le Nom-du-Père est…le signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi] 》(Lacan, É 583)とある。


あなたがたはこの定義を形式的にのみ読まなければならない。そこに見ることができる、二つの大他者、大他者の二つの地位が。それは、シニフィアンの大他者と法の大他者である[l'Autre du signifiant et l'Autre de la loi]。そして最初の大他者、つまりシニフィアンの大他者は、二番目のシニフィアン、法の大他者を含んだ形で示されている。すなわち法の大他者、これが大他者の大他者である[l'Autre de la loi, c'est l'Autre de l'Autre]。〔・・・〕


なぜラカンは、その教えの出発点で、法への情熱をもったのか。そして《大他者の大他者はいない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、言説等の)を我々に教え、この表明に到った。私はこれらの法の分類を試みよう。〔・・・〕


第一に、言語学の法[les lois linguistiques]がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィアンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法もまたある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズムとして語った。


第二に、弁証法的法[la loi dialectique]がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法が告げるのは、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ彼の存在を想定しうるということである。ラカンはこれを承認の弁証法的法[la loi dialectique de la reconnaissance]と呼んだ。


第三に、我々はラカンのなかに数学的法[les lois mathématiques]を見出す(これはある時期とてもよく用いられたが、もはや我々のものではない)。例えばラカンがその最初の図式とともに、「盗まれた手紙 la lettre volée」についてのセミネールにおいて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識的記憶にとってのモデルを提供した。


第四に、社会学的法[les lois sociologiques]がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用した同盟と親族の法である。


第五に、想定されたフロイトの法[la loi ou la supposée loi freudienne]、エディプス [Œdipe]がある。最初のラカンはそれを法へと作り上げた。すなわち、父の名は母の欲望の上に課されなければならない[le Nom-du-Père doit s'imposer au Désir de la Mère,]。その条件のみにおいて、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる[la jouissance du corps se stabilise et que le sujet accède à une expérience de la réalité qui lui sera commune avec d'autres sujets.  ]と。


さて、私は面倒を厭わず、法の5つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社会学的・フロイト的法である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐって教え始めたとき、この法の5つの領域は、彼にとって、象徴界 [le symbolique ]と呼ばれるものを構成した。〔・・・〕


なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとって法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも《法がある場にのみ科学はある[il n'y a de science que là où il y a loi]》という格言に駆り立てられていたかのようだ。〔・・・〕


しかしながら、はっきりさせておかねばならない。ラカンの教えにおいて、この法概念は、最初に駆り立てられていた後、消滅したことを。ラカンはそれを発明し導入した。それは彼の概念化にとっての基礎として現れた。象徴界・想像界・現実界のあいだの三幅対的分割の基本としてだ。だが彼はそれを保持し続けなかった。


注意しておかねばならない。この秩序の概念、法の5つの領域は混じり合わさられていることを。言い換えれば、秩序という視点からは、それらは、事実上、同じものとして現れる。数学的法、弁証法的法等であれなんであれ。〔・・・〕


法がある場には秩序がある。初期ラカンのシステムにおいて、唯一の秩序とは象徴界である。象徴的秩序 [l'ordre symbolique ]はーーもし人がこのように言うのを好むならーー想像的無秩序[le désordre imaginaire]と対立しうる。


象徴界において、各々のもの・各々の要素はその場のなかにある。正確に言えば、象徴界のなかにおいてのみ場がある。


反対に想像界においては、要素は場を入れ替える。したがって、事実上、場は区別できない。いや、要素自体が区別されうるかさえ確かでない。想像界においては、別々の、分離した要素はない。象徴界において分離した要素があるようにはない。これらの用語にて、ラカンは、自我と他者ーー外部にある自身のイメージであるだけの他者ーーとのあいだの関係を叙述した。そこでは、自我と他者の相互侵入があり、競争相手となり、戦いがあり、ただ互いの間に不安定な平等を見出すのみである。その意味で、想像界は、本質的非一貫性 [inconsistance essentielle] によって特徴づけられて現れる。ラカンはかつて想像界を《影と反映 [ombres et reflets]》のみの存在とさえ言った。


現実界に関しては、この秩序と不秩序との間の裂目の外部にあるものだ [il est en dehors du clivage entre ordre et désordre]。それは純粋で単純である。(J.-A, Miller, L'Autre sans Autre (大他者なき大他者), 2013)




象徴秩序は現実界に従属している

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的結びつきの現実界は性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. 


象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。Tant que l'ordre symbolique était conçu comme un savoir régulant le réel et lui imposant sa loi, la clinique était dominée par l'opposition entre névrose et psychose. 


象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属している。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。L'ordre symbolique est maintenant reconnu comme un système de semblants qui ne commande pas au réel, mais lui est subordonné. Un système répondant au réel du rapport sexuel qu'il n'y a pas. (J.-A. Miller, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014)




象徴界は言語である

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


言語は存在しない

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

「メタランゲージはない」とは、より格言的に言えば「大他者大他者はない」である。qu'il n'y a pas de métalangage[…]plus aphoristiquement : qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre. (ラカン, E 813, 1960年)




現実界は穴である

我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


現実界は書かれることを止めない

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

書かれることを止めないもの [un ne cesse pas de s'écrire]。これが現実界の定義 [la définition du réel] である。〔・・・〕


書かれぬことを止めないもの[ un ne cesse pas de ne pas s'écrire]。すなわち書くことが不可能なもの[ impossible à écrire]。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である[le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique ](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX  Cours du 11 février 2009)




現実界は反復強迫する

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

心的無意識のうちには、欲動蠢動Triebregungenから生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫をinneren Wiederholungszwang思い起こさせるものである。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




反復強迫は死の欲動である

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges [] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mortLacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能(トラウマの機能)に還元する。

il y a un réel pulsionnel [] je réduis à la fonction du trou.(ラカン, Réponse à une question de Marcel RitterStrasbourg le 26 janvier 1975

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel [] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel Lacan, S23, 16 Mars 1976)

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)