2021年4月25日日曜日

欲動の表象代理[Vorstellungs-repräsentanz des Triebes]について

 


フロイトの原抑圧とは引力 [Anziehung]、アトラクターである。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。

die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


ラカンはこう言っている。


私は、フロイトは抑圧されたものにおいて、抑圧が表象の秩序に関わるものであることを主張し強調している、と言ったが、彼は(抑圧論文では)それが表象であるとは言わなかった。フロイトが言ったのは表象代理[Vorstellungsrepräsentanz]である。

J'ai dit, FREUD dans le refoulé, insiste, accentue, c'est que le refoulement porte sur quelque chose qui est de l'ordre de la représentation, mais il n'a pas dit que c'était la représentation. Il a dit que c'était le Vorstellungsrepräsentanz.  〔・・・〕


抑圧……これが何を意味するかは、我々の理論で確認するとして...可能な限り、他の場所をさまよい歩く。

La Verdrängung… et nous verrons ce que ceci  veut dire dans notre théorie …va se promener ailleurs, là où il peut.  


抑圧されたものは、欲望の表象されたもの・意味作用ではなく、表象代理なのである[que ce qui est refoulé, ce n'est pas le représenté du désir,  la signification, que c'est le représentant de la représentation. ]〔・・・〕


表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした[Le Vorstellungsrepräsentanz,… il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements ](ラカン, S11, 03 Juin 1964


このラカンの発言は『抑圧』論文に依拠している。フロイトはそこで、引力[Anziehung]という語を出しつつ、表象代理[ Vorstellungsrepräsentanz]を、欲動の表象代理 [Vorstellungs-repräsentanz des Triebes]、あるいは欲動代理[Triebrepräsentanz]としている。


われわれには原抑圧、つまり欲動の心的(表象-)代理[psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes]が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着[Fixerung]が行われる。すなわち、その欲動の表象代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束される。


Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden. 〔・・・〕


重要なのは、原抑圧を受けたものが、それと接触しうる可能性のあるすべてのものにおよぼす引力 [Anziehung]である。Es kommt ebensosehr die Anziehung in Betracht, welche das Urverdrängte auf alles ausübt, womit es sich in Verbindung setzen kann. 〔・・・〕


欲動代理は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、よりいっそう自由に豊かに展開する。それはいわば暗闇に蔓延り[wuchert dann sozusagen im Dunkeln ]、極端な表現形式を見いだし、異者[fremd]のようなものして現れる。

die Triebrepräsentanz sich ungestörter und reichhaltiger entwickelt, wenn sie durch die Verdrängung dem bewußten Einfluß entzogen ist. Sie wuchert dann sozusagen im Dunkeln und findet extreme Ausdrucksformen, […] fremd erscheinen müssen(フロイト『抑圧』1915年)



ここで確認の意味で、抑圧論文と同じ年に書かれた無意識論文からも引用しておこう。


われわれは意識的表象と無意識的表象[bewußte und unbewußte Vorstellungen]とがあるだろうといったが、無意識的な欲動興奮[unbewußte Triebregungen]、感情、感覚といったものもあるだろうか? あるいはこの場合には、このような複合語を形成するのは無意味なのであろうか?


私はじっさい、意識的と無意識的という対立は、欲動には適用されないと考える。欲動は、意識の対象とはなりえない。ただ欲動を代理している表象だけが、意識の対象となりうるのである[Ich meine wirklich, der Gegensatz von bewußt und unbewußt hat auf den Trieb keine Anwendung. Ein Trieb kann nie Objekt des Bewußtseins werden, nur die Vorstellung, die ihn repräsentiert]


けれども欲動は、無意識的なもののなかでさえも、表象代理されるしかない[Er kann aber auch im Unbewußten nicht anders als durch die Vorstellung repräsentiert sein. ]

欲動が表象に付着するか、あるいは一つの情動状態としてあらわれるかしなければ、欲動についてはなにも知ることができないであろう[Würde der Trieb sich nicht an eine Vorstellung heften oder nicht als ein Affektzustand zum Vorschein kommen, so könnten wir nichts von ihm wissen. ]

われわれが無意識的な欲動興奮とか、抑圧された欲動興奮について語るとしても、それは無邪気で粗雑な表現ということになる。われわれはそのさい、その表象代理 [Vorstellungsrepräsentanz]が無意識的であるような欲動興奮を考えているに過ぎない。

Wenn wir aber doch von einer unbewußten Triebregung oder einer verdrängten Triebregung reden, so ist dies eine harmlose Nachlässigkeit des Ausdrucks. Wir können nichts anderes meinen als eine Triebregung, deren Vorstellungsrepräsentanz unbewußt ist, denn etwas anderes kommt nicht in Betracht. (フロイト『無意識』1915年)


ーーここでフロイトは、表象代理がなければ、欲動についてはわからないと言っている。


さて抑圧論文には、「原抑圧により暗闇に異者が蔓延る」とあった。暗闇とは、当時まだエス概念がなかったのでフロイトは暗闇としているが、エスのことであり、異者とは異物(異者としての身体)のことである。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



フロイトの『抑圧』論文に戻れば、そこにあるように原抑圧とは事実上、固着である。


確認しておこう。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


たとえばポール・バーハウは、ラカンのS(Ⱥ)というマテームを使いつつ、こう言っている。


フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。…原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


このS(Ⱥ)とはエスの《境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)]》(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)であり、欲動の表象代理 [Vorstellungs-repräsentanz des Triebes]とはこの意味である。


(原)抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)


なおラカンはフロイトの引力としての原抑圧を穴とも表現している。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


そしてこの穴もS(Ⱥ)とされる。


ラカンは穴をS(Ⱥ) と書いた。Lacan…trou qu'il a inscrit S de grand A barré. (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001)


これはより厳密に言えば、S(Ⱥ)は穴の表象(穴の境界表象)という意味である。


大他者のなかの穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す。signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S(Ⱥ)   (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)

S(Ⱥ) は穴に敬意を払う。S(Ⱥ) は穴埋めするようにはならない。« S de A barré » respecte, respecte le A barré. Il ne vient pas le combler. (J.-A. MILLER, Illuminations profanes - 7/06/2006 )





さらにS(Ⱥ)とはリアルな症状(サントーム)のマテームでもあるが、サントームとは固着のことである。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation] (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 23/03-30/03/2011, 摘要


なおS(Ⱥ)とは、いくつかある対象aの意味のひとつでもある。


S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)




さらにもうひとつ、S(Ⱥ)は超自我のマテームでもある。


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる。S(Ⱥ) […] on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. (J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)


このジャック=アラン・ミレールのS(Ⱥ)=超自我は、次の発言とともに読むとわかりやすくなる。


超自我は多くの特徴がある。ラカンはこの超自我を二項シニフィアンと同一のものとした。le surmoi a bien des traits que Lacan a repérés avec son signifiant binaire〔・・・〕


二項シニフィアンの場に超自我を位置付けることの結果は、超自我と原抑圧を同じものと扱うことになる。超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。Le résultat de repérer le surmoi sur ce signifiant binaire, c'est de rapprocher le surmoi et le refoulement originaire. Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕


あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.    . (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


要するに《超自我と原抑圧との一致がある il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire. 》。


なおフロイト自身、超自我と固着(原抑圧)を結びつけている。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



ラカンの発言にても確認しておこう。


絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカン, S13, 18 Mai 1966)

我々がよく知っているこの対象a、私はあなた方に説明しなければならないーーそしてこの今ーーこの対象aは超自我と関係がある。Ce petit(a) que nous connaissons bien, j'aurai à vous expliquer - et seulement maintenant - son rapport au surmoi : (Lacan, S13, 09 Février 1966)




ここまでにて次のことを示した。


S(Ⱥ)

原抑

Urverdrängung

引力

Anziehung

欲動代理

Triebrepräsentanz

固着

Fixerung

超自我

Überich

エスの境界表象

Grenzvorstellung des Es

穴の表象

le signifiant du trou

サントームΣ

Sinthome

対象a

l'objet (a)


そしてS(Ⱥ)は次のポジションに置ける。




ところで途中で示した異物Fremdkörper(異者としての身体)もS(Ⱥ)と等価なものと扱いうるだろうか。ラカンはサントームを異者と等置しうることを言っている(参照)。


とはいえここでは上に示した『抑圧』論文の固着によって、暗闇(エス)に異者が蔓延る」に則って、次の形で異物のポジションを示しておこう。






なお最晩年のフロイトは異物について次のようの記述している。



個人の初期の記憶痕跡は、その個人のなかに保存されている。しかし独特な心理学的条件でである。〔・・・〕忘却されたものは消滅されず、ただ「抑圧」されるだけである。その記憶痕跡は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗備給により分離されているのである。〔・・・〕それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物[Fremdkörper] のように分離されている。


Die Erinnerungsspur des früh Erlebten ist in ihm erhalten geblieben, nur in einem besonderen psychologischen Zustand. […] Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«, seine Erinnerungsspuren sind in aller Frische vorhanden, aber durch »Gegenbesetzungen« isoliert. […] Sie können sind unbewußt, dem Bewußtsein unzugänglich. Es kann auch sein, daß gewisse Anteile des Verdrängten sich dem Prozeß entzogen haben, der Erinnerung zugänglich bleiben, gelegentlich im Bewußtsein auftauchen, aber auch dann sind sie isoliert, wie Fremdkörper außer Zusammenhang mit dem anderen.〔・・・〕

抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


この文は同時期に書かれた次の文とともに読むことができる。


人の発達史と人の心的装置において、原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された 。die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年)


すなわち異物(異者としての身体)はエスの核なのである。


ラカンを引こう。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)


というわけでジャック=アラン・ミレールは次のように言うことになる。


現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


そして残滓とは固着の残滓ーーリビドー固着(享楽の固着)ーーの残滓である。


常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。

Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


簡潔に図式化しておこう。



結局、このエスの核[Kern des Esと」しての異者としての身体[Fremdkörper]が究極の引力=穴であろう。別名、ブラックホール[Trou Noir]だ。



ラカンは異者としての身体をフロイト注釈版トーラス円図の次のポジションにおいている(参照)。





不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として区別される。c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt : (Lacan, S11, 17 Juin  1964)


この不快はもちろん快原理の彼岸にある快、つまり享楽であるーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》(Lacan, S17, 11 Février 1970)


ここに快自我と不快の領野が構成される。すなわち、残滓としての対象、異者としての対象である。Ici se constitue le Lust-Ich et le champ de l'Unlust :  l'objet comme reste, l'objet comme …étranger,   (Lacan, S11, 20  Mai  1964)



ここでポール・バーハウ版トーラス円図を示そう。




中心のaを上に示したように異者=引力とすれば、これは物理学のシロウトの目からみたら、カオス理論のアトラクターあるいはストレンジアトラクターstrange attractor 

図とそっくりである。







ところで人間にとっての究極のストレンジアトラクターはなんだろうか。


ひとりの女は異者である。 une femme, … c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


この女性器というストレンジアトラクターは、フロイトにとって男性にとってだけの引力ではない。両性にとってのアトラクターである。


男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型[Anlehnungstypus]にのっとった完全な対象愛 [volle Objektliebe]は、本来男性の特色をなすものである。このような対象愛は際立った性的過大評価 [Sexualüberschätzung]をしている。〔・・・〕


女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋一で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus]の高まりが現われてくるように見えるが、この高まりは性的過大評価をともなう正規の対象愛を構成しがたいものにする。とくに美しく発育してゆくような場合には女性の自己満足が生じてくる。〔・・・〕このような女性は厳密にいうならば、男性が彼女を愛するのと同じような強さでもって自分自身を愛しているにすぎない[Solche Frauen lieben, strenggenommen, nur sich selbst mit ähnlicher Intensität, wie der Mann sie liebt.]。


彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである[Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt. ](フロイト『ナルシシズム入門』第2章1914年)


なおーー上にも示したがーー、このフロイトラカン的なストレンジアトラクターはブラックホールのことである。


ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)


ーー《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果[an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy ]》(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)


結局、S(Ⱥ)のなかに異者としての身体[Fremdkörper]ーー究極的には女性器あるいは母胎ーーを含めてもよいのかもしれない。実際、ジャック=アラン・ミレールは、固着は《1と身体の結びつきla conjonction de Un et du corps, l'événement de corps》 (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)としている。この1のシニフィアンが「欲動の表象代理」で、身体が「エスに置き残された異者としての身体」と解釈しうる。


少なくともこう解釈して初めて次の三文の整合性が生まれる。


ひとりの女は、他の身体の症状(リアルな身体の症状)である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE5691975

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome Lacan, S23, 17 Février 1976)

ひとりの女は異者である。 une femme, …c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)



当面、先ほどの図に異者を付記しておく。









2021年4月24日土曜日

人はみなふつうの精神病である

 


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


「人はみな妄想する」とは何よりもまず、人がみなもっている構造的トラウマに対して防衛するということである。


人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)


このトラウマの別名は穴である。


「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はこの意味はすべての人にとって穴があるということである。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010)


ラカンにはtroumatismeという造語がある。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)


この穴=トラウマとはフロイトのトラウマと等価である。


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


たとえばフロイトはこう書いている。


すべての症状形成は、不安を避けるためのものである alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)


この不安がトラウマである。


経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ。Heißen wir eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (フロイト『制止、症状、不安』第11章B)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


フロイトにとって原不安(原トラウマ)は、出産外傷である。


不安は対象を喪った反応として現れる。最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, [] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


これ以外にも始原に近似する不安として離乳トラウマ等がある。ここではラカンの簡潔な文を引用しておこう。


フロイトの思考における最初期の悲惨な段階[la phase de misère originelle]は、出産外傷[traumatisme de la naissance]から、離乳外傷[traumatisme du sevrage]までである。 (Lacan, Propos sur la causalité psychique , Ecrits 187, 1946、摘要訳)

口唇的離乳と出産の離乳(分離)とのあいだには類似性がある。il у а analogie entre le sevrage oral  et le sevrage de la naissance (Lacan, S10, 15 Mai, 1963)



妄想の始まりとはこういった最初の「トラウマ=寄る辺なさ」からの回復の試みである。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)




一般に「幻想」と言われてきた内容は、ジャック=アラン・ミレール によってーー最晩年のラカンに依拠しつつーー「妄想」と言い換えられている。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire〔・・・〕


ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕あなた方は精神分析家として機能しえない、もしあなた方が知っていること、あなた方自身の世界は妄想だと気づいていなかったら。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。分析家であることは、あなた方の世界、あなた方が納得する仕方は妄想的であることを知ることである。Vous ne pouvez pas fonctionner comme psychanalyste si vous n'êtes pas conscient que ce que vous savez, que votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. Etre analyste, c'est savoir que votre propre fantasme, votre propre manière de faire sens est délirante (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)



「人はみな妄想する」の別の呼び方が、「ふつうの精神病」である。すなわち「人はみなふつうの精神病である」。


我々の臨床は本質的に二項性を持っていた。その結果はこうだ。長い間あなたがたは、臨床家を、分析家を、心理療法士を見た、患者が神経症なのか精神病なのかを問い彷徨う彼らを。あなたがたは見ることができる、あれら分析家は毎年毎年患者xについての話に戻るのだ、「決めたのかい、彼が神経症なのか精神病なのかを?」Avez-vous décidé s'il est névrosé ou psychotique ? そしてこう言う、「いや、まだ決まらない」Non, je n'ai pas décidé pour le moment。これが何年も続くのだ。明らかにこれは物事を考えるのに納得できるやり方ではない。


もしあなたがたが何年もの間、主体の神経症を疑う理由があるなら、あなたがたは賭けることができる、彼はむしろ「ふつうの精神病」un psychotique ordinaireだと。それが神経症であるとき、あなたがたは知らなければならない!それがこの神経症概念への貢献だ。神経症はウォールペーパーではない。神経症は明確な構造があると。


もしあなたが患者に神経症の明確な構造を認知しないなら、あなたは賭けることができる、あるいは賭けを試みなければならない、それは繕い隠された精神病、ヴェールされた精神病だとc'est une psychose dissimulée, une psychose voilée。(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


つまり旧来、神経症と言われてきた症状はヴェールされた精神病にすぎない。これは日本でも中井久夫がはやくから言っている内容である。


現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

深さの問題としてとらえれば「マスクされた精神病」masked psychosis のある一方、神経症が精神病(あるいは身体病)をマスクすることも多い(“masking neurosis”)。ヤップは、文化的変異を基礎的な病いの被覆(うわおおい overlay)と考えていた。


 私は精神病に、非常に古い時代に有用であったものの空転と失調の行きつく涯をみた(『分裂病と人類』1982年)。分裂病と、うつ病の病前性格の一つである執着性気質の二つについてであったが、要するに、人類に骨がらみの、歴史の古い病いということだ。これは「文化依存症候群」のほうが古型であるという通念に逆らい、いずれにせよ証明はできないが、より整合的な臆説でありうると思う。むろん文化依存症候群の総体が新しいのではなく、表現型の可変性が高いという意味である。(中井久夫『治療文化論』1990年)



ここでミレールに戻ってもうひとつ引いておこう。


神経症においては、我々は「父の名」を持っている、正しい場所にだ。父の名は太陽の下にその場をもっている。そして太陽は父の名の表象だ。

我々は精神病において想定する、精神病を見出したとき、そして古典的ラカニアンの方法でそれを構築するとき、父の名の代わりに穴をもつ。これは明瞭な相違だ。


Dans la névrose, le Nom-du-Père est à sa place. Le Nom-du-Père a sa place au soleil et le soleil est une représentation du Nom-du-Père. On suppose que dans la psychose, lorsqu'on le détecte, et qu'on le reconstruit à la manière lacanienne classique, on a un trou à la place. C'est une différence claire.


ふつうの精神病において、あなたがたは父の名をもたない。しかし何かがある。補充の仕掛けだ。Dans la psychose ordinaire, vous n'avez pas de Nom-du-Père, mais quelque chose est là, un appareil supplémentaire.


あなたがたは言いうる。三番目の構造だと。…とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。On peut dire alors, eh bien, c'est une troisième structure. …En réalité, c'est la même structure. Au bout du compte, dans la psychose, si ce n'est pas une catatonie complète, vous avez toujours quelque chose qui rend possible pour le sujet de s'en sortir ou de continuer à survivre.


そしてある意味で、「真の父の名」はこのうまくフィットした「見せかけの父の名」以上のものではない。D'une certaine manière, le vrai Nom-du-Père ne vaut pas mieux que cela, simplement, c'est un make-believe qui convient bien. (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)





要するに神経症の「真の父の名」もふつうの精神病の「見せかけの父の名」も構造的には同じものだと言っている。したがって神経症もふつうの精神病だということになる。


結局、ある時期以降のラカンにとって、父の名とはトラウマの穴埋めに過ぎない。


父の名という穴埋め bouchon qu'est un Nom du Père  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

ラカンがS (Ⱥ)を構築した時、父の名は穴埋め、このȺの穴埋めとして現れる。Au moment où Lacan construit S(Ⱥ), le Nom-du-Père va apparaître comme un bouchon, le bouchon de ce Ⱥ.   (J.- A. Miller, L'AUTRE DANS L'AUTRE, 2017)

ラカンは穴をS(Ⱥ) と書いた。Lacan…trou qu'il a inscrit S de grand A barré. (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001)


ラカンはこう言った。


大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)(ラカン, S24, 08 Mars 1977)


この大他者は父の名のことであり、つまり父の名は存在しない、父の名は見せかけ(仮象)に過ぎないということである。


…………


なおポール・バーハウ  は「ふつうの精神病」概念を次のように批判していることを付け加えておこう。


◼️Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens.2011

DH)精神分析理論、そして古典的形式におけるラカン理論は、神経症の理論、無意識の理論、去勢の、欲望の理論です。あるポイントでーーこれはラカン読解のある仕方で、ということですが、ときに、セミネール 17、あるいはセミネール 20 に断絶(裂け目)が位置されると読みえますーー、このポイントにて、ラカンは、古典的ラカンの出発点を変えたかもしれない、と。そして、異なった理論の選択のもと、古典的ラカンを捨て去りさえした、と。


私は、ジャック=アラン・ミレールによって広められた用語に思いを馳せています。すなわち、「ふつうの精神病」、psychose ordinaire です。これが指摘しているのは、古典的神経症ーーヒステリーと強迫神経症ーーはまだ出現しはしますが、(あなたがすでに言及したように)以前より減少した、ということです。これは別の問題にかかわるに違いありません。この論拠の流れにしたがえば、精神分析が依拠する基盤、歴史的であると同時に原則的な基盤ーー無意識の理論、欲望の理論--はもはや効力はない。このカテゴリーでは、わずかなことしかなされえない。そう人は考え得ます。というのは、主体性の新しい形式、快楽との関係性を考えるために、もはや適切ではないからです。


PV)私は異なった仕方で定式化します。ポストラカニアンは、実にこれを「ふつうの精神病」用語で理解するようになっている。私はこれを好まない。二つの理由があります。一つは、「ふつうの精神病」概念は、古典的ラカンの意味合いにおける精神病にわずかにしか関係がない。もう一つは、さらにいっそうの混乱と断絶をもたらしています。非精神分析的訓練を受けた同僚とのコミュニケーションとのあいだの混乱・断絶です。


実に全く疑いはない。私たちは、もはや単純にフロイト理論や初期のラカン理論を適用しえないことは確かです。それはまさに単純な理由からです。すなわち、神経症は異なったものになった。社会が変わったからです。アイデンティティさえ変貌した。これを私もまた確信しています。…


でもこれは次のように言うことではない。すなわち、私たちは、古典的理論に現れた、数ある決定的語彙を使い続けえない、と言うことではない。不安の理論、快の理論、欲望の理論。それはただ現在異なったふうに転調されているのです。


変わったのは、大他者なのです。私たちは、大他者への数々の変化を感知しています。…結局、フロイト理論は、ヴィクトリア朝社会の解釈です。これは過ぎ去った。私たちは、今、ポストモダン社会、新自由主義社会のなかにいます。そう、私たちの理論はその新しい社会のなかの数多くの構造を認知しています。そして、エロス、タナトス、不安、快楽、ジェンダー、去勢のような数多くの根本問題も、その社会のなかに場所を持っています。だが、もはやヴィクトリア朝にあったものではない。(An Interview With Paul Verhaeghe, 2011)



ポール・バーハウはふつうの精神病概念の代わりにフロイトの現勢神経症概念を提出している。


この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢病理」(フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」)とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病 psychose ordinaire」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis by Jonathan D. Redmond、2013)


フロイトには「現勢神経症/精神神経症」概念があるが、ラカンの「サントーム/症状」にほぼ相当する。