ここでは、ポール・バーハウが上図で示しているS(Ⱥ)あるいはS1について記述する。
◼️境界表象:S(Ⱥ)≡S1
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境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
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境界表象S1[border representation S1] (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: 2004)
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◼️S(Ⱥ)=固着としての原抑圧
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フロイトの原抑圧として概念化したものは何よりもまず固着である。この固着とは、何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。〔・・・〕原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
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◼️原症状S1=固着=対象a=異者としての身体
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フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒[Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet] 」というよく知られた比喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、覆いあるいは容器、ーー《症状の形式的覆い[ l'enveloppe formelle du symptôme] 》(ラカン, E66, 1966)ーーすなわち原症状[S1 ]の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、異者としての身体[Fremdkörper]として影響をもったまま居残っている。
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フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応[Somatisches Entgegenkommen]」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からに反応」とは、いわゆる「欲動の根[Triebwurzel]」、あるいは固着点[Stelle der Fixierung]である。われわれは、ラカンに従って、この固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)
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まずラカンにおける固着点、対象a、異者としての身体の発言は次の通り。
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,… absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
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享楽は残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)
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異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste, ](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
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ジャック=アラン・ミレールは次のように注釈している。
◼️ 享楽の残滓=固着点=異者としての身体
いわゆる享楽の残滓 [reste de jouissance]。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だが基本的にそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって触発され、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。
固着点はフロイトにとって、分離されて発達段階の弁証法に抵抗するものである[C'est-à-dire ce qui chez Freud précisément est isolé comme résistant à la dialectique du développement. ]
固着は、どの享楽の経済においても、象徴的止揚に抵抗し、ファルス化をもたらさないものである[La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante, ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.] (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III- 5/05/2004)
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残滓…現実界のなかの異者概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
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ジャック=アランミレールも、ポール・バーハウと同様に、S(Ⱥ)= S2なきS1[S1 sans S2]=固着としている。
◼️サントームS(Ⱥ)=固着
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シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)
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サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
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◼️サントーム[S1]=一者がある[Yadl'Un]=S2なきS1[S1 sans S2]=固着
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一者のシニフィアン Le signifiant Un[S1]=「一者がある« y'a d'l'Un »」(Lacan, S20, 26 Juin 1973、摘要)
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事実上、サントームは「一者がある」である。[le sinthome en fait, c'est …Le Yadl'Un]( J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 18/05/2011)
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S2に付着したS1ではない単独的な一者のシニフィアン[le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – …non pas le S1 attaché au S2 ]ーーS2なきS1[S1 sans S2]ーーこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要)
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フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
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享楽の一者の純粋な反復をラカンはサントームと呼んだ[la pure réitération de l'Un de jouissance que Lacan appelle sinthome, ](J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 30/03/2011)
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………
ここで冒頭に戻って境界表象概念の起源について見てみよう。これはフロイトのフリース宛書簡に一度だけ現れる。
(原)抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる[Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung ](Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)
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とはいえ、この境界表象 [Grenzvorstellung ]は、後年の境界概念[Grenzbegriff]、あるいはラカンの境界構造[une structure de bord]と等置しうる。
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欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
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享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord. ] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)
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境界表象S (Ⱥ)とは、穴の表象であり、ラカンにとって穴とはトラウマのことであり、トラウマの表象ということになる。
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大他者のなかの穴の表象をS (Ⱥ) と記す[signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ) ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)
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ーー《ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び[Le trou du traumatisme est là, et ce trou]》 (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006)
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現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)
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ラカン自身も原抑圧と穴を結びつけている。
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.…La relation de cet Urverdrängt](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. ](Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
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ーー欲動の現実界とは、もちろん享楽のことである。
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ミレールはS (Ⱥ)についてこうも言っている。
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S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である[S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions](Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
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S(Ⱥ)は穴に敬意を払う。S (Ⱥ)は穴埋めするようにはならない[« S de A barré » respecte, respecte le A barré. Il ne vient pas le combler. ](J.-A. MILLER, Illuminations profanes - 7/06/2006 )
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これは、S (Ⱥ)は、トラウマの原象徴化(原飼い馴らし)でありながら、トラウマに対する防衛シニフィアンとしては十分には機能しないということである。
これが境界表象の意味であり、ポール・バーハウが両方向の矢印で示しているのはこの理由である(彼は「象徴化の失敗」とも表現している)。
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ここでの対象aは穴であり、Ⱥと等価である、ーー《対象aは穴である[l'objet(a), c'est le trou]》 (Lacan, S16, 27 Novembre 1968)
より具体的な固着という境界表象:S(Ⱥ)≡S1の意味合いは、次のように表現されている。
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固着概念は、身体的要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
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この「表象的要素と身体的要素」とは、「一者と身体」と同一である。
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まさに享楽がある。一者と身体の結びつき、身体の出来事が[il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps ](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)
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ミレールはここで身体の出来事といっているが、固着としてのサントームのことである。
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サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011)
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サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
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ちなみにフロイトにおける「身体の出来事」はトラウマ、あるいはトラウマへの固着である。
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トラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕
このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
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話戻せば、要するに固着とは、一者と身体がある[Il y a le Un et le corps]ということである(ラカンは《身体は穴である[le corps…C'est un trou]》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice))といっている)。
ミレール2011年のセミネールを注意深く読み取っている Hélène Bonnaudの記述を挙げよう。
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ラカンがサントームを「一者がある Y'a d'l'Un」に還元したとき、この「一者がある」は、シニフィアンの分節化の残滓として、現実界の本源的反復を引き起こす。ラカンは言っている、二者はないと。この反復においてそれ自身を反復するのは、ひたすら一者である。しかしこの一者は身体ではない。一者と身体がある。[Lorsque Lacan réduit le sinthome à Y'a d'l'Un, il dégage comme son réel essentiel l'itération, …comme ce qui reste de l'articulation signifiante. Il voulait dire qu'il n'y a pas de deux. Il n'y a que le un qui se répète dans l'itération. Mais cet Un n'est pas le corps. Il y a le Un et le corps」(Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse ,2013)
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ここで上に掲げたラカン文の「固着=対象a=異者としての身体」とする文を再掲する。
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対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,… absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
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この二文から、固着という《一者と身体がある[Il y a le Un et le corps]は、
・一者と対象aがある[il y a le « Un » et le (a)]、
あるいは、
・一者と異者としての身体がある[Il y a le Un et le corps étranger]
と言い換えることができる。
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常に一者と他、一者と対象aがある。[il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)](Lacan, S20, 16 Janvier 1973)
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これはセミネールⅩⅥに現れている図を使って示せば次のようになる。
以上、次のことを示した。
なお、ジャック=アラン・ミレールはS(Ⱥ)について次のようにも示している。
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S(Ⱥ) → シニフィアンプラス穴[S(Ⱥ) → S plus A barré. ] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 7/06/2006)
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これを先程の図に代入すればこうなる。
なおラカンの原症状としての「ひとりの女」は、この固着としての Σ≡S(Ⱥ)≡S1、あるいは穴Ⱥ(トラウマ)としての異者である。
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ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976)
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ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté. ](Lacan, S25, 11 Avril 1978)
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トラウマないしはトラウマの記憶は、異者(異者としての身体[Fremdkörper] )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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…………………
※付記 フロイトは固着という用語は多用しているが、ラカンが取り上げた固着点[Stelle der Fixierung]という表現を、私の知る限りで、一度しか使っていない。
「抑圧」は三つの段階に分けられる。
①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。〔・・・〕
②正式の抑圧[eigentliche Verdrängung]の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ後期[Nachdrängen]の抑圧ではある。〔・・・〕①の原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe] がこの二段階目の抑圧に貢献する。
③第三段階は、病理現象として最も重要であり、抑圧の失敗[Mißlingens der Verdrängung]、侵入[Durchbruchs]、抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Verdrängten]である。この侵入[Durchbruch]とは固着点[Stelle der Fixierung]から始まる[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年、摘要)
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抑圧されたものの回帰と固着点が結びつけられている。そしてフロイトは最晩年、この回帰をトラウマに結びつけている。
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抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)
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ちなみにジャック=アラン・ミレールは享楽の回帰[retour de jouissance]と抑圧されたものの回帰の相同性を語っている。
フロイトの思考をマテームを使って翻訳してみよう。大きなAは抑圧、享楽の破棄である[grand A refoulant, annulant la jouissance. ]
フロイトにおいてこの図式における大きなAは、エスの組織化された部分としての自我の力である。さらにラカンにおいて、非破棄部分が対象aである。[grand A, c'est la force du moi, en tant que partie organisée du ça. Et de plus, chez Lacan, ça comporte qu'il y a une partie non annulable, petit a]
フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れる[la motion de la pulsion échappe à toute influence]ことである。つまり享楽の抑圧、欲動の抑圧は欲動要求を黙らせるには十分でない[que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. ]
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そして症状は、自我の組織の外部に存在を主張して、自我から独立的である。[le symptôme manifeste son existence en dehors de l'organisation du moi et indépendamment d'elle]
これは「抑圧されたものの回帰」のスキーマと相同的である。そして症状の形態における「享楽の回帰」と相同的である。そしてこの固執する残滓が、ラカンの対象aである。[C'est symétrique du schéma du retour du refoulé, …symétriquement il y a retour de jouissance, sous la forme du symptôme. Et c'est ce reste persistant à quoi Lacan a donné la lettre petit a. ](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)
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抑圧されたものの回帰と享楽の回帰の相同性は、享楽はトラウマなので、ある意味当然かもしれないが、これを読んだ最初は、わたしには思いの外だった。
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享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ](Lacan, S23, 10 Février 1976)
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)
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われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. ](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)
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なお、ラカン自身は、享楽の回帰[un retour de la jouissance]という表現を次のように使っている。
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反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste : que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]. 〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
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喪われた対象とは、フロイトにおいてトラウマと等価である。したがって享楽の回帰=トラウマの回帰[le retour du traumatisme]となる。
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……………
※追記
なお後年のラカンは固着に相当するものを、骨象a[osbjet a」、文字[la lettre]とも呼んだ。
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私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字[la lettre]、文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴[trait unaire] 、つまり[einziger Zug]について話した時からである。…quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet », qui est bien ce qui caractérise la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet », la lettre petit a. …que j'ai en somme promue la première fois que j'ai parlé du trait unaire : einziger Zug dans FREUD. (Lacan, S23, 11 Mai 1976)
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唯一の徴[trait unaire]について、セミネールⅩⅦ では次のように言っている。
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ここで私は、フロイトのテキストではその意味が指摘されていないが、そこから「唯一の徴 trait unaire(einziger Zug)」の機能を借り受けよう。すなわち徴の最も単純な形態、シニフィアンの起源(原シニフィアン)である。分析家を関心づけるすべては、唯一の徴にある[j'emprunte pour lui donner un sens qui n'est pas pointé dans le texte de FREUD …la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant. …c'est que c'est du trait unaire que prend son origine tout ce qui nous intéresse, nous analystes, ](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
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唯一の徴は、享楽の侵入を記念する徴である[trait unaire…d'un trait en tant qu'il commémore une irruption de la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)
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「享楽の侵入を記念する徴」とは、上に掲げたフロイトのシュレーバー症例の《侵入とは固着点から始まる[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her]》の固着点に相当する。
したがって次のような注釈がなされている。
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後年のラカンは「文字理論」を展開した。この文字[lettre]とは、固着[ Fixierung]、あるいは、身体の上への欲動の刻印[inscription of the drive on the body]を理解するラカンなりの方法である。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
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享楽の固着を、ラカンはときに文字と呼んだ[une fixion de jouissance …que Lacan appelle lettre à l'occasion.]. ( Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010)
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精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合 としての症状である。…現実界の到来は、文字固着である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance; […]avènement de réel se fait par sa lettre-fixion](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)
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無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
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したがってこの文字骨象aを視野に入れるとS(Ⱥ)自体が対象aになる。
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言わなければならない、S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré[S(Ⱥ)](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)
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つまりȺとS(Ⱥ)は区別しがたいのである。
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斜線を引かれた大他者 Ⱥ の価値を、ラカンはS(Ⱥ) というシニフィアンと等価とした[ la valeur de poser l'Autre barré[Ⱥ]…que Lacan rend équivalent à un signifiant, S(Ⱥ) ](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas 18 décembre 1996)
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ラカンは穴をS(Ⱥ)と書いた[un trou qu'il a inscrit S de grand A barré]. (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001)
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この意味ではȺよりもS(Ⱥ)のほうが重要である。何よりもまず固着のシニフィアンありきである。このシニフィアンの遡及性[Nachträglichkeit ]によってはじめて身体、あるいは穴が見出される。
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シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ?(Lacan, S20, December 19, 1972)
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ーー《分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
ジャック=アラン・ミレールはシニフィアンなき主体はないと繰り返している。
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シニフィアンを通さない主体はない。主体があるのは唯一、シニフィアンによる。主体、つまり空集合は、シニフィアンがそれを導く徴によってのみ世界に現れる。無があると言えるのは、最低限の徴があるからである[il n'y a de sujet que par le signifiant. Il n'y a le sujet que du fait du signifiant. Le sujet, ou l'ensemble vide, ne vient au monde que par le fait que le signifiant y amène sont trait. le trait minimal qui permet de dire que là il n'y a rien :](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 28 JANVIER 1987)
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ラカンは一度言うことができた、「シニフィアンは享楽の原因だ」と。厳密に同じように、「シニフィアンは主体の原因だ」とラカンは言うことができただろう。だがそれは、シニフィアンは言説において主体の原因だということとは区別される。そうではなく、シニフィアンは身体において享楽の原因である。
Lacan a pu dire une fois : Le signifiant c'est la cause de la jouissance, exactement de la même façon qu'il avait pu dire : Le signifiant c'est la cause du sujet. Ca se distingue tout de même en ce que le signifiant c'est la cause du sujet dans le discours, tandis que le signifiant ce serait la cause de la jouissance dans le corps. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)
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他方、こうも示している。
これは、S(Ⱥ) ≡ $ と記してもよいのではないか、と私は考えている。
ここでは触れるつもりはなかったのだが、今の問いにかかわって超自我の話を少しだけする。
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最初期のミレールは超自我と主体を等置している。
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超自我は斜線を引かれた主体と書きうる le surmoi peut s'écrire $ (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)
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実は超自我のマテームもS(Ⱥ)なのである。
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S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる。S(Ⱥ) […] on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. (J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)
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なぜこうなるのか。超自我と固着S(Ⱥ)としての原抑圧は等置しうるから。
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超自我と原抑圧との一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire . ](J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)
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これはフロイト自身、超自我を固着としており、ラカンも超自我は穴と関係があるとしていることから来る。
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この前提に立てば、S(Ⱥ)≡$となる。先程のȺ≡$との矛盾があるということが言いたいわけではない。ここで言いたいのは、ȺとS(Ⱥ)は文脈により、どちらを選択してもいい場合が多いということである。S(Ⱥ)は、あくまで自我ーー《自我[i(a) ](le moi [i(a) ])》 (Lacan, S10, 23 Janvier l963)ーーと穴Ⱥ(あるいはエス)とのあいだの境界表象である。
人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
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現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)
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