2021年9月6日月曜日

抑圧されたものの回帰と永遠回帰は同じものということには驚かないでしょうね?

 


抑圧されたものの回帰と抑圧は同じものということには驚かないでしょうね? [Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? ](Lacan, S1, 19 Mai 1954)


……………


抑圧されたものの回帰と永遠回帰は同じものということには驚かないでしょうね?



以下、前回の「抑圧されたものの回帰とトラウマの回帰」のヴァリエーションである。


抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)


ーーフロイトはここで抑圧されたものの回帰はトラウマに関わると言っているが、より具体的には固着(トラウマへの固着)である。


「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。〔・・・〕

この欲動の固着[Fixierungen der Triebe は、以後に継起する病いの基盤を構成する。そしてさらに、とくに③の抑圧の相を生み出す決定因となる。[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege, und können hinzufügen, die Determinierung vor allem für den Ausgang der dritten Phase der Verdrängung.


②正式の抑圧[eigentliche Verdrängung]の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ後期[Nachdrängen]の抑圧ある。〔・・・〕①の原初に抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe がこの二段階目の抑圧に貢献する。


③第三段階は、病理現象として最も重要であり、抑圧の失敗[Mißlingens der Verdrängung]、侵入[Durchbruchs]、抑圧されたものの回帰Wiederkehr des Verdrängten]である。この侵入[Durchbruch]とは固着点Stelle der Fixierung]から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年、摘要)


抑圧されたものの回帰は、固着点[Stelle der Fixierung]から始まる、とある。この固着とはトラウマへの固着である。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie1939年)


トラウマ=自己身体の出来事=トラウマへの固着=不変の個性刻印とある。これが少なくともフロイトにとって永遠回帰の刻印である。


同一の出来事の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug ]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫[Schicksalszwang nennen könnte]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)





ニーチェが次の文で「常に回帰する自己固有の出来事」というとき、フロイトの言う不変の個性刻印としての自己身体の出来事=トラウマへの固着と捉えうる。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


ここでジャック=アラン・ミレールの注釈を導入しよう。次の文は上のニーチェの文とほとんど同じ意味を持っている。


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


この固着とは身体の出来事ーーフロイトの反復強迫する自己身体の出来事、ニーチェの常に回帰する自己固有の出来事ーーである。


享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, …elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021/01


ミレールは単独性という表現を使いながら、永遠回帰を語っている。


享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009


この単独性が、単独的な一者のシニフィアンであり、固着である。


単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un私は、この一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.  (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011


永遠回帰の別の言い方は、「常に同じ場処に回帰する」である。


フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、享楽の一者がある[il y a un Un de jouissance]ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)





たとえばニーチェの不変の個性刻印としての常に回帰する自己固有の出来事のひとつは、蜘蛛と月光の表象(単独的シニフィアン)である。


お前は、お前が現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛とあらゆるjeder Schmerz und jede Lust]、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰するにちがいない。しかもすべてが同じ順序でーーこの蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。存在の永遠の砂時計はくりかえしくりかえし回転させられる。ーーそしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」

»Dieses Leben, wie du es jetzt lebst und gelebt hast, wirst du noch einmal und noch unzählige Male leben müssen; und es wird nichts Neues daran sein, sondern jeder Schmerz und jede Lust und jeder Gedanke und Seufzer und alles unsäglich Kleine und Große deines Lebens muß dir wiederkommen, und alles in derselben Reihe und Folge – und ebenso diese Spinne und dieses Mondlicht zwischen den Bäumen, und ebenso die ser Augenblick und ich selber. Die ewige Sanduhr des Daseins wird immer wieder umgedreht – und du mit ihr, Stäubchen vom Staube!« (ニーチェ『悦ばしき知』341番、1882年)


月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。


diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht, und dieser Mondschein selber, und ich und du im Thorwege, zusammen flüsternd, von ewigen Dingen flüsternd - müssen wir nicht Alle schon dagewesen sein?


そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰する定めを負うているのではないか。


- und wiederkommen und in jener anderen Gasse laufen, hinaus, vor uns, in dieser langen schaurigen Gasse - müssen wir nicht ewig wiederkommen? -"(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel 2節、1884年)


上にLustという語が出現するが、これが享楽である。


我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)


最後に通常は「悦」と訳されているツァラトゥストラのグランフィナーレの文に「享楽」を代入しておこう。


享楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ[Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.]〔・・・〕すべての享楽は永遠を欲する[alle Lust will - Ewigkeit! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第91885年)