①神の不安[l'angoisse de Dieu]=超自我の不安[l'angoisse du surmoi] ラカンはセミネール10「不安」で、マゾヒズムの原因としての超自我を示しつつ、マゾヒストの不安をめぐって《神の不安》を語っている。 |
超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme](Lacan, S10, l6 janvier 1963) |
大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance… 問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安…Où est cet Autre dont il s'agit ? […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse… この不安がマゾヒストの盲目的目標なら、ーー盲目というのはマゾヒストの幻想はそれを隠蔽しているからだがーー、それにも拘らず、われわれはこれを神の不安[l'angoisse de Dieu]と呼びうる。que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, car son fantasme la lui masque, elle n'en est pas moins, réellement, ce que nous pourrions appeler l'angoisse de Dieu. (ラカン, S10, 6 Mars 1963) |
この二文だけだといささか分かりにくいかもしれないが、セミネール17に現れる次の発言とともに読んだら、分かりやすくなる。 |
一般的には神と呼ばれるものは超自我の作用である[c'est-à-dire ce qu'on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970) |
つまり、神の不安[l'angoisse de Dieu]とは超自我の不安[l'angoisse du surmoi]である。 |
②保護的超自我に見捨てられる死の不安[Todesangst]
不安セミネールと呼ばれるセミネール10は、フロイトの『制止、症状、不安』の読み込みに特化したセミネールであり、この「神の不安=超自我の不安」は、フロイトのこの論の表現であるなら、超自我に見捨てられる不安・死の不安・去勢不安である。 |
去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust〔・・・〕 死の不安[Todesangst]は、去勢不安[Kastrationsangst]の類似物として理解されるべきである。自我が反応するその状況は、保護的超自我ーー運命の力ーーに見捨てられること[das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten]であり、危険に対するすべての保障が消滅してしまうことである。 die Todesangst als Analogon der Kastrationsangst aufzufassen ist und daß die Situation, auf welche das Ich reagiert, das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten – ist, womit die Sicherung gegen alle Gefahren ein Ende hat. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年) |
《保護的超自我ーー運命の力ーーに見捨てられること[das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten]》のこの超自我とは《母なる超自我[le surmoi maternel]》(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)であり、フロイト・ラカン両者において母は超自我である[参照]。 さらにラカンにおいて去勢不安とは享楽不安を意味し、唯一の真理である。 |
享楽は去勢である[ la jouissance est la castration]( Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977) |
要するに、去勢以外の真理はない[En somme, il n'y a de vrai que la castration] (Lacan, S24, 15 Mars 1977) |
ところで、死の不安[Todesangst]・去勢不安[Kastrationsangst]における不安とは何か。 |
不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…) die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年) |
見ての通り、不安=不快=寄る辺なさ=トラウマ=喪失であり、この喪失は、《母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts]》 (同『制止、症状、不安』第8章、1926年)にほかならない。 |
この母の喪失が事実上、《保護的超自我ーー運命の力ーーに見捨てられること》を意味する。 |
そして寄る辺なき喪失の別名は愛の喪失に対する不安 [Angst vor dem Liebesverlust]である。 |
寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年) |
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なお冒頭ラカンの享楽の意志[volonté de jouissance]とは事実上、マゾヒズムの意志であり、死の欲動である[参照]。