2025年8月4日月曜日

改憲を許さない日本人の無意識(柄谷行人インタビュー)

 

以下、ネット上で拾ったものだが、ある意図があってここに掲げる。


⚫️柄谷行人インタビュー「改憲を許さない日本人の無意識」2016年7月号 文学界

■九条と一条の密接な関係

ーー『憲法の無意識』で柄谷さんは、憲法九条について考えるようになったのは湾岸戦争が始まった一九九一年頃だと書かれています。そして憲法九条がカントの平和論の影響下にあることを指摘されています。


柄谷  それまで憲法九条について真剣に考えたことはなかったですね。湾岸戦争で自衛隊が海外に派遣されることになり、それは九条に抵触するのではないかという議論が起きたそのとき初めて、憲法の条文が現実的な意味を帯びたように見えたのです。当時、昔からそうですが、憲法九条は米占領軍によって強制されたもので、日本人が自主的に作ったものではない、というような議論があったのですが、それに関して、僕が考えたのは、強制されたことと自主的であることは単純に区別できるものではないということです。実際、人間は自由だと思っていても、実は自由ではない。さまざまな原因によって規定されている。だから、自由、自主性ということは、逆に、向こうから強迫されたときに生じるのだと思います。つまり、真の内発性というのは、外から強制されたときに生じる。たとえば、カントが「至上命令に従うことが自由である」というのは、こういう逆説です。


実は、そういうことを僕が考えたのは、九〇年代の初めにカントの研究を始めていたからですね。もちろん、憲法九条がカントの平和論にもとづくものであることは知っていましたが、僕がカントのことを考えはじめたのは、それとは別の理由からです。一九九一年、ソ連邦の崩壊とともに、歴史の理念は終った、理念は幻想にすぎないというようなことが叫ばれていた時期です。しかし、カントにとって、理念はそもそも仮象(幻想)です。ただ、それを欠くとやっていけないような仮象です。実際、それまでの理念が否定されると、ただちに別の理念、たとえば、歴史は自由民主主義で終ったというような仮象が支配的になるだけです。カントは、実現されないが、人がそれを目標にして徐々に進むような理念を、統整的理念と呼びました。そして、彼にとって統整的理念は、人類が世界共和国に至るという理念です。

カントの平和論はそのような展望の下にあります。つまり永遠平和とは、たんに戦争がない状態ではなく、戦争を起こすような政治的国家を揚棄する市民革命と切り離せないということです。しかし、それは一国だけではありえない。つまり、カントの平和論は一種の世界同時革命論です。そのように見ると、これはのちに、マルクスが世界同時革命といったこととつながります。マルクスの考えでは、一国だけの社会主義革命はありえないのです。しかし、カントの平和論とマルクスの社会主義革命論は、それぞれ別のものとして扱われてきました。たとえば、第一次大戦の終り頃にロシア革命(一九一七年)が起き、その三年後に国際連盟が発足した。これはそれぞれマルクスとカントの思想に負うと見なされます。


二十世紀最大の事件はロシア革命だということがいわれましたが、僕はむしろ国際連盟が重要だと思う。というより、どちらも重要なのに、それらが切り離きれ別個のものと見なされている、そのために、いずれも駄目になってしまった、と思うのです。だから、僕は九〇年代にそれらをつなげる仕事、つまり、マルクスからカントを読み、カントからマルクスを読むという仕事をしました。それが『トランスクリティークーーカントとマルクス』(2001)です。その中で憲法九条についても論じています。


ーー『憲法の無意識』のI章とⅡ章で驚いたのは、九条と一条との密接な関係を示されたことです。「九条を守ることが、一条を守ることになる」と書かれています。


柄谷  近年、天皇·皇后の発言等々に感銘を受けていて、これはどういうことだろうかと考えたんです。憲法の制定過程を見ると、マッカーサーは何よりも天皇制の維持を重視していて、九条はそのためのいわば付録に過ぎなかったことがわかる。実際、朝鮮戦争の勃発に際しマッカーサーは日本政府に再軍備を要請し、九条の改定を迫っています。九条は彼にとってその程度のものだったということです。


マッカーサーは次期大統領に立候補する気でいたので、何をおいても日本統治に成功しなければいけない。そのために天皇制を象徴天皇として存続きせることが必要だった。彼がとったのは、歴代の日本の統治者がとってきたやり方です。ただ当時、ソ連、連合軍諸国だけでなく、アメリカの世論でも天皇の戦争責任を問う意見が強かった。その中で、あえて天皇制を存続させようとすれば、戦争放棄の条項が国際世論を説得させる切り札として必要だった。だから、最初は重要なのは一条で、九条は副次的なものにすぎなかった。今はその地位が逆転しています。九条のほうが重要である。しかも九条の有力な後援者が、一条で規定されている天皇·皇后である。その意味で、地位が逆転しているのですが、一条と九条のつながりは消えていません。


ーー九条が日本人の無意識に深く根を下ろしている構造を本書は論じていますが、九条が一条と強く結びついているとすれば、つまり天皇が国民の無意識を代弁しているということでしょうか?


柄谷  そういう感じですね。その場合、天皇といっても、昭和天皇では駄目なんです。湾岸戦争勃発の前、八九年に昭和天皇が逝去したのは、ソ連圏の崩壊と同時期です。米ソ冷戦の終わりと昭和の終わりとが同時にあった。それぞれは予測できることだったとはいえ、両方の終焉を同時に迎えたというのは日本人にとってやはり大きなことですよ。僕がその頃『終焉をめぐって』(1990)を書いたのはそのためです。「歴史の終焉」という言葉が流行していた時期ですが、日本人にとっては、昭和の終焉が大きな意味をもったと思います。


昭和天皇が逝去し、明仁天皇は即位式で、「常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い………」と述べた。


この発言は宮内庁の用意した原文に自らが加筆したものだと言われています。「憲法を遵守し」というのは、ちょっと変ではないですか?  自らを規定する一条のことをわざわざ遵守すると言うだろうか。象徴天皇の範囲にとどまるという意志表明であるといえなくはないけど、僕はやはり、これは九条のことだと思いましたね。そして、その後まもなく、湾岸戦争があり、九条が争点となった。一条と九条に密接な関係があるという考えがより強まりました。

■憲法の「先行形態」としての徳川体制

ーーⅡ章で紹介される、中谷礼仁さん(歴史工学研究·早稲田大学教授)の「先行形態」という考えが面白いですね。

柄谷  大阪には奈良よりも古い古墳や難波宮などがあり、八〇年代にその発掘が始まるのですが、中谷礼仁によると、古墳の存在を知らずに建設されたはずの現在の道路や町並みが、見事に古墳群を迂回していたという。僕が彼のその発表を聞いて興味を持ったのは十六年ぐらい前です。それは古墳の存在を知らずに、つまりそれを残そうという意識などまったくない人々が不思議とそうしている、ということですね。

もし都市の「先行形態」が意識的に受け継がれたものだとしたら、とっくの昔に消え去っていたでしょう。が、意識されることがなかったがゆえにそれが残った、というのが中谷さんの先行形態論です。これはフロイトの、 幼年期に抑圧されたものは必ず何らかの形で回帰する、という考えと似ていますが、建築に関してそれを言ったのが新しいし、日本のことを考えるのにちょうどいい例だと思って取り上げました。


現行憲法の「先行形態」を考えるとき、憲法学者がふつう考えるのは明治憲法ですが、それはむしろ関係ないと思った方がいい。むしろ明治憲法以前の形態を考えるべきで、それは徳川の体制です。徳川時代には、成文法としての憲法(constitution)ではないけれど、 国家体制 (constitution)はあった。Constitution(構成、構造)は建築用語でもあります。司馬遼太郎が「この国のかたち」と言ったときも、おそらくそういう意味をこめていたと思います。明治の初期にはconstitution は「国体」「国制」と訳されていました。前者は「国体護持」のような形で使われているし、後者も、たとえばアリストテレスの『アテナイ人の国制』(岩波文庫)のような書名の中に今も残っている。これも英訳では constitutionですね。だから、徳川体制には憲法はないけれど、「国制」はあったと思います。そして、それを一言で「徳川の平和」と呼んでよいと思います。


ーーⅡ章で、「徳川の平和」に注目されていますね。


柄谷  つい最近知ったことですが、徳川宗家の徳川家広という人がいて、四月から徳川の名宝の展覧会をおこなっている。また、その父である徳川宗家十八代当主の徳川恒孝さんがその展覧会で「パクス・トクガワワーナへの道」と題した講演をやったりしているんです。「天下泰平の思想」というわけです。しかもその講演は広島の美術館で行われている。僕がこの本を書いたときには全然知らなかったけど、徳川の子孫は今や平和思想家なんですね。

徳川の平和というのは日本の歴史の中でも初めてのものです。国家権力はいつでも国内外の脅威に対して軍事的開発を続けるものだけれど、徳川はしていないでしょう。国内を統一してもなお、国外の敵に対しては備えるはずなのに、そうしていない。あれは徳川の思想だと思う。東アジア全体に秩序が回復したせいでもあるけれど、むしろそれができた理由の一つが徳川の体制です。たとえば、朝鮮王朝も秀吉以後の戦後体制に安心したんですね。


十年ほど前ですが、韓国の文芸批評家、キム・ウチャン教授(当時)と高麗大学でシンポジウムをやったときに、彼はこういうことを発表しました。十七世紀半ば頃に日本に来た朝鮮通信使の一人が帰国して、日本はもう大丈夫だ、攻めてきたりすることはない、と書いているそうです。徳川によって変わったとはいえ、たえず日本を警戒していた朝鮮王朝の学者が、もう大丈夫だと確信した。その理由は日本で武士が儒学を勉強しているからだというんです。儒教というのは、荀子以降は別としても、本来は平和思想だと僕は思います。

詩と礼と楽で社会を治めよう、世界を変えようという思想ですから。僕はその会議でカントの平和論について話したのですが、キム·ウチャン氏の発表を聞いて、そうだ、孔子は戦乱の世にあらわれた平和思想家だったのだ、ということに気づいたのです。


ーー徳川の体制とは、非軍事化ということと、もう一つは象徴天皇制ですね。天皇に手をつけないというか、そのまま祭り上げて。


柄谷 それを意識的におこなったのは、徳川が初めてだと思います。日本で天皇が実権を持つような時期は、後醍醐天皇が「王政復古」をとなえた十四世紀以後そうであったように、戦乱の時代です。家康はそれに終止符を打ち、また、天皇を丁重に揺るぎない場所に安置して片づけてしまった。それが憲法第一条の「先行形態」ですよ。徳川の体制では天皇は見えない。実際、その存在さえ知らない人が多かったと思います。しかし、それによって徳川体制は機能していた。それは象徴天皇制ですね。


ーー九条の「先行形態」を明治憲法ではなく、そのさらに前にさかのぼって見いだすことによって、柄谷さんの中で徳川体制に対する評価が変わった部分があるのでしょうか。


柄谷  ありますね。ただ、もともと僕は徳川の体制や思想に関して、結構両義的でしたね。しかも、僕の考えは、九条が徳川の体制の「高次元での回復」だ、ということです。「高次元での回復」はマルクスの言葉ですが、それは彼が読んだアメリカの文化人類学者モーガンの『古代社会』の氏族社会についての考えにもとづいています。共産主義が氏族社会の高次元での回復だとマルクスがいうとき、そこには当然、否定がふくまれています。そのままの回復、あるいはロマン主義的な回復では駄目です。


■自衛隊という 「徳川の回帰」

柄谷  徳川的なものをそのまま肯定したらひどいものになるのは決まっています。そもそも、徳川体制は封建制(地方分権)のようでいて、じつは非常に中央集権的です。大名は各地にいましたが、参勤交代を強制された。あのようなシステムは中国の帝国の全盛期でもありえない。また、徳川は、戦国時代の間に事実上消滅していた身分制社会を復活させた。ある面からいえばじつに反動的で、耐えがたいものです。坂口安吾の「日本文化私観」も事実上、徳川文化批判ですね。が、それを単に否定すると、どういうことになるか。明治になると、征韓論が起きて「秀吉万歳」となった。その意味で、戦国時代が回帰したのです。だから、徳川の「高次元での回復」というのは、同時に、徳川のマイナス面を否定することでなければならない。その意味では開国ではあるけれど、明治のような開国なら、鎖国のほうがましです。丸山真男が幕末を「第一の開国」、戦後を「第二の開国」と言いましたが、第二の開国は徳川の平和すなわち鎖国の回復という要素が入っていないと、真の開国にならないでしょう。だから、むしろ今後に「第三の開国」が必要ですね。第三の開国とは、憲法九条を実行することです。


ーー「高次元での回復」がポイントで、徳川体制に戻れとか、それを日本固有の文化として評価するという立場ではないのですね。


柄谷  そうですね。それに、僕は戦後に人々が徳川のことを思い出しだとは思わないんです。すでに明治維新以後七十年以上経っていたから。しかし、無意識に徳川を思い出したのだと思います。


『憲法の無意識』で僕は歌人の与謝野晶子が一九〇四年(明治三十七)に発表した、自分の弟を歌った「君死にたまふことなかれ」を引用しました。僕は明治の人はあの歌を平気で歌っていたのだろうかと思うんです。だって、「堺の街のあきびとの/舊家をほこるあるじにて/親の名を纏ぐ君なれば/君死にたまふことなかれ」という、その商人というのは階級でしょう。だから、この歌は非戦を訴えると同時に、ある意味で身分制度を肯定しているんです。同じ歌の中で、侍のことは「かたみに人の血を流し、/獣の道に死ねよとは」とか、差別的なんですよ。要するに、明治末期では、戦争であれ非戦であれ、人々の意識の中にまだ徳川の体制が十分に残っていたということです。


一方、戦後の日本人にはそんな意識はまったくなかったと思います。日本人はみんな武士だ、あるいは武士であるべきだ、と思っていたんじゃないでしょうか。徳川時代に町人や農民がそんなことをいったら大変です。その上、徳川時代には、武士は人を殺きなかった。武士の大多数が生涯一度も刀を抜いたことがなかったと思います。そもそも十六世紀半ばでは刀はもう古かった。西洋の騎士道もそうですが、戦争で鉄砲や大砲を使うようになった時期に、もう武器として通用しないような昔の武器が象徴的に重視されるようになったわけです。だから、刀は象徴にすぎない。今のネクタイみたいなものです。たぶん、徳川時代でも帯刀するのを嫌がった人が多いと思う。


ーー「武士道」は武士が戦争をしなくなったときに成立したものにすぎないと指摘されていますね。


柄谷  武士道が日本人一般のあり方として説かれるようになったのは、一八七三年(明治六)に徴兵制がしかれて以降ですね。だから明治維新以後、多くの日本人は無理していたんですよ。第二次大戦後に日本人が敗戦状況に置かれたときには、すでに徳川時代のあり方を覚えていなかったと思います。しかし、本当は、それが日本人になじんだ生き方だったんです。だから、明治以後の文明開化の無理をやめようとなったときに、「徳川」が回帰してきた。つまり、憲法九条は頭のいい人たちが反省して作ったものじゃないんです。それだったらまた頭のいいやつが出てきて変更されたでしょう。そうじゃなくて、最初は天下りで押しつけられた憲法九条の下で、人々が昔なじんでいたものを何となく思い出した、という感じがあったと思う。これは徳川時代を持つ日本人以外にはちょっとわからない感覚だと思います。


ーー憲法一条も、九条における自衛隊の存在も、徳川の体制との比較においてわかることが多いのですね。


柄谷  そうですね。自衛隊は戦力であり、且つ戦力ではない。 これに似たものは、世界中どこを見ても、徳川の武士以外には見当たらない。だから、やはり徳川の回帰だという感じがします。


◼️フロイトに訪れた啓示


ーー憲法九条を、後期フロイトの理論から見ることが本書の核になっていると思います。九条が日本人の自発的な意志ではなく占領軍によって強制されたものにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程が見事に説明されている。国民の集団的無意識とフロイトを結びつける視点はどこから得られたのでしょうか。


柄谷  僕はカントについてと同様に、フロイトについてずっと考えてきました。というか、カントの問題とフロイトの問題を結びつけて考えることを、九〇年代からずっとやっていた。たとえば、カントは美と崇高の違いを、つぎのように説明しました。美はいわゆる美しい対象に対してもつ感情ですが、崇高は恐ろしいような巨大な圧倒的な対象に対してもつ感情です。つまり、美は感覚的な快にもとづくが、崇高は感覚的な不快を通して実現される。崇高とは、巨大な対象に対して屈服すると同時に、その不快を能動的に乗り越えることです。実は、これはフロイトが考えたことに似ているのです。たとえば、彼は『快感原則の彼岸』で、一歳半の子供が、母親が外出したあと、一人遊びを創り出したことを例にあげています。日本語でいうと「いない、いない、ばあ」というような遊びです。これは母親がいなくなった苦痛、不快を何度も反復して、それを能動的に乗り越えることですね。つまり、これはカントが崇高について見いだしたのと同じものなのです。


フロイトがこのような考察をしたのは、第一次大戦後、戦争神経症の患者に出会ったあとです。彼らは毎晩、戦争の夢を見てとび起きる。フロイトは初期の『夢判断』以来、こう考えていました。夢においては、日頃、現実原則の下で抑圧されたものが回復される。つまり、夢では快感原則が解放される。むろん、夢でも、現実原則による「検閲」がなされるので、変形されて表現されます。だから、わけのわからないものになるわけです。それを解読するのが、精神分析であった。しかし、フロイトが第一次大戦後に出会った患者は違っています。毎晩夢を見て飛び起きる。これは、フロイトがそれまでもっていた夢の本性に反することです。第一に、人が眠ったとき夢を見るのは、覚醒しないだめである。だから夢を見て毎夜目覚めるのはおかしい。第二に、夢では快感原則が実現されるはずだけれども、この場合は違う。不快のあまり起きるのだから。そして、この不快な夢を毎晩見る。フロイトは、ここから、根源に、快感原則にも現実原則にも従わない反復強迫を見いだし、それを「死の欲動」と呼んだ。しかし、彼はそれによって何をいいたかったか。彼が「いない、いない、ばあ」という子供の遊びを例にとったのは、そのときです。反復強迫は、むしろ、それによって能動的に不快を乗り越えることです。そして、そのあと、彼は超自我について考えたわけです。これは、死の欲動が外に向けられて攻撃性となったものが、内に向かったときに生じる。もともとは内から来るものです。超自我というと、親や世間の見方、つまり、外的なものが子供に内面化されたものと見られますが、そうではない。それなら「現実原則」といえばよい。超自我は、快感原則も現実原則も超えたものです。そして、それは厳しく自己を律するものですが、外からの強制ではない。フロイトが超自我と呼ぶものは、内なる死の欲動から来るものです。つまり、外から強制されたように見えて、内から来るものです。


僕はそこからヒントを得て、日本の憲法九条は、戦争期に外に向けられた死の欲動が回帰して生じた超自我だと考えたのです。実は、僕が憲法九条の問題をフロイトと結びつけるようになったきっかけは、江藤淳の論文『一九四六年憲法ーその拘束』(1980)にあります。彼はそこで、名をあげていないけれども、フロイトに依拠していました。ただし、これは前期フロイトの考えなんですね。くりかえすと「超自我」は後期フロイトの概念で、フロイトはそれ以前には「検閲」という概念を提示していました。無意識において支配的な快感原則が現実原則によって抑制・修正される、というメカニズムが『夢判断』に書いてある。この場合の「検閲官」は、社会の規範、つまり親ないし世間です。それは後期フロイトの「超自我」とは似て非なるものです。


しかし少なくとも江藤淳は、憲法九条が日本に定着したことに「謎がある」ということはわかっていた。他の人はたんに、アメリカがそれを押し付けたというだけです。もしそうであれば、説得すれば意見を変えるはずです。江藤はそうはいかないことを知っていた。では、なぜ九条が日本人の意識にそこまで深く根ざしているのか、それは占領軍による操作がよほどすごかったからだ、と推理したわけですね。


ーー江藤さんは後期フロイトには行かなかったわけですね。


柄谷  そうです。だから『成熟と喪失』のような考えになる。人は現実原則を受け入れて「成熟」する。それは快感原則を「喪失」することを伴う。前期フロイトだけで考えると、そういう考えになります。江藤が参照したと思われるアメリカの心理学者工リック・エリクソンもそう。一方、後期フロイトの「死の欲動」というのはある意味で疑わしい概念で、それを入れるとうまく行かないことが多い。だからフロイト派の中でも大多数がそれを否定した。積極的に肯定したのはメラニー·クラインぐらいで、ラカンもあまり言及しない。


しかし、僕は「死の欲動」という概念を、精神医学の問題というより、歴史的・社会的な問題として考えた。フロイトが死の欲動について考えたのは、第一次大戦のせいです。といっても、戦争神経症・外傷性神経症はそれ以前からありました。フロイトもそれを知っていた。にもかかわらず、第一次大戦の間、フロイトは楽天的でした。戦争が終われば、人々は自然に元に戻ると考えていた。そうでない、ということをフロイトに教えたのが、特定の患者たちです。彼らは毎晩夢の中で繰り返し戦争の体験をして飛び起きる、これはたんに受け身ではなく能動的な行為なのです。それを反復して、戦争の衝撃を自ら乗り越える。そのような患者は少数でしょうが、フロイトは彼らに出会って考えを根本的に改めた。いわば患者の方がフロイトに告げに来たのです。「お前の考えは間違っている」と。そしてフロイトはそれを受け入れた。


ーーフロイト自身の中でそこで考えが変わっている?


柄谷  そう。僕がこの本で述べたことは、たんなる精神分析の応用ではなくて、フロイト自身について考えることです。つまり、後期フロイトは「戦後」の思想家なのです。僕は、フロイトが一九二四年に書いた『マゾヒズムの経済論的問題』(『フロイト全集B」岩波書店)からの一節をこの本に引用しました。「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである」。しかし実際にはその反対なのです。「最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである」。

これは、憲法九条が外部から強制されたものであるにもかかわらず、日本人がそれを自主的に受け入れたことの見事な解説となっています。日本人が戦後に反省して九条を作ったというのは嘘です。意識的な反省からこのようなものが出来るわけがない。反対に、九条は米占領軍に強制されたものだから自主的なものに作り直すべき、というのも間違いです。江藤淳のように占領軍による巧妙な検閲があったという考えも成り立たない。明らかに九条の存在は米軍の強制によるものです。だがそれにもかかわらず、それが日本人に強い「倫理性」をもたらしたのです。


ーー本書の中でカントの平和論とフロイトを結びつける考えの原型は、二〇〇三年に書かれた「カントとフロイト トランスクリティーク2」で提示されていると思います。二つの思想を横断する「トランスクリティーク」という批評の方法を、どのように身につけられたのですか。


柄谷  考えていったらそうなったというだけで、二つを結び付けようとして始めたわけじゃないけどね。『トランスクリティーク』には「カントとマルクス」という副題が付いていますが、マルクスに関して僕は、七○年代に『マルクス その可能性の中心』(一九七八)を書いた。ふつうマルクスは史的唯物論という思想が根本にあって、そこから各国の社会史を見たと思われているけれども、僕が書いたのは、ドイツの言説の中にいたマルクス、そこからフランスに亡命し、さらにイギリスに亡命し、それぞれの場所で考えたマルクスです。すべてを見渡せるような視点ではなく、 移動とその都度の言説空間の差異の中で出てくる批評性、それが「トランスクリティーク」です。当時はそういう名で呼んでいなかったけれども、方法としてはその頃からすでにあったと思います。




■なお残る九条の「謎」


ーー本書を通じて、憲法九条にある「幾つもの謎」は解明できたとお考えですか。


柄谷 できたと思います。僕にとって、この謎を解明すること自体は難しくはないのです。が、十分に説明できた後でも、やっぱり不思議だという気持ちがなお残る。どうしてこんなことがおあつらえ向きにできているのか、よくこんなことがありえたなという驚きが。それこそ神の導きのような.…。そういう言い方はしたくないんだけどね。「神国日本」みたいなことを想起させるので。


ーー日本は神の国だ、というような……。


柄谷  僕の本は、そうはなっていないはずですが。実際、この本のI章は韓国での講演が元になっています。したがって、韓国人が読んでも理解できるように書いてある。そもそも韓国には日本が憲法九条を持っていることすら知らない人が多いでしょう。現に自衛隊があるからね。日本人が憲法九条を持つにいたった経緯ももちろん知らない。実際は、日本人も知らないのですが。日本人はドイツ人に比べて戦争に対する反省が足りないという、中国人や韓国人が多い。私もそういわれたことがあります。それは半ば正しい。しかし、半ば正しくない。僕はむしろそのような人たちに対して、憲法九条について説明しようとしたのです。憲法九条は別に、日本人が反省して自発的に作ったものではありません。しかし、意識的反省なんて、戦争経験をもたない世代になったらすぐ消えるはずですよ。ところが、九条は消えない。それは日本人のもっと深い無意識に根ざしているからです。


ーー意識的な反省よりももっと深いものがあるということですね。


柄谷  しかも憲法九条は別に日本人が考えだしたものではない。九条の元にあるのは、ある意味ではドイツの思想でしょう。もっとも、カントは自分をドイツ人だと思ってないけどね。とにかく、カント、フロイトといった僕がこれまでずっと考えてきた思想家たちが日本と、かくも深い縁を結んでいる。その縁を、七十歳を過ぎた日本人の僕が発見した。じつにうまくできているな、と思いませんか(笑)。


ーー本書の冒頭に、九条にある謎として三つ提示されていますが、その三つを理論的に説明した後になお残る謎があると。


柄谷  いろいろなことがあまりにも符合するからね。説明はできるけれど、本当にこうだったんだなとあらためて驚くということです。まあ、二重の意味で「こんなに有り難いことがあるのか」という感じですよ。有り難いというのは「ありにくい」という意味です。むろん、感謝の意味でもあります。


ーー誰かが絵を描いたわけではないのに、いろんな条件があまりにうまく組み合わさっている驚き……。


柄谷  そう、もしこれが推理小説だったら、こんなにいろんなことが都合よくいくわけないだろう、といわれてボツにされるよ。


ーー本書中の言葉でいえば、カントの「自然の狡知」というべきメカニズムが働いているということでしょうか。


柄谷  そうですね。ただし、「自然の狡知」はカント自身の言葉ではなく、ヘーゲルの言う「理性の狡知」に対して、カントだったらこうなるだろうというような概念です。ヘーゲルは「理性の狡知」を特にナポレオンに関して考えました。ナポレオンはフランス革命の理念を全ヨーロッパに広げたといえますが、別にそのような高邁な理念によってそうしたのではない。個人的な権力欲から征服戦争を起こしたのですが、各地でそれに抵抗する運動があり、それが結果的にフランス革命にあったような近代国家の条件を作り出した。つまり、彼らはナポレオンからフランス革命の思想を受け取ったのではなく、ナポレオンに抵抗することでフランス革命的なものを実現したのです。それでヘーゲルはナポレオンを「世界史的な人物」と呼んだわけです。理念はむしろそのようにしか実現されない、それが「理性の狡知」です。


日本の憲法九条に関していえば、マッカーサーも世界史的な人物だといえますね。マッカーサー自身には理念はない。彼は自分が大統領になる野心があっただけです。けれども結果的に世界史的に大きなことを果たしたことになる。このことを何と言えばいいのかと考えると、やっぱり「理性の狡知」とでもいうほかない。だから、僕は、これは二重の意味で「有り難い」ことだと思います。


ーー憲法九条の現在についてうかがいます。安倍政権下で安保法案が可決され、自衛隊の海外派兵が事実上可能になりました。近い将来、たとえば中東で自衛隊員の戦死者が出ることも考えられます。その場合、国内ではどのような反応になるでしょうか。


柄谷  否定的になるに決まっています。そもそも、戦地に日本人が行っても役に立たない。誰にとっても不幸で、喜ぶのは軍事オタクだけですよ。実際に戦争に行った世代が健在

なうちは、軍事オタクはいなかったけど、今は大臣にもウヨウヨいるでしょう。


■九条を守るのではなく、実行せよ


ーー本書の結末部に、世界資本主義がその限界を露呈する近い将来において、「日本がなすべきでありかつなしうる唯一のことは、憲法九条を文字通り実行すること」だと書かれています。九条の実行というのが本書の最もラディカルな主張で、「九条を守れ」ではないんですね。


柄谷  九条を守ることは簡単なんですよ。新聞には、安倍政権が今度の選挙で改憲をしようとしている、と書いてある。そんなわけがない。改憲を争点とせずに選挙をやるに決まっています。しかし、そのようにして与党が選挙で三分の二の議席を取って改憲法案を可決しても、その後に国民投票があるのです。国民投票の投票率は参議院選挙のような五割程度のしょぼいものじゃなく、七、八割にはなる。そうしたら改憲は否決されます。なぜなら、そのとき日本人の「無意識」が出てくるから。


僕は昨年大阪で行われた、橋下徹の大阪都構想の是非を問う住民投票のときに、たまたま市内にいました。当日もうるさく賛成投票を呼びかけていた。市はおそらく相当お金を使ったでしょう。おかげで投票率が上がった。そして結果は反対多数で否決されたのです。しかしその後のダブル選挙では大阪維新の会が勝っている。なぜかというと、投票率が下がったからです。ふつう選挙に行くのは毎回決まった人だけです。しかし大阪都構想のような案件ですら、一定の投票率を超えると集団的な無意識が出てくる。この本にも書きましたが、集団的無意識は世論調査によって知ることができます。


ただし、それは偏ったマスコミが行う「世論操作」のようなものではなく、ランダム・サンプリングによる「世論調査」でないと駄目ですが。おそらく政権はこれまで内密にそれをやってきたでしょう。だから、選挙になると、改憲については沈黙するのです。


ーー世論調査のほうが、正確に民意が反映されるわけですね。


柄谷  しかし彼らの間違いは、その民意がいずれ変わると思っていることです。戦後七十年間そう思い続けている。そのうち変わるだろうと。「日本が独立したら変わるだろう」「何々したら変わるだろう」。が、変わらない。すると次は、変わらない理由は誰か悪いやつがいるからだと考えて、「日教組をつぶせ」「公明党を抱き込め」と。でもまだ変わらない。それはなぜなのか。そのことを謎とも思わない連中がよく政治をやっていられるなと思う。僕のいっていることは印象や憶測ではない。ちゃんとデータがあるんです。


ーー統計学的な理論に裏づけられている。


柄谷 それが一番無意識に近いと思うんですよ。僕が面白いと思ったのは、世論調査の方法を日本に持ち込んだのはアメリカの占領軍だということです。アメリカでもまだ実行されていなかった新方式を日本に持ち込み、一九四八年(昭和二十三)に朝日新聞社などが行った。ちゃんとした世論調査をしようとしたら、現在のように電話でするのは駄目で、調査員が面接する必要があるから、人手がいるし費用がかかるんだけどね。ともかく、護憲派の人々が危倶するような、九条が日本から消えることは決してない。むしろ心配すべきなのは、九条さえ守ればいいという考えになることです。政府自民党が選挙で改憲をいわないと安心する。しかし、選挙では、憲法問題をもっと正面から争点にすればよい、そう仕向けるべきです。


ーー実際に現政権は、安保法案を作ったりして、九条を形骸化する方向に進んでいますね。


柄谷  だから、もっと積極的に攻勢的に行かないと駄目ですね。そもそも、九条があるだけでは意味がない。九条を文字通り実行することが必要であり、それが日本にとって唯一の希望です。たとえば、日本の政府は国連の常任理事国になることを切望していますが、九条を実行すると国連総会で宣言すれば、日本はすぐに常任理事国になれます。現在の常任理事国が反対しても、多数が賛成して国連総会で承認されるでしょう。日本国憲法前文に、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と書いてある。その国際社会というのは事実上、国連のことでしょう?  日本は、現在の国連では常任理事国になれないし、なる必要もない。それは「名誉ある地位」ではまったくないから。しかし、憲法九条を唱えて常任理事国になれば、それが現在の国連を根本的に変えることになる。


僕は、今の国連が永く続くとは思わない。なぜなら、あれはまだカントの理念とは縁のない、それ以前の考え方だからです。カントの平和論はサン・ピエール、そしてルソーの考えを批判的に受け継いでいるのですが、サン・ピエールは列国君主らが結ぶ平和連邦を構想した人で、第二次大戦の戦勝国が常任理事国を務める現在の国連はサン・ピエール型といえます。カントとはほど遠い。日本が唯一、カント的な国際連合を作る力を潜在的に持っているんです。だから、九条を実行するとだけ言えばいい。他の国が日本の真似をしようと思ったら、まずその国の憲法を変えないといけないわけですが、その点で日本は楽だよ(笑)。


ーすでに条文があるから。


柄谷 それを実行さえすればいい。日本人は憲法九条を実行していないということは確かです。しかし、第二次大戦以後、一切戦争に加担していないといっても虚偽ではない。たとえば、僕の『〈戦前〉の思考』(一九九四)の韓国版が出ることになったときに、韓国の版元から「タイトルの『戦前』という言葉は韓国ではあまり意味を持たないので、変えてもいいですか」といわれて、承諾しました。考えてみれば、韓国は朝鮮戦争以後ずっと北と軍事的に対時しているわけです。ベトナム戦争にも参加している。今「戦後」などとはっきり言える国は少ないのです。日本で「戦後」ということがいえるのは、憲法九条のおかげです。国際社会における「名誉ある地位」を与えるものは、憲法九条のほかにない。また、日本文化というものがあるとしたら、真に名誉ある日本文化はこれだけです。


■ジャパニーズ ・ユートピアとしての九条


ーー本書以外の柄谷さんの最近のお仕事に、「atプラス」で連載中の「Dの研究」があります。最新8号ではアウグスティヌス『神の国』、トマス·モア『ユートピア』の読解を通じ、いまだ実現はされていない交換様式Dを論じられている。憲法九条とは、Dに近いものと考えていいのでしょうか。


柄谷  いいと思います。ユートピアで思い出したけど、僕は『憲法の無意識』のI章の講演を昨年韓国でやった後、それと同内容の論文を英語で発表しました。それはフレデリック・ジェイムソンが今度出すAn American Utopia (Verso)という本に、ジェイムソンの論文への応答として寄稿したものです。ジェイムソンのいうアメリカン・ユートピアとは何かというと、アメリカに徴兵制を実現することなんです。日本と違ってアメリカでは徴兵制は憲法にあるもので、ただ、実行されないだけです。ベトナム戦争以降、それは停止されている。そこで、ジェイムソンは、徴兵制を実現することが失業問題はじめあらゆる社会問題を解決する唯一の革命的な方法であると言うのです。そもそも市民革命はどこでも徴兵制と結びついています。人民軍です。しかし現代の軍隊にとって、それは不要で邪魔なものです。人を使わなくてもドローンで十分だし、徴兵を強行すると反戦運動が盛り上がってひどいことになる。しかし、そこであえて徴兵制を実現しよう、というのがジェイムソンの提案です。それがアメリカン・ユートピアです。


僕はそれに応答して、憲法九条とその制定のプロセスについて書いた。それを書きながら気づいたのは、九条はある意味で、アメリカ人がアメリカではできそうもないユートピアを戦後日本において実現しようとしたものだということです。したがって、僕はジャパニーズ・ユートピアと呼ぶことにしたわけです。憲法九条はまさにユートピアです。それが実行されれば世界史的な事件になります。


ーー「Dの研究」では、トマス·モアが『ユートピア』を書いたソースとしてアウグスティヌス『神の国』が論じられています。アウグスティヌスの考える神の国はあの世ではなく、この世にある。憲法九条もそれに近いイメージなのかと感じがしました。


柄谷 『憲法の無意識』で九条をカントの平和論との結びつきにおいて考えましたが、僕の考えではカントの考えはライプニッツ、きらにはアウグスティヌスの『神の国』を受け継ぐものです。アウグスティヌスの考えは、ローマ帝国から来ていると思います。彼は帝国を「盗賊団」と呼んで批判しますが、全面的には否定しない。帝国の経験があるから、諸国家が共存する平和のヴィジョンを持ちうるのです。フィレンツェのマキャベリにせよ、ネーデルランドのスピノザにせよ、ジュネーブのルソーにせよ、近代国家を都市国家(ポリース)にもとづいて考えると平和は不可能です。それは一国しか考えていないから。その意味で、近代の主権国家の戦争状態を超える道は、アウグスティススが開示した方向にしかないと思います。


ーー『憲法の無意識』の最終章には予言的な部分があります。


「突発した局地的な戦争が世界戦争に発展する蓋然性は高い」「現在の新自由主義的段階も、やはり戦争を通して終息する蓋然性が高い」。「最悪のシナリオ」としてそう書かれているのが、たいへん気になるのですが。


柄谷  まあ、気にしてください(笑)。一方でそれは避けがたいという感じが僕にはあり、他方で、それを避けることができるという気持ちもあります。いずれ日本に憲法九条があるということが、内外ともに大きな意味をもつことになるのではないか、という予感があるのです。憲法九条があるために、日本はリアルポリティックスに対応できないといわれますが、リアルポリティックスなどは空想の産物にすぎない。日本にどうして憲法九条が現実にあるのか。そのことに驚かないような認識こそ非現実的だと思う。


ーー本書では、「リアリスティックな」考えと「非現実的な」考えが逆転して語られるんですね。


柄谷  このインタビューは文芸雑誌に載るのだからいいますけど、今あなたが言ったようなことは、文学にとってはごく普通のことでしょ?


ーー本書には憲法の条文を文学と比較する箇所がありますし、カントやフロイトを参照しながら論じる方法は、これは文芸批評なのではという気がしました。


柄谷 まあ、長年やっていましたからね。僕の発想がどういうところから出てきたのか、文学をやっている人なら気づくと思いますけど。


ーー最後に、本書刊行記念の大澤真幸さんとの対談で、柄谷さんが影響を受けてきた哲学者であるスピノザ、マルクス、フロイトはみんなユダヤ人であるとおっしゃっていましたが、彼らの思想に通底するユダヤ的なものというのはあると思われますか。


柄谷 神に選ばれた民としてのユダヤ人、という考えは一歩間違うと、近代ナショナリズムから生じたシオニズムになってしまいます。しかし、本来ユダヤ的な選民の思想というのはもっとつつましいもので、むしろどこにも属さず、孤立の中で生きることを支えるものであったと思うんです。その意味で、今言った思想家たちはユダヤ的だと思う。


あまり表だって言いたくないけど、この本で憲法九条について書きながら、「召命」という言葉を想起しました。英語で calling、ドイツ語で Berufung。そういう、神に召きれるようなことが個人だけではなく、民族、国民にも起こりうるということです。それは日本が特権的な所だからではなくて、愚かしい戦争に敗れた、外から見れば惨めな所であったからです。それでいいじゃないか。そこにこそ名誉があるんです。

(五月十日収録)



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※附記

憲法九条は、アメリカの占領軍によって強制された。この場合、日本の軍事的復活を抑えるという目的だけでなく、そこにカント以来の[恒久平和の]理念が入っていたことを否定できません。草案を作った人たち(すべてではないとしても)が自国の憲法にそう書き込みたかったものを、日本の憲法に書き込んだのです。(…)日本人はそのような憲法が発布されるとは夢にも思わなかった。日本人が「自発的」に憲法を作っていたなら、九条がないのみならず、多くの点で、明治憲法とあまり変わらないものとなったでしょう。(…)しかし、まさに当時の日本の権力にとって「強制」でしかなかったこの条項は、 その後、日本が独立し、簡単に変えることができたにもかかわらず、変えられませんでした。それは、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです。しかし、死者たちは語りません。この条項が語るのです。それは死者や生き残った日本人の「意志」を超えています。もしそうでなければ(…)こんな条項はとうに廃棄されているはずです。(柄谷行人『〈戦前〉の思考』1994年)