父の蒸発 [évaporation du père](ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年) |
エディプスの失墜[déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971) |
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父の死[La mort du Père]は、文学から多くの快楽を奪うだろう。「父」がいなければ、物語を語っても、何になろう。物語はすべてエディプスに帰着するのではなかろうか。物語るとは、常に、起源を求め、「掟」との紛争を語り、愛と憎しみの弁証法に入ることではなかろうか。今日、エディプスと物語が同時に揺らいでいる。もう愛さない。もう恐れない。もう語らない。フィクションとしてのエディプスは少なくとも何かの役には立っていた。よい小説を作ることの、上手に物語ることの。 |
La mort du Père enlèvera à la littérature beaucoup de ses plaisirs. S'il n'y a plus de Père, à quoi bon raconter des histoires? Tout récit ne se ramène-t-il pas à l'Œdipe? Raconter, n'est-ce pas toujours chercher son origine, dire ses démêlés avec la Loi, entrer dans la dialectique de l'attendrissement et de la haine ? Aujourd'hui on balance d'un même coup l'Œdipe et le récit : on n'aime plus, on ne craint plus, on ne raconte plus. Comme fiction, l'Œdipe servait au moins à quelque chose : à faire de bons romans, à bien raconter . |
(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年) |
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■フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』 より |
古今を通じての文学の三大傑作が、同一のテーマ、すなわち父親殺しを取り扱っているのは偶然の一致ではない。ソフォクレスの『オイディプス王』、シェイクスピアの『ハムレット』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、これら三つの作品においては、父親殺しの動機、すなわち女性をめぐる性的な競争もまたはっきりと示されている。 |
Es ist kaum ein Zufall, daß drei Meisterwerke der Literatur aller Zeiten das gleiche Thema, das der Vatertötung, behandeln: Der König Ödipus des Sophokles, der Hamlet Shakespeares und Dostojewskis Brüder Karamasoff. In allen dreien ist auch das Motiv der Tat, die sexuale Rivalität um das Weib, bloßgelegt. |
最も真摯な叙述が見られるのは、ギリシアの伝説に依拠した戯曲(『オイディプス王』)であろう。この作品においてはまだ、父親殺しを実行したのは主人公自身だということになっている。けれども、ある程度までは事実を隠蔽したり緩和したりしなければ、この素材を文学作品に仕立て上げることは不可能である。もし、父親を殺そうという意図が、精神分析の結果解るのと同じように赤裸々に語られるとすれば、それは、精神分析によってこういう事物についての予備知識を与えられていない人々には堪えられないほどのグロテスクな印象を与えるであろう。この戯曲においてソフォクレスは、事柄の本質は変えないままに、主人公の抱いている無意識の動機が、主人公とは異質な運命の強制によって現実に投影するという形式を採ることによって、グロテスクな印象の緩和という、この場合不可欠な要件を巧みにみたしている。主人公はそうとは知らずに父親を殺してしまうのであり、一見そこには女性の影響などというものはないかのような観を呈している。けれども、女性をめぐる抗争というこの要素はちゃんと計算に入っている。 すなわち、主人公はまず、父観の象徴である怪物を退治し、いわば第二の父親殺しを実行した後でなければ実の母親である王妃を手に入れることができないのである。われとわが罪を発見し、それを意識したのちにも、主人公は、それが運命の強制によるものであったという作者の筋書を口実として責任を他に転嫁しようとはせず、進んでその罪を承認し、意識的に罪を犯した、すなわち、 完全な意味での罪を犯したかのようにわれとわが身を罰する。これは、常識からいえば不当なことに思われるかもしれないが、心理学的に見た場合には完全に正当である。 |
Am aufrichtigsten ist gewiß die Darstellung im Drama, das sich der griechischen Sage anschließt. Hier hat der Held noch selbst die Tat vollbracht. Aber ohne Milderung und Verhüllung ist die poetische Bearbeitung nicht möglich. Das nackte Geständnis der Absicht zur Vatertötung, wie wir es in der Analyse erzielen, scheint ohne analytische Vorbereitung unerträglich. Im griechischen Drama wird die unerläßliche Abschwächung in meisterhafter Weise bei Erhaltung des Tatbestandes dadurch herbeigeführt, daß das unbewußte Motiv des Helden als ein ihm fremder Schicksalszwang ins Reale projiziert wird. Der Held begeht die Tat unabsichtlich und scheinbar ohne Einfluß des Weibes, doch wird diesem Zusammenhang Rechnung getragen, indem er die Mutter Königin erst nach einer Wiederholung der Tat an dem Ungeheuer, das den Vater symbolisiert, erringen kann. Nachdem seine Schuld aufgedeckt, bewußtgemacht ist, erfolgt kein Versuch, sie mit Berufung auf die Hilfskonstruktion des Schicksalszwanges von sich abzuwälzen, sondern sie wird anerkannt und wie eine bewußte Vollschuld bestraft, was der Überlegung ungerecht erscheinen muß, aber psychologisch vollkommen korrekt ist. |
イギリスの劇(『ハムレット』)の場合には、描写はもっと間接的である。主人公は父親をわが手にかけたわけではなく、彼の父を殺したのは他人であり、その他人にとっては、彼の父親を殺すことは、父親殺しとはならないのである。けれども、そうだからといって必然的に、もう一つの不愉快な動機、すなわち女性をめぐる性的な抗争のほうも隠蔽されているというわけではない。伯父による父親の殺害が主人公におよぼした影響がいかなるものであったかを知ることによって、われわれは、主人公の持っているエディプスコンプレクスをも、いわば反射鏡に映った形で見ることができるのである。すなわち本来ならば、主人公は父親を殺した伯父に復讐すべきである。ところが、不思議なことにはそれができない。 われわれは、彼の気力を奪ったものが彼の罪悪感であったことを知っている。彼は、殺された父親の子として、当然伯父に復讐すべきでありながら、自分にはその能力がないことを知って、それを罪と感じた、ということになっている。けれどもそれは、自分にも父親を殺したいという欲望があったことについての罪悪感が転位させられたもので、このような現象は、神経症の場合には、きわめて普通に見られるものなのである。いろいろな徴候から察するに、主人公は、この罪を超個人的な罪と感じていたらしい。彼にとっては、他の人々も自分自身に劣らず軽蔑の対象である。「すべての人をその人本来の価値に応じて取り扱うとしたら、神の怒りを受けずにすむ人がはたして何人いるだろうか」というわけである。 |
Die Darstellung des englischen Dramas ist indirekter, der Held hat die Handlung nicht selbst vollbracht, sondern ein anderer, für den sie keinen Vatermord bedeutet. Das anstößige Motiv der sexualen Rivalität beim Weibe braucht darum nicht verschleiert zu werden. Auch den Ödipuskomplex des Helden erblicken wir gleichsam im reflektierten Licht, indem wir die Wirkung der Tat des anderen auf ihn erfahren. Er sollte die Tat rächen, findet sich in merkwürdiger Weise unfähig dazu. Wir wissen, es ist sein Schuldgefühl, das ihn lähmt; in einer den neurotischen Vorgängen durchaus gemäßen Weise wird das Schuldgefühl auf die Wahrnehmung seiner Unzulänglichkeit zur Erfüllung dieser Aufgabe verschoben. Es ergeben sich Anzeichen, daß der Held diese Schuld als eine überindividuelle empfindet. Er verachtet die anderen nicht minder als sich. »Behandelt jeden Menschen nach seinem Verdienst, und wer ist vor Schlägen sicher?« |
ロシアの小説(『カラマーゾフの兄弟』)は、この方向をさらに一歩おし進めたものだといえる。この場合にも、父親を殺したのは、父親とのあいだの性的な敵対関係がはっきりとあらわれている主人公ドミートリイではない。けれどもその他人も、ドミートリイと同じく、殺された父親の息子、すなわちカラマーゾフの兄弟の中の一人である。そして注意すべきことには、作者はこの男に自分自身の病気すなわちいわゆる癲癇を背負いこませているのであり、それはまるで、癲癇患者ないしは神経症患者としての自分は父親殺しであるということを承認しようとしているかのようである。ついで、法廷におけるあの有名な弁論の場では、いわゆる心理学的説明が両刃の剣のたとえによって嘲笑せられる。これは、大がかりな事実の隠蔽と称すべきである。なぜならこの弁論の主意を裏返しにしさえすれば、ドストエフスキー的な考え方の一番奥深い意味を発見することができるからである。嘲笑に値するのは心理学ではなくて、裁判上の捜査手続なのである。犯罪を現実に実行したのは誰であるかはまったくどうでもいいことなのだ。心理学にとって重要なのは、心の中でその犯罪の起こることを希望しそれが起こったさいに、心の中で快哉を叫んだのは誰かということだけなのである。それゆえにカラマーゾフの兄弟たちは、他の兄弟たちにたいしていちじるしい対照をなしているアリョーシャをのぞいては、三人とも父親殺しにたいして同様の責任があるのであって、この点については衝動を抑止する術を知らぬドミートリイもシニックな懐疑主義者たるイワンも、はたまた父を殺すにいたった癲癇患者たるスメルジャコフも同じことなのである。 |
In dieser Richtung geht der Roman des Russen einen Schritt weiter. Auch hier hat ein anderer den Mord vollbracht, aber einer, der zu dem Ermordeten in derselben Sohnesbeziehung stand wie der Held Dmitri, bei dem das Motiv der sexuellen Rivalität offen zugestanden wird, ein anderer Bruder, dem bemerkenswerterweise Dostojewski seine eigene Krankheit, die vermeintliche Epilepsie, angehängt hat, als ob er gestehen wollte, der Epileptiker, Neurotiker in mir ist ein Vatermörder. Und nun folgt in dem Plädoyer vor dem Gerichtshof der berühmte Spott auf die Psychologie, sie sei ein Stock mit zwei Enden. Eine großartige Verhüllung, denn man braucht sie nur umzukehren, um den tiefsten Sinn der Dostojewskischen Auffassung zu finden. Nicht die Psychologie verdient den Spott, sondern das gerichtliche Ermittlungsverfahren. Es ist ja gleichgültig, wer die Tat wirklich ausgeführt hat, für die Psychologie kommt es nur darauf an, wer sie in seinem Gefühl gewollt und, als sie geschehen, willkommen geheißen hat, und darum sind bis auf die Kontrastfigur des Aljoscha alle Brüder gleich schuldig, der triebhafte Genußmensch, der skeptische Zyniker und der epileptische Verbrecher. |
この小説の中には、いちじるしくドストエフスキー的な一場面がある。すなわちかの高僧(ゾシマ)はドミートリイと話し合っている中に、自分の中にも父親殺しの素質のあることを見てとって、ドミートリイの前に身を投げ出す。これは彼がドミートリイを讃美したという意味ではむろんなく、聖者たる彼が、殺人犯を軽蔑したい、ないしは徹底的に嫌いたいという誘惑をしりぞけ、自分がそのような誘惑を感じたことにたいする贖いとして、この殺人犯の前に頭を垂れたものと解すべきなのである。事実、犯人にたいするドストエフスキーの同情には際限がなく、それは、不幸な犯人にたいして当然払わるべき同情の範囲をはるかに逸脱して、古代人が癲癇患者や精神錯乱者にたいして抱いていた神聖な恐怖をさえ思い起こさせる。彼の眼には、犯人が罪をわが身に引き受けて、当然同じ罪を犯すはずであった人々を救った者とすら映している。 彼がすでに殺人の罪を犯してくれたおかげで、他の人々はもう人を殺す必要がなくなった。 |
In den Brüdern Karamasoff findet sich eine für Dostojewski höchst bezeichnende Szene. Der Staretz hat im Gespräch mit Dmitri erkannt, daß er die Bereitschaft zum Vatermord in sich trägt, und wirft sich vor ihm nieder. Das kann nicht Ausdruck der Bewunderung sein, es muß heißen, daß der Heilige die Versuchung, den Mörder zu verachten oder zu verabscheuen, von sich weist und sich darum vor ihm demütigt. Dostojewskis Sympathie für den Verbrecher ist in der Tat schrankenlos, sie geht weit über das Mitleid hinaus, auf das der Unglückliche Anspruch hat, erinnert an die heilige Scheu, mit der das Altertum den Epileptiker und den Geistesgestörten betrachtet hat. Der Verbrecher ist ihm fast wie ein Erlöser, der die Schuld auf sich genommen hat, die sonst die anderen hätten tragen müssen. |
しかしながらそれだけに人々は、そのことを犯人にたいして感謝しなければならない、彼がやってくれなかったら、自分たちがその罪を犯さなければならなかったのに違いないのだからというような工合である。ここには、好意にみちた同情以上のものが働いている。それは、自分の中にも犯人と同一の殺害衝動がはたらいていることを理由としてなされるところの、犯人と自分との同一化であり、元来は、ちょっと位置をずらされたナルシシズムなのである。むろんそうだからといって、この種の同情の持つ倫理的価値が動揺させられるわけのものではない。むしろ、自分以外の人間にたいして向けられる好意的な同情は、一般的にこういう構造を持っており、ただそれが自責の念に駆られているドストエフスキーのような極端な場合には、とくにたやす眼に触れるというだけのことかもしれない。一般に、ドストエフスキーの素材選択に決定的な影響を与えたのが、犯人と自分との同一化にもとづくこのような同情であったことは疑いを容れない。ただし最初の中は、彼もごく普通の犯罪人――利己心にもとづいて罪を犯した人――政治犯、および宗教的な犯罪人を取り扱ってきたのであって、その生涯の最後にいたって初めてもっとも原初的な型の犯罪人、すなわち父親を殺害した男に戻ったのであり、この男の物語を通じて、文学者にふさわしい自己告白を試みたのである。 |
Man braucht nicht mehr zu morden, nachdem er bereits gemordet hat, aber man muß ihm dafür dankbar sein, sonst hätte man selbst morden müssen. Das ist nicht gütiges Mitleid allein, es ist Identifizierung auf Grund der gleichen mörderischen Impulse, eigentlich ein um ein Geringes verschobener Narzißmus. Der ethische Wert dieser Güte soll damit nicht bestritten werden. Vielleicht ist dies überhaupt der Mechanismus der gütigen Teilnahme am anderen Menschen, den man in dem extremen Falle des vom Schuldbewußtsein beherrschten Dichters besonders leicht durchschaut. Kein Zweifel, daß diese Identifizierungssympathie die Stoffwahl Dostojewskis entscheidend bestimmt hat. Er hat aber zuerst den gemeinen Verbrecher –; aus Eigensucht –;, den politischen und religiösen Verbrecher behandelt, ehe er am Ende seines Lebens zum Urverbrecher, zum Vatermörder, zurückkehrte und an ihm sein poetisches Geständnis ablegte. |
(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し(Dostojewski und die Vatertötung) 』1928年) |
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ドストエフスキーは、小さな事柄においては、外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであり、最もお人好しな、もっとも慈悲心に富んだ人間であった。 |
in kleinen Dingen Sadist nach außen, in größeren Sadist nach innen, also Masochist, das heißt der weichste, gutmütigste, hilfsbereiteste Mensch. |
(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
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父が冷酷で乱暴で残忍であったとすると、超自我は、これらの諸性質をこの父から受け継ぐ。そして、この超自我と自我との関係の中に、受動性が――これこそまさに抑圧されるべきであったものなのであるが――ふたたび頭をもたげる。すなわち、超自我はサディスティッシュなものになり、自我は、マゾヒスティックな、その根本においては女性的・受動的なものとなる。すると、その自我の中には、罰を受けたいという強い欲求が起こる。そしてこの自我は、ある時には超自我をも含めた全体として外部的運命に屈従し、またある時には、超自我(罪の意識)によって虐待されることの中に満足を見出すのである。そのさい当然のことながら、あらゆる罰は根本的には去勢の意味を持っており、したがってそれは父にたいして古くから存在する受動的な態度の実現といっていいのである。そして究極においては、運命というものも、後に発生した父への投影にすぎないのである。 |
War der Vater hart, gewalttätig, grausam, so nimmt das Über-Ich diese Eigenschaften von ihm an, und in seiner Relation zum Ich stellt sich die Passivität wieder her, die gerade verdrängt werden sollte. Das Über-Ich ist sadistisch geworden, das Ich wird masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv. Es entsteht ein großes Strafbedürfnis im Ich, das teils als solches dem Schicksal bereitliegt, teils in der Mißhandlung durch das Über-Ich (Schuldbewußtsein) Befriedigung findet. Jede Strafe ist ja im Grunde die Kastration und als solche Erfüllung der alten passiven Einstellung zum Vater. Auch das Schicksal ist endlich nur eine spätere Vaterprojektion. |
(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
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ラカンにおける父の名の概念は、フロイトのエディプス、トーテムとタブーの神話と結びつき、その場に適切な位置づけを与えられる[Le concept de Nom-du-Père chez Lacan, il faut lui donner sa juste place, réunir à l'Œdipe freudien le mythe de Totem et Tabou](J.-A. Miller, DE LA NATURE DES SEMBLANTS , 27 NOVEMBRE 1991 ) |
宗教、道徳、社会的感覚―人間における高等なものの主要内容――は元来一つであった。『トーテムとタブー』の仮説にしたがえば、これらは系統発生的に父コンプレクスから得られ、宗教と道徳的制約は本来のエディプスコンプレクスを支配することによって、そしてまた、社会的感情は若い世代の仲間に起こる競争をなくす必要によって得られた。〔・・・〕超自我はまさにトーテミズムに導いた出来事から発生する。 |
Religion, Moral und soziales Empfinden ― diese Hauptinhalte des Höheren im Menschen ― sind ursprünglich eins gewesen. Nach der Hypothese von Totem und Tabu wurden sie phylogenetisch am Vaterkomplex erworben, Religion und sittliche Beschränkung durch die Bewältigung des eigentlichen Ödipuskomplexes, die sozialen Gefühle durch die Nötigung zur Überwindung der erübrigenden Rivalität unter den Mitgliedern der jungen Generation.(…) Das Überich ließen wir gerade aus jenen Erlebnissen, die zum Totemismus führten, entstehen. |
(フロイト『自我とエス』第3章、1923年) |
「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel : […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ? (Lacan, S5, 15 Janvier 1958) |
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※附記
セミネールⅥにおける「大他者の大他者はない」とは「父の名はない」を意味する[dans le …Séminaire vi, c’est-à-dire d’expliquer qu’il n’y a pas d’Autre de l’Autre veut dire qu’il n’y a pas le Nom-du-Père](J.-A. Miller, Une réflexion sur l’Œdipe et son au-delà, 2013) |
「大他者の大他者はない」。ラカンはこの定式を「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥで言った。これはS(Ⱥ) の論理的形式を示している。 « Il n'y a pas d'Autre de l'Autre. » Cette formule a été lancée par Lacan un jour de l'année 1959, le 8 avril, au cours de son Séminaire intitulé Le désir et son interprétation. Elle commentait l'écriture de forme logique S(Ⱥ)(J.-A. MILLER, L'Autre sans Autre (大他者なき大他者), 2013) |
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大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).](Lacan, S24, 08 Mars 1977) |
ラカンは父の名を終焉させた。それは、S(Ⱥ)というマテームの下でなされた。斜線引かれた大他者のシニフィアンである[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. …sous les espèces du mathème qu'on lit grand S de A barré, signifiant de l'Autre barré, ]〔・・・〕 これは大他者の不在、大他者は見せかけに過ぎないことを意味する[celle de l'inexistence de l'Autre. …que l'Autre n'est qu'un semblant. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas, 20/11/96) |
➤参照:穴のシニフィアンS(Ⱥ)は欲動の固着 |