2020年10月6日火曜日

プンクトゥムという享楽・痛みの徴


ストゥディウムとプンクトゥム  

第一の要素〔・・・〕それは、ストゥディウム(studium) という語である。この語は、少なくともただちに《勉学》を意味するるのではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである(ストゥディウムのうちには、それが文化的なものであるという共示的意味が含まれているのである)。

第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(ストゥディウムの場のように、私に帰属する意識を注ぐのではない)。写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。


Le second élément vient casser (ou scander) le studium. Cette fois, ce n'est pas moi qui vais le chercher (comme j'investis de ma conscience souveraine le champ du studium), c'est lui qui part de la scène, comme une flèche, et vient me percer. 

ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた徴を表わす語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい句読点のようなものがあり、ときにはそれが班点状になってさえいるのだ。この徴、この傷は、まさしく点の形をしているのである。それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum) と呼ぶことにしたい。


Un mot existe en latin pour désigner cette blessure, cette piqûre, cette marque faite par un instrument pointu; ce mot m'irait d'autant mieux qu'il renvoie aussi à l'idée de ponctuation et que les photos dont je parle sont en effet comme ponctuées, parfois même mouchetées, de ces points sensibles; précisément, ces marques, ces blessures sont des points. Ce second élément qui vient déranger le studium, je l'appellerai donc punctum;

というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな染み、小さな裂け目のことでありーーしかもまた、般子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。

car punctum, c'est aussi : piqûre, petit trou, petite tache, petite coupure ― et aussi coup de dés. Le punctum d'une photo, c'est ce hasard qui, en elle, me point (mais aussi me meurtrit, me poigne).(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章)


享楽・痛みのないストゥディウム

ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。(ロラン・バルト『明るい部屋』第11章)

「観客」としての私は、それらに多かれ少なかれ快を認める。私はそこに私のストゥディウムを投入する(だがそれは決して享楽あるいは痛みではない)。Et moi, Spectator, je les reconnais avec plus ou moins de plaisir : j'y investis mon studium (qui n'est jamais ma jouissance ou ma douleur). (同第11章)


細部、傷としてのプンクトゥム

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すme livrerことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』第19章)

展開しえないもの、ある本質 (傷の本質)[une essence (de blessure)]それは変換しうるものではなく、ただ固執 l'insistance (執拗なまなざしregard insistant によって) という形で反復されるだけである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第21章)

ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異 mutation vive de mon intérêtであり、稲妻 fulguration である。…ある何ものかが一閃して quelque chose a fait tilt、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第21章)

ストゥディウム studium は、つねにコード化 toujours codéされているが、プンクトゥム punctum は、そうではない。…それ(プンクトゥム)は鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第22章)

(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる傷 blessure もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』第30章)


プンクトゥムとしての時間

ある種の写真に私がいだく愛着について〔・・・〕自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça―a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』第39章「プンクトゥムとしての時間 Le Temps comme punctum」)


消えない痛み

喪は緩慢な作業によって徐々に痛みを拭い去ると人は言うが、私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない。私にとっては、「時」は喪失の感情を取り除いてくれる、ただそれだけにすぎない(私は単に喪失を嘆いているのではない)。それ以外のことは、時がたっても、すべてもとのまま変わらない。


On dit que le deuil, par son travail progressif, efface lentement la douleur ; je ne pouvais, je ne puis le croire ; car, pour moi, le Temps élimine l’émotion de la perte (je ne pleure pas), c’est tout. Pour le reste, tout est resté immobile. (ロラン・バルト第31章「「家族」、「母」」1980年)


ーー《疑いもなく、痛みが現れはじめる水準に享楽はある。Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d’apparaître la douleur(Lacan, LA PLACE DE LA PSYCHANALYSE DANS LA MÉDECINE, 1966)


身体の記憶

私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の回想 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)




享楽という身体の出来事

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

幼児期に起こるトラウマは、自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)



トラウマという不変の刻印

PTSDに定義されている外傷性記憶〔・・・〕それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)





過去のよろこびや痛みが封じこまれている身体の壺

記憶の混濁 troubles de la mémoire には心の間歇 les intermittences du cœur がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか痛みとかのすべて tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleursが、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている壺[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。同様に、そんなよろこびや痛みが、姿を消したり、舞いもどってきたりすると思うのも、おそらく正しくないであろう。とにかく、そうしたものがわれわれのなかに残っているとしても、多くの場合、それはしらじらしい領域に、もうわれわれにとってなんの役にも立たないものになって残っているだけであって、そのなかでもっとも役に立つものさえ、ちがったさまざまな種類の回想の逆流を受けるわけであり、それとてもまた、元の感情との同時性は、意識のなかでは全然望まれないのである。

祖母が私のほうに身をかがめたあの瞬間

ところが、よろこびや痛みのはいっている感覚の枠ぶちがふたたびとらえられるならば、こんどはそのよろこびや痛みは、相容れない他人をすべて排斥して、ただ一つ生みの親である自我をわれわれのなかに定着する力をもつものである。ところで先ほど、たちまち私に復帰した自我は、祖母がバルベックに着いたときに、上着と靴とのボタンをとってくれたあの遠い晩以来あらわれたことがなかったので、祖母は私のほうに身をかがめたあの瞬間 la minute où ma grand'mère s'était penchée vers moi.にいま私がぴったり一致したのは、あの自我のかかわり知らぬきょうのひるの一日のあとにではなくーー時のなかにはいくつものちがった系列が並行して存在するかのようにーー時間の連続を中断することなしに、ごく自然に、かつてのバルベック到着第一夜ののちに、じかにつづいてであった。

長いあいだ失っていた当時の自我

あんなに長いあいだ失っていた当時の自我 Le moi que j'étais alors, et qui avait disparu si longtempsは、いまふたたび私に非常に近くせまったので、はっきり目のさめない人が、消えてゆく夢を追いながら、その夢のなかの物音をごく身近に感じるように、上着と靴とをぬがせてくれる直前に祖母の口から出た、いまではもう夢でしかない言葉までが、まだきこえるような気がした。私はもはや、祖母の腕のなかにとびこんで、接吻しながら、彼女の心配そうな表情を消そうとしている存在でしかなかった、そういう存在を、もし私が、しばらくまえまで私のなかに継起していた存在のままで想像するとしたら、ずいぶん困難であっただろうし、同様に、いま、もし私が、すくなくともひとときもはや私を離れている元の存在の、欲求やよろこびを感じようとすれば、やはり努力を、それも空しい努力を要したであろう。

祖母をふたたび見出したことによって、永久に祖母を失ってしまった

私は思いだすのだった、祖母が買物先から帰ってきて、ガウンを着てあのように私の半長靴のほうに身をかがめてくれるまでの一時間というもの、暑さに息づまりそうなホテルのまえの通をあちこちしながら、菓子屋の店先で、一刻も早く彼女の接吻を受けたい欲求に、もうこれ以上ひとりで待っていることはとてもできないとどんなに思いつめたかを。そして、そのおなじ欲求がふたたびあらわれたいま、私は知るのだった、いまの私は何時間でも待つことができるのに、祖母はもう二度と私のそばに帰ってこないことを、それがやっとわかったのは、いまにも張りさけるばかりに胸を詰まらせながら、はじめて、生きた、真の、祖母を感じたことによって、つまり彼女をふたたび見出したことによって、永久に彼女を失ってしまったと気づいたからである en la retrouvant enfin, d'apprendre que je l'avais perdue pour toujour。(プルースト「心の間歇 intermittence du cœur」の章(『ソドムとゴモラ』1921年)