2022年5月19日木曜日

ファルス享楽/大他者の享楽(女性の享楽)について

 

◼️「ファルス享楽/大他者の享楽」=「言語の享楽/身体の享楽」

ファルス享楽とは、身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである[la jouissance phallique [JΦ] est hors corps [(a)],  – autant la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique](ラカン, 三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974)


まずファルス享楽の「ファルス」とは事実上、言語のこと。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  ](ラカン, S18, 09 Juin 1971)


次に大他者の享楽の「大他者」は身体のこと(前期ラカンの「言語の大他者」とは異なる)。


大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967)


つまりファルス享楽は「言語の享楽」、大他者の享楽は「身体の享楽」である。


享楽は、身体の享楽と言語の享楽の二つの顔の下に考えうる[on peut considérer la jouissance soit sous sa face de jouissance du corps, soit sous celle de la jouissance du langage] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 27/5/98)



◼️身体の享楽=穴の享楽=他の身体の享楽


ところで、ラカンは次のようにも言った。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


すなわち身体の享楽とは、穴の享楽ーー身体の穴の享楽ーー、トラウマの享楽である。


かつまた「身体の穴の享楽」を「他の身体の享楽」とも言った。


穴をなすものとしての「他の身体の享楽」[jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou] (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)



◼️他の身体の享楽=女性の享楽


この「他の身体」が晩年のラカンの「ひとりの女」である。


ひとりの女は他の身体の症状である [Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. ](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975)


ここでの症状は現実界の症状であり、享楽自体である。すなわち「他の身体の享楽」=「他の身体の症状」。


「他の身体」とは前期ラカンの鏡像身体ーーナルシシズムの身体ーーとは別の新しい身体という意味であり、「享楽の身体」である。


ラカンの身体は、第一に鏡像段階の身体[le corps du Stade du miroir]である。ラカンはその身体をナルシシズム理論から解読した。いやむしろ鏡像段階からナルシシズム理論を解読した。したがって本質的にイマジネールな身体[un corps imaginaire]である。

他方、身体の新しい地位は、ナルシシズムの享楽から脱却する必要がある[Le nouveau statut du corps, il s'impose de l'élaborer à partir du moment où on retire la jouissance du narcissisme]。どんな場合でも、新しい身体は自己イマージュの魅惑によっては定義されない。新しい身体は享楽の支柱であり、他の身体である[c'est le corps qui devient le support de la jouissance et c'est un autre corps]。この身体は鏡像イマージュ[image spéculaire]に還元される身体ではあり得ない。(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN -09/03/2011)


享楽とは穴であり、享楽の身体=穴の身体である。


享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


したがってひとりの女[Une femme]としての他の身体の享楽[jouissance de l'autre corps]が、1974年以降のラカンの女性の享楽自体である。


確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕


ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.]

(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



ここまでの用語群をいったんまとめておこう。ファルス享楽のほうはよいとして、誤解を招きやすい大他者の享楽は身体の享楽=穴の享楽であり、これが男女両性にある享楽自体としての女性の享楽である。



◼️女性の享楽(穴の享楽)=サントームの享楽=固着の享楽


ラカンはこうも言った。


ひとりの女はサントームである[ une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976)


つまり女性の享楽はサントームの享楽[la jouissance du sinthome]となる(より詳しくは➡︎参照)。


サントームとはフロイトの固着と等価である。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

サントームは固着の反復である、サントームは反復プラス固着である。[ le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


この固着は身体の穴である。


ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴をなす。固着が無意識のリアルな穴を身体に穿つ。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


この固着の穴の享楽こそ、ラカンがボロメオの環の想像界と現実界の重なり目に示した穴の享楽[J(Ⱥ)]である。





したがって穴の享楽[J(Ⱥ)]としての女性の享楽は、固着の享楽[jouissance de la fixation](固着の穴の享楽)である。



◼️女性の享楽=異者身体の享楽


さらに最晩年のラカンはこうも言った。


ひとりの女は異者である[une femme, … c'est une étrangeté.]  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


この異者とはフロイトの異者身体のことである。


われわれにとって異者としての身体 [un corps qui nous est étranger](ラカン, S23, 11 Mai 1976)


異者身体とは固着によって発生するトラウマの身体である。


固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体[Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


トラウマの身体、すなわち穴の身体であり、穴の享楽とは異者身体の享楽[jouissance du corps étranger]と等置できる。これが最も深い意味での「享楽自体=女性の享楽」である。


現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



先ほどのまとめ図の下段に付け加えればこうなる。




◼️ひとりの女はトラウマである。

ラカンは1975年に次のように言った。


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である![ « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975 )

症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


すなわち「ひとりの女は身体の出来事」である。

この症状は現実界の症状サントームである。


サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)


したがって「ひとりの女は症状」とは「ひとりの女はサントーム」と等価である。


ひとりの女はサントームである[ une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976)


つまり《サントームは身体の出来事として定義される [Le sinthome est défini comme un événement de corps]》(J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)


この身体の出来事とは固着のトラウマのことである。


身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021/01)


フロイトは次のように言っている。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用は、トラウマへの固着と反復強迫の名の下に要約される。[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang.]


この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


フロイトは固着とトラウマを等置している時もある、例えば《母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]=原トラウマ[Urtrauma]》(『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)と。


先の『モーセ』の文では、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]となっているが、上に見たようにフロイトにとってトラウマとは異者身体[Fremdkörper]であり、トラウマへの固着は異者身体への固着[Fixation sur le corps étranger]と言い換えうる。


結局、フロイトにおけるこの「固着としての不変の個性刻印の反復強迫」が、ラカンの穴の享楽=女性の享楽である。


そして異者とは母である。


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger,](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)



未熟児として生まれ出生後の最初の一年弱は常に母(あるいは母親役の人物)に依存しなければならないヒトにとっての身体の出来事(トラウマ)はほとんど常に母にかかわる。



母は幼児にとって強いなトラウマの意味を持ちうる[die Mutter … für das Kind möglicherweise die Bedeutung von schweren Traumen haben](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)

(初期幼児期における)母の喪失(母を見失う)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)



この母へのトラウマ的固着の反復強迫、これが女性の享楽の内実であるだろう。





そして、この「穴の享楽=女性の享楽」をシニフィアン化した享楽ーー防衛・抑圧としての享楽ーーが「ファルス享楽=言語の享楽」である。上にも示したように女性の享楽としての《享楽自体とは非エディプス的享楽[ la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne.]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)である一方で、ファルス享楽とはエディプス的享楽である、ーー《欲望の法・父の名によって否定された享楽がファルス享楽である[La jouissance négativée par la loi du désir, par le Nom-du-Père, c’est la jouissance phallique]》(Mathieu Siriot, LA JOUISSANCE FÉMININE : UNE ORIENTATION VERS LE RÉEL, 10 Novembre 2019 )