2022年1月10日月曜日

欲動はトラウマ、あるいは異者としての身体


フロイトの欲動はトラウマに関わる。

すべての神経症的障害の原因[Die Ätiologie aller neurotischen Störungen]は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動[widerspenstige Triebe]が自我による飼い馴らし[Bändigung]に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期のトラウマ体験[frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumen]を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。


概してそれは二つの契機、素因的なものと偶然的なもの[des konstitutionellen und des akzidentellen]との結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかにトラウマは固着を生じやすく[Trauma zur Fixierung führen]、精神発達の障害を後に残すものであるし、トラウマ的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態においてもその障害が現われる可能性は増大する[je stärker das Trauma, desto sicherer wird es seine Schädigung auch unter normalen Triebverhältnissen äußern.](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章, 1937年)



これは、ラカンが欲動の現実界は穴の機能(トラウマの機能)と言っていることに相当する。

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975、摘要)

現実界は、穴=トラウマをなす[le Réel. …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.]   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)



このトラウマの穴は原抑圧による。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する「 c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même](Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


原抑圧、すなわち固着、欲動の固着である。

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。〔・・・〕

この欲動の固着 は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


冒頭の文でフロイトがトラウマへの固着を示しているのは、この欲動の固着のことである。

トラウマとは身体の出来事であり、固着が生じる。

病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕

このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]

この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)




享楽は欲動と等価であり、トラウマの穴、つまり現実界である。

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)


したがって享楽はフロイトのトラウマの定義である身体の出来事であり、固着である。


享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)




ラカンが反復は享楽の回帰と言ったとき、享楽=トラウマゆえにトラウマの回帰となる。

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance].(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


これは例えば次のフロイト文に相当する。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)



……………



フロイトのトラウマの定義は異者としての身体、エスの欲動蠢動でもある。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体[Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



したがってラカンの現実界の享楽は異者(異者としての身体)である。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan、S23、11 Mai 1976)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



この異者としての身体は固着の残滓、つまり固着によってエスに置き残されたエスの身体である。

常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者としての身体は原無意識(本来の無意識)としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)




以上、ラカンの現実界の享楽はモノなる異者であり、事実上、エスの欲動である。

モノなる異者[Dingen Fremder](フロイト「フリース宛書簡」13. 2. 1896)

フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)




……………


※付記


ラカンはセミネールⅦの段階では享楽は侵犯だと言ったが、セミネールⅩⅦにて、享楽の侵入と言うようになる。

享楽の侵犯[la jouissance de la transgression](ラカン, S7, 30 Mars 1960)

人は侵犯などしない![on ne transgresse rien ! ]…

享楽、それは侵犯ではない。むしろはるかに侵入である[Ce n'est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption](ラカン、S17, 26 Novembre 1969)


これはフロイトの固着点の侵入に相当する。

侵入は固着点から始まる[Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。そしてその点へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年、摘要)


ラカンの思考におけるこの移行は、象徴界から見た現実界から現実界自体への移行に関わる(象徴界を侵犯して現実界が現れるのではなく、逆に現実界が侵入するということ)。

書かれることを止めないもの[c'est un ne cesse pas de s'écrire]。これが現実界の定義である[D'où la définition du réel]〔・・・〕


書かれぬことを止めないもの[ un ne cesse pas de ne pas s'écrire]、すなわち書くことが不可能なもの[ c'est-à-dire un impossible à écrire]。この不可能としての現実界は、象徴秩序の観点から見られた現実界である[le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse IX  Cours du 11 février 2009)


「書かれることを止めない」とはラカンにおいて次の形で現れる。

現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire] (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)

症状は現実界について書かれることを止めない[le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel ](Lacan, La Troisième, 1er Novembre 1974)


この書かれることを止めない現実界の症状が固着を契機にした無意識のエスの反復強迫である。

フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している、症状は固着を意味し、固着の契機は無意識のエスの反復強迫に見出されると。[le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. ]。フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である.。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)


無意識のエスの反復強迫の別の言い方が、固着点への回帰である。

現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )

フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)