①超自我は死の欲動の原因である |
超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, 16 janvier 1963) |
享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976) |
まず上の二文から、「超自我は現実界の享楽の原因」となる。
そしてーー、 |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
したがって超自我は死の欲動の原因である。 |
死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ... c'est la pulsion du surmoi] (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
上のラカンはフロイトにおいて次の形で現れている。 |
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。 Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
すなわち超自我=欲動の固着=自己破壊欲動=マゾヒズム=死の欲動である。 |
固着については、既に1905年の『性理論』の段階で、マゾヒズムと関連づけられている。 |
無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年) |
固着はフロイトにおいてトラウマ的固着[traumatischen Fixierung](『続精神分析入門』第29講, 1933 年)であり、事実上、トラウマ=固着である。そしてフロイトのトラウマの定義は自己身体の出来事である。
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トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen] (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
現代ラカン派において、享楽が固着あるいは身体の出来事と定義されているのは、この文脈のなかにある。 |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021) |
ラカンにおいて現実界がトラウマの固着であるのは次の形で現れている。
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現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma, ](Lacan, S11, 12 Février 1964) |
固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1 07 Juillet 1954) |
以上、簡単にいえば、超自我=欲動の固着=トラウマ(身体の出来事)=マゾヒズム(自己破壊欲動)=死の欲動であり、これがラカンの現実界の享楽である。
②原幼児期の人はみな女性的=受動的=マゾヒズム的 | フロイトにおいて母はトラウマあるいは固着である。 | 母は幼児にとって過酷なトラウマの意味を持ちうる[die Mutter … für das Kind möglicherweise die Bedeutung von schweren Traumen haben](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) | おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年) |
これは、①で示したようにトラウマ=身体の出来事=固着の文脈のなかにある。そしてトラウマ=受動性=女性性=マゾヒズムを意味する。
| トラウマを受動的に体験した自我[Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) | 母のもとにいる幼児の最初の出来事は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年) | マゾヒズム的とはその根において、女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
つまりフロイトの定義において、原幼児期において人はみな女性的=受動的=トラウマ的=マゾヒズム的ということである。そしてこれが母への固着に関わるのである。 | マゾヒズムの病理的ヴァージョンは、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着である[le masochisme, …une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, ](Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001) |
ラカンにおいて母は現実界であり、トラウマ、さらに①で示したように固着かつマゾヒズムであるのは、この文脈のなかにある。
| フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) | 母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) | 問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme]. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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③母は超自我 | フロイトラカンにおいて母が超自我である。 | 心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年) |
ーー高等動物にもある幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]はもちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。 | これ自体、ラカンは既にセミネール5の段階で言っている。 | 母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要) |
あるいはーー、 | (原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
「母なる女は享楽を与える」とは、②で示した乳児に受動性なるマゾヒズムを与えることを意味する。 |
④リアルな欲動自体がマゾヒズム的 | フロイトを表面的に読むだけだと、タナトス概念を初めて提出した『快原理の彼岸』以降、最晩年までエロスとタナトスの欲動二元論を示しているように見える。だがフロイトはこうも記している。 | 欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) | 自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
上の二文からリアルな欲動自体が自己破壊マゾヒズム的欲動となる。このマゾヒズム的欲動は①で見たように死の欲動である。したがってラカンは次のように欲動一元論を言うのである。
| すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](Lacan, E848, 1966年) | 死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. ](ラカン、S17、26 Novembre 1969) |
ラカンの享楽はフロイトの欲動である。ーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.]》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) | これは穴概念を通してラカン自身において鮮明化されている。 | 享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) | 欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
そして穴とはトラウマの穴である。
| 現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
トラウマはここまで見てきたように、フロイトの定義において身体の出来事=受動性=マゾヒズムである。つまりラカンは享楽=欲動=穴とすることにより、マゾヒズムを示している。そしてフロイトはマゾヒズムを死の欲動とエロス欲動の混淆として示している。
| マゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロス欲動との合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり残存物である[ Masochismus ein Zeuge und Überrest jener Bildungsphase, in der die für das Leben so wichtige Legierung von Todestrieb und Eros geschah. ](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年) |
この文脈の中でラカンとミレールの次の言明がある。 | タナトスの形式の下でのエロス [Eρως [Éros]…sous la forme du Θάνατος [Tanathos] ](Lacan, S20, 20 Février 1973) | ラカンによる享楽とは何か。…そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ](J. -A. MILLER, LES DIVINS DETAILS, 1 MARS 1989) |
このラカン派解釈は、実際はフロイトにおいてもリアルな欲動はマゾヒズム的欲動であり、エロスとタナトスの混淆であることが、示されているのである。 |
⑤欲動の対象としてのマゾヒズム的固着
| フロイトは欲動について別にこうも記している。 | 以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要) |
つまりフロイトにおいて回帰と反復ーー厳密には《無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]》(『制止、症状、不安』10章、1926年)ーーは等価である。
あるいは、1915年に欲動の対象は固着だとしいる。 | 欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。 Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年) |
これは最晩年まで変わらない。 | 人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する[Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält.] (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
固着とは先に見たようにマゾヒズム的固着である。 | 無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年) |
つまり生の最初期のマゾヒズム的固着が欲動の対象であり、その固着に回帰するのが欲動の普遍的特徴である。フロイトが次の文で比較を絶した重要性を持つ幼児期の最初期の出来事と言っているのはマゾヒズム的固着である。
| 幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ[die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
この比較を絶した固着点への回帰が、ラカンの現実界の享楽ーーマゾヒズム的固着ーーの姿である。
| 現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »] (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) | フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える[ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
享楽の一者とは、現実界の享楽の定義上、身体の出来事のシニフィアンあるいはマゾヒズムのシニフィアンを意味し、これが現実界的シニフィアンとしての固着である。
| シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる[le signifiant devient réel quand il est hors chaîne](Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009 | 単独的な一者のシニフィアン、二者から独立した一者、S2に付着していないS1(S2なきS1[S1 sans S2])… これが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – le Un détaché du deux, non pas le S1 attaché au S2…précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
最後に確認の意味で次の二文を掲げておこう。
| 反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970) | 享楽の本質はマゾヒズムである[La jouissance est masochiste dans son fond »](Lacan, S16, 15 Janvier 1969) |
すなわちラカンにおいて、反復とはマゾヒズムの回帰なのである。 |
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