2022年1月26日水曜日

すべての愛の原点には女を愛することがある

まずラカンとジャック=アラン・ミレールを引用することから始める。

定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女たちを愛することである。それは最も明瞭なことである[Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair]. (Lacan, L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

他の性 (大他者の性[Autre sexs])は、両性にとって女性の性である。男たちにとっても女たちにとっても女性の性である[the Other sex as such, for both sexes, is the female sex. It is the Other sex both for men and women. ](J.-A. MILLER, The Axiom of the Fantasm, 2009)


…………………



この発言の内実はフロイトのなかに既にある。以下、それを示す。


フロイトは母の乳房が愛の関係の原型だと1905年に書いている。


小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である[Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung] (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)


これは最晩年のフロイトの死の枕元にあったとされる論でも同様である。


子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性へのアタッチメントに起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。〔・・・〕


疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。


乳房が身体から分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.]

最初の対象は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ]


この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)





上に《幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす》とあるが、とはいえフロイトにとって原ナルシシズムの対象は、母の乳房だけではない。

母の乳房以外の原ナルシシズムの対象ーー究極の愛の対象ーーについては何よりもまず1914年のナルシシズム論にその示唆が見られる。


男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型[Anlehnungstypus]にのっとった完全な対象愛[volle Objektliebe]は、本来男性の特色をなすものである。このような対象愛は際立った性的過大評価[Sexualüberschätzung]をしているが、これはたぶん小児の根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus] に由来し、したがって性対象への転移に対応するものであろう。〔・・・〕


Die Vergleichung von Mann und Weib zeigt dann, daß sich in deren Verhältnis zum Typus der Objektwahl fundamentale, wenn auch natürlich nicht regelmäßige, Unterschiede ergeben. Die volle Objektliebe nach dem Anlehnungstypus ist eigentlich für den Mann charakteristisch. Sie zeigt die auffällige Sexualüberschätzung, welche wohl dem ursprünglichen Narzißmus des Kindes entstammt und somit einer Übertragung desselben auf das Sexualobjekt entspricht.


女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋一で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus ]の高まりが現われてくるように見えるが、この高まりは性的過大評価をともなう正規の対象愛を構成しがたいものにする。


Anders gestaltet sich die Entwicklung bei dem häufigsten, wahrscheinlich reinsten und echtesten Typus des Weibes. Hier scheint mit der Pubertätsentwicklung durch die Ausbildung der bis dahin latenten weiblichen Sexualorgane eine Steigerung des ursprünglichen Narzißmus aufzutreten, welche der Gestaltung einer ordentlichen, mit Sexualüberschätzung ausgestatteten Objektliebe ungünstig ist. 


彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである[Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt]. (フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


男女とも愛の原点としての原ナルシシズムに触れられているが、この文からは究極の原ナルシシズムの対象は女性器と読める。


フロイトにおいて究極の性対象はーーフロイトにおいて性欲動は愛の欲動であり、性対象とは愛の欲動の対象である[参照]ーー原ナルシシズムである。


人間は二つの根源的な性対象を持つ。すなわち、自分自身と世話をしてくれる女性である。この二つは、対象選択において最終的に支配的となるすべての人間における原ナルシシズムを前提にしている[der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib, und setzen dabei den primären Narzißmus jedes Menschen voraus, der eventuell in seiner Objektwahl dominierend zum Ausdruck kommen kann. ](フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


人間はこの原ナルシシズムを取り戻そうとする欲動があるが、それは出生とともに喪われた対象でもある。


自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす[Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む[haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt]  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)



結局、フロイトにとって究極の原ナルシシズムの対象は、喪われた子宮内生活である。


喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

子宮内生活は原ナルシシズムの原像である[la vie intrautérine serait le prototype du narcissisme primaire ](Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)


ラカンの享楽とはこの原ナルシシズム的享楽である[参照]。ラカンが次のように言っているのはその意味である。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


究極の享楽の対象が喪われた胎盤だとは、フロイトの究極の欲動の対象が母胎というのと同じである。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, ](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



以上、母の乳房が男女ともに愛の関係の原型だとは一般にもわかりやすいだろうが、その先には子宮内生活が究極の愛の関係の原型であるというのがフロイトラカンである。これを受け入れるなら、乳房と子宮を抱えている女性がナルシシズム的になるのは必然ということになる。



男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く[Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.](フロイト『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)

われわれは女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。

Wir schreiben also der Weiblichkeit ein höheres Maß von Narzißmus zu, das noch ihre Objektwahl beeinflußt, so daß geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.〔・・・〕

もっとも女性における対象選択の条件は、認知されないまましばしば社会的条件によって制約されている。女性において選択が自由に行われる場では、しばしば彼女がそうなりたい男性というナルシシズム的理想 にしたがって対象選択がなされる。もし女性が父への結びつきに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプに則る。

Die Bedingungen der Objektwahl des Weibes sind häufig genug durch soziale Verhältnisse unkenntlich gemacht. Wo sie sich frei zeigen darf, erfolgt sie oft nach dem narzißtischen Ideal des Mannes, der zu werden das Mädchen gewünscht hatte. Ist das Mädchen in der Vaterbindung, also im Ödipuskomplex, verblieben, so wählt es nach dem Vatertypus. (フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)




つまり女性の異性愛ーー男性への愛ーーは、フロイトラカンの思考の下では、事実上、自己愛(ナルシシズム)、女への愛に収斂する。




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※参照


同性愛についてはどうか。


同性愛において見られる数多くの痕跡がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係である[Il y a un certain nombre de traits qu'on peut voir chez l'homosexuel.   On l'a dit d'abord :  un rapport profond et perpétuel à la mère. ](Lacan, S5, 29 Janvier 1958)


フロイトラカンの臨床分析の下では、同性愛自体、その根に母への愛がある。



われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しいエロス的結びつき[erotische Bindung]があった、ーー母親自身の過剰な優しさ[Überzärtlichkeit] によって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中に父親があまり出てこないということによって。〔・・・〕


さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る[Die Liebe zur Mutter kann die weitere bewußte Entwicklung nicht mitmachen, sie verfällt der Verdrängung. ]

子供は母への愛を抑圧する。それは、子供が自分自身を母の位置に置き、母と同一化 し、彼自身をモデルにして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによってである。[Der Knabe verdrängt die Liebe zur Mutter, indem er sich selbst an deren Stelle setzt, sich mit der Mutter identifiziert und seine eigene Person zum Vorbild nimmt, in dessen Ähnlichkeit er seine neuen Liebesobjekte auswählt. ]


このようにして彼は同性愛者になる[Er ist so homosexuell geworden]。いや実際には、彼はふたたび自体性愛[Autoerotismus]ーー実際は自体性愛ではなくナルシシズム[Narzißmus][参照ーーに落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理であり更新に他ならないのだから[die der Heranwachsende jetzt liebt, doch nur Ersatzpersonen und Erneuerungen seiner eigenen kindlichen Person sind, die er so liebt, wie die Mutter ihn als Kind geliebt hat. ]。

言わば少年は、愛の対象[Liebesobjekte]をナルシシズムの道[Wege des Narzißmus]の途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソス[Narzissus]と呼んでいる。


心理学的にさらに究明してゆくと、このようにして同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着[Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert]したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠な者となる[Durch die Verdrängung der Liebe zur Mutter konserviert er dieselbe in seinem Unbewußten und bleibt von nun an der Mutter treu. ]


彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はそうすることによって、彼を不忠誠にしうる他の女たちから逃げ廻っているのである[Wenn er als Liebhaber Knaben nachzulaufen scheint, so läuft er in Wirklichkeit vor den anderen Frauen davon, die ihn untreu machen könnten. ]。

われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は標準的な男性と同様、女の魅力のとりこになること[daß der scheinbar nur für männlichen Reiz Empfängliche in Wahrheit der Anziehung, die vom Weibe ausgeht, unterliegt wie ein Normaler]を証明しえた。


しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に置き換え、絶えず彼がかつて同性愛を獲得したあの機制を繰り返すのである[aber er beeilt sich jedesmal, die vom Weibe empfangene Erregung auf ein männliches Objekt zu überschreiben, und wiederholt auf solche Weise immer wieder den Mechanismus, durch den er seine Homosexualität erworben hat. ](フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第3章、1910年)




途中に次の記述があった。


このようにして彼は同性愛者になる[Er ist so homosexuell geworden]。いや実際には、彼はふたたび自体性愛[Autoerotismus]に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理であり更新に他ならないのだから[die der Heranwachsende jetzt liebt, doch nur Ersatzpersonen und Erneuerungen seiner eigenen kindlichen Person sind, die er so liebt, wie die Mutter ihn als Kind geliebt hat. ]。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第3章、1910年)


フロイトは自体性愛と書いている。これは元来のナルシシズムの定義が自体性愛であったためである。


それは次の二文に示されている。


自体性愛[Autoerotismus]。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人物に向けられたものではなく、自己身体[eigenen Körper」から満足を得ることである。それは自体性愛的である[Autoerotismus. …als den auffälligsten Charakter dieser Sexualbetätigung hervor, daß der Trieb nicht auf andere Personen gerichtet ist; er befriedigt sich am eigenen Körper, er ist autoerotisch](フロイト『性理論三篇』第2篇、1905年)

ナルシシズム[Narzißmus]という術語は、臨床上の記述に由来するものであり、1899年にP. ネッケ[P.Nácke]が選んだものである。ナルシシズムは、ある個人が自己身体を性的対象のように取り扱う[ein Individuum den eigenen Leib in ähnlicher Weise behandelt wie sonst den eines Sexualobjekts]、つまり性的快を抱いてこれを眺め、愛撫し、ついにはその行為によって完全な満足に至ることを表現している。


Der Terminus Narzißmus entstammt der klinischen Deskription und ist von P. Näcke 1899 zur Bezeichnung jenes Verhaltens gewählt worden, bei welchem ein Individuum den eigenen Leib in ähnlicher Weise behandelt wie sonst den eines Sexualobjekts, ihn also mit sexuellem Wohlgefallen beschaut, streichelt, liebkost, bis es durch diese Vornahmen zur vollen Befriedigung gelangt. (フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)


だがある時期以降のフロイトはナルシシズムと自体性愛を区別する。男性の同性愛の機制はまず、自体性愛ではなくナルシシズムであるだろう。


この区別についての記述は1913年に現れる。


個人においては性欲動[sexuellen Triebe]の顕れは最初から認められるが、初めはまだ外界の対象[äußeres Objekt]には向けられていない。性欲の個々の欲動因子がそれぞれ独立に快の獲得[Lustgewinn]をめざし、自己身体[eigenen Körper]にその満足を見出すのである。この段階を自体性愛[Autoerotismus]というが、それは対象選択[Objektwahl]によってとってかわられる。


さらに研究を進めていくと、これら二つの段階のあいだに第三の段階を挿入するか、場合によっては、第一の自体性愛の段階を二つに分ける[zwischen diese beiden Stadien ein drittes einzuschieben, oder, wenn man so will, das erste Stadium des Autoerotismus in zwei zu zerlegen]ほうが好都合、いや、むしろ必要であるととが明らかになった。この段階はその重要さのゆえにますます研究を必要としているわけだが、この中間段階においては、以前には分離していた性欲動がすでに一つの統一体にまとまって、ある対象をも見出しているのである。といっても、この対象は外的な、個人と無縁なものではなくて、この時期に構成される自らの自我なのである[dies Objekt ist aber kein äußeres, dem Individuum fremdes, sondern es ist das eigene, um diese Zeit konstituierte Ich. ]

こうした状態の病理学的固着、これについては後に考察するが、それを考慮したうえで、この新段階をナルシシズムの時期と呼ぶことにする[pathologische Fixierungen dieses Zustandes heißen wir das neue Stadium das des Narzißmus]。人はあたかも自らを愛しているかのごとくふるまう。自我欲動とリビドー的願望とは、われわれの分析学にとってはいまだに分離できないものなのである[Die Person verhält sich so, als wäre sie in sich selbst verliebt, die Ichtriebe und die libidinösen Wünsche sind für unsere Analyse noch nicht voneinander zu sondern.](フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)




いずれにせよ、男性の同性愛の根にも母への愛があるというのがフロイトであり、ラカンの発言もこれを基盤としている。女性における男性への愛も上に引用した『続精神分析入門』第33講「女性性」(1933年)に示されているように事実上ナルシシズムであり、つまりは女を愛することである。要するにフロイトラカン両者の思考において、すべての愛の原点には、女なるものを愛することがある。さらにその底には喪われた母胎への愛という原ナルシシズムがある。