2024年7月22日月曜日

柄谷とラカンの三界

 

ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である。このボロメオの環は、一面的なアプローチではとらえられない。ヘーゲルが右のような弁証法的記述をとったのは、そのためである。たとえば、ヘーゲルの考えから、国家主義者も、社会民主主義者も、ナショナリスト(民族主義者)も、それぞれ自らの論拠を引き出すことができる。しかも、ヘーゲルにもとづいて、それらのどれをも批判することもできる。それは、ヘーゲルが資本=ネーション=国家というボロメオの環を構造論的に把握した――彼の言い方でいえば、概念的に把握した(begreifen)――からである。ゆえに、ヘーゲルの哲学は、容易に否定することのできない力をもつのだ。


しかし、ヘーゲルにあっては、こうした環が根本的にネーションというかたちをとった想像力によって形成されていることが忘れられている。すなわち、ネーションが想像物でしかないということが忘れられている。だからまた、こうした環が揚棄される可能性があることがまったく見えなくなってしまうのである。(柄谷行人『世界史の構造』第9章、2010年)






柄谷行人の「資本=ネーション=国家」のボロメオの環を『トランスクリティーク』に戻っていくらか詳しく見れば次のように置ける。




以下、それぞれの項を確認する。


◾️形式(言語)、仮象、物自体

フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。(柄谷行人『トランスクリティーク』P59、2001年)

カントが主観の能動性として考えていたのは、実際には言語の問題である。彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシーラーによって「象徴形式」といいかえられている。(『トランスクリティーク』P101)



◾️国家:収奪と再分配

国家は、収奪と再分配の原理にもとづく。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)


◾️ネーション:想像の共同体、自己対話

ネーションの基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都市的な啓蒙主義とともに解体されていった農業共同体がある。それまで、自律的で自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬制)を、ネーション(民族)の中に想像的に回復したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)

誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


◾️資本:欲動(資本の欲動)

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。〔・・・〕

資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)



さてラカンのボロメオの環はどうだろうか。



◾️象徴界:欲望の言語、大他者

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

欲望は言語に結びついている。欲望は象徴界の効果である[le désir: il tient au langage. C'est … un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)

欲望は大他者に由来する[le désir vient de l'Autre](ラカン, E853, 1964年)

大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)


◾️想像界:ナルシシズムの自我、影と反映

想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)

自我は想像界の効果である[Le moi, c'est un effet imaginaire](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)


愛はイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イマージュであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イマージュである[l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée](ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)

ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…  l'amour c'est le narcissisme  ](Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。ナルシシズム的愛は想像界の軸にある[l'amour narcissique concerne l'amour du même, …l'amour narcissique se place sur l'axe imaginaire](J.-A. Miller, Les labyrinthes de l'amour, 1992)


想像界は影と反映の形象に過ぎない[imaginaires, …n'y font figure que d'ombres et de reflets. ](Lacan, E 11, 1956)


◾️現実界:欲動の身体、モノ

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した[le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)


以上から次のようになる。



厳密に同じと言うつもりはないが、ほぼ同じ内実をもっている。









主体の起源は自閉症

 

問題となっているのはフロイトが『ナルシシズム入門』で語っていることである。つまり我々は、自己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛しているのだということである。〔・・・〕つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。


Il s'agissait de ce dont nous parle FREUD, à ce niveau de l'Introduction au narcissisme, à savoir : que nous aimons l'autre de la même substance humide qui est celle dont nous sommes le réservoir, qui s'appelle  la libido, (…)  c'est-à-dire environnant, noyant, mouillant l'objet d'en face.

愛の形而上学の倫理、愛の条件[Liebesbedingung]の本源的要素が問題なのであるが、この愛はーー愛の彼岸に残滓としてあるものを知ることでもあるがーー、われわれがここで愛と呼ぶものはある意味では、私は自分の身体しか愛さないということである。たとえ私はこの愛を他者の身体に転移させるときにでもやはりそうなのである。


Moralité de cette métaphysique de l'amour… puisque c'est de cela qu'il s'agit, l'élément fondamental de la Liebesbedingung, de la condition de l'amour …moralité, en un certain sens je n'aime… ce qui s'appelle aimer, ce que nous appelons ici aimer, histoire de savoir aussi ce qu'il y a comme reste au-delà de l'amour, donc ce qui s'appelle aimer d'une certaine façon …je n'aime que mon corps, même quand cet amour,  je le transfère sur le corps de l'autre. (Lacan, S9, 21 Février 1962)




器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー備給を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと[Der Kranke zieht seine Libidobesetzungen auf sein Ich zurück, um sie nach der Genesung wieder auszusenden.]

W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズム[Der bekannte Egoismus der Kranken]はこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


ここでフロイトが語っているのは自己愛(自我のナルシシズム)ではなく自体性愛ーー自己身体愛ーーである。先のラカンが《私は自分の身体しか愛さない[je n'aime que mon corps]》と言っているのはこの意味である。


自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. …Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. ](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)




この自体性愛的欲動=享楽が、分裂病概念かつ自閉症概念創出者ブロイラーの自閉症の定義である。

外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。

この「内なる生」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症と呼ぶ。

Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.

註)自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911)


したがってーー、

享楽の核は自閉症的である[Le noyau de la jouissance est autiste  ](Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)


あるいはーー、

自閉症は主体の故郷の地位にある[l'autisme était le statut natif du sujet](J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)

ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると[Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet](J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)


原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぶ[nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »](ラカン, S10, 13 Mars 1963)



ラカンは同じセミネールⅩで、自己身体[corps proper]、一次ナルシシズム[narcissisme primaire]、自体性愛 [auto-érotisme]、自閉症的享楽[jouissance autiste]を等置している。



これが冒頭に引用したセミネールⅨの《私は自分の身体しか愛さない[je n'aime que mon corps]》の内実のひとつであり、つまり一次ナルシシズムとしての自体性愛(自己身体愛)は自閉症的享楽だということである(自己愛[Selbstliebe](=自我のナルシシズム[Narzißmus des Ichs])は二次ナルシシズム[sekundärer Narzissmus]なので注意。これは自己身体ではなく自我のイメージを愛することであり、欲動とは直接的には関係がない)。



なおフロイトラカンにおいて自体性愛における自己身体の意味はさらなる展開があるのだがここでは割愛➡︎ 「ナルシシズムあるいは自体性愛文献Ω


ここではなぜラカンの享楽が自閉症的なのか、あるいはなぜ主体の起源は自閉症なのかのみを示した。









愛なる穴埋め図

 

愛は隠喩である。われわれが隠喩を「代理」として識別する限りで[l’amour est une métaphore, si tant est que nous avons appris à l’articuler comme une substitution]  (Lacan, S8, 30  Novembre 1960)

愛が何ものかの隠喩であるなら、何の隠喩であるのかを知ることが問題だ[L'amour, s'il est bien là la métaphore de quelque chose,  il s'agit de savoir à quoi il se réfère.  ](Lacan, S21, 18 Décembre 1973)

愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.(]Lacan, S21, 18 Décembre 1973)


➡︎享楽=穴=トラウマ=喪失

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[ la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan,  Radiophonie, AE434, 1970)

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)



◾️愛なる穴埋め図




享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

享楽の対象としてのモノは快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

➡︎《母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts]》 (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)

➡︎《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)