2024年7月22日月曜日

主体の起源は自閉症

 

問題となっているのはフロイトが『ナルシシズム入門』で語っていることである。つまり我々は、自己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛しているのだということである。〔・・・〕つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。


Il s'agissait de ce dont nous parle FREUD, à ce niveau de l'Introduction au narcissisme, à savoir : que nous aimons l'autre de la même substance humide qui est celle dont nous sommes le réservoir, qui s'appelle  la libido, (…)  c'est-à-dire environnant, noyant, mouillant l'objet d'en face.

愛の形而上学の倫理、愛の条件[Liebesbedingung]の本源的要素が問題なのであるが、この愛はーー愛の彼岸に残滓としてあるものを知ることでもあるがーー、われわれがここで愛と呼ぶものはある意味では、私は自分の身体しか愛さないということである。たとえ私はこの愛を他者の身体に転移させるときにでもやはりそうなのである。


Moralité de cette métaphysique de l'amour… puisque c'est de cela qu'il s'agit, l'élément fondamental de la Liebesbedingung, de la condition de l'amour …moralité, en un certain sens je n'aime… ce qui s'appelle aimer, ce que nous appelons ici aimer, histoire de savoir aussi ce qu'il y a comme reste au-delà de l'amour, donc ce qui s'appelle aimer d'une certaine façon …je n'aime que mon corps, même quand cet amour,  je le transfère sur le corps de l'autre. (Lacan, S9, 21 Février 1962)




器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー備給を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと[Der Kranke zieht seine Libidobesetzungen auf sein Ich zurück, um sie nach der Genesung wieder auszusenden.]

W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズム[Der bekannte Egoismus der Kranken]はこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


ここでフロイトが語っているのは自己愛(自我のナルシシズム)ではなく自体性愛ーー自己身体愛ーーである。先のラカンが《私は自分の身体しか愛さない[je n'aime que mon corps]》と言っているのはこの意味である。


自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. …Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. ](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)




この自体性愛的欲動=享楽が、分裂病概念かつ自閉症概念創出者ブロイラーの自閉症の定義である。

外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。

この「内なる生」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症と呼ぶ。

Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.

註)自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911)


したがってーー、

享楽の核は自閉症的である[Le noyau de la jouissance est autiste  ](Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)


あるいはーー、

自閉症は主体の故郷の地位にある[l'autisme était le statut natif du sujet](J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)

ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると[Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet](J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)


原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぶ[nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »](ラカン, S10, 13 Mars 1963)



ラカンは同じセミネールⅩで、自己身体[corps proper]、一次ナルシシズム[narcissisme primaire]、自体性愛 [auto-érotisme]、自閉症的享楽[jouissance autiste]を等置している。



これが冒頭に引用したセミネールⅨの《私は自分の身体しか愛さない[je n'aime que mon corps]》の内実のひとつであり、つまり一次ナルシシズムとしての自体性愛(自己身体愛)は自閉症的享楽だということである(自己愛[Selbstliebe](=自我のナルシシズム[Narzißmus des Ichs])は二次ナルシシズム[sekundärer Narzissmus]なので注意。これは自己身体ではなく自我のイメージを愛することであり、欲動とは直接的には関係がない)。



なおフロイトラカンにおいて自体性愛における自己身体の意味はさらなる展開があるのだがここでは割愛➡︎ 「ナルシシズムあるいは自体性愛文献Ω


ここではなぜラカンの享楽が自閉症的なのか、あるいはなぜ主体の起源は自閉症なのかのみを示した。