2019年4月24日水曜日

享楽の周圍にむらがる蛾

◼️おまえたちは、かつて享楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか
おまえたちは、かつて享楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -

……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――

- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )

⋯⋯⋯⋯

【享楽定義集】

◼️享楽 Lust とはゾーエー(永遠の生)である
ゾーエーZoëはすべての個々のビオスBiosをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年)

古代ギリシア語には「生」を表現する二つの語ーー「ゾーエーZoë」と「ビオス Bios」ーがあった。

ゾーエーは永遠の生、無限の生である。ビオスは有限の生、個人の生である。ビオスは、ゾーエーという永遠の生という母体の上の個人的な生と死である。

ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 』1976年)


◼️永遠の生(ゾーエー)とは個人の死である
わたしがケレーニイから学んだことは、ゾーエーというのはビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命だということです。ケレーニイは「ゾーエーは死を知らない」といいますが、そして確かにゾーエーは、有限な生の終わりとしての「死」は知らないわけですが、しかしゾーエー的な生ということをいう場合、わたしたちはそこではまだ生きていないわけですよね。ビオス的な、自己としての個別性を備えた生は、まだ生まれていない。そして私たちが自らのビオスを終えたとき、つまり死んだときには、わたしたちは再びそのゾーエーの状態に帰っていくわけでしょう。

だからわたしは、このゾーエーという、ビオスがそこから生まれてきて、そこに向かって死んでいくような何か、あるいは場所だったら、それを「生」と呼ぼうが「死」と呼ぼうが同じことではないかと思うわけです。ビオス的な個人的生命のほうを「生」と呼びたいのであれば、ゾーエーはむしろ「死」といったほうが正解かもしれない。(木村敏 『臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために』2008年)


◼️生の目標はゾーエー(永遠の生=死)である
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章)


◼️生の目標は、個人の死の彼岸にある永遠の生である
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1889年)


◼️生の目標は享楽である
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)



◼️リビドーは受生とともに喪われる不死の生(永遠の生)である
リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelleである。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)


◼️享楽は永遠の生としてのリビドーである
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


◼️永遠の生は究極のエロスである
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


◼️リビドーとはニーチェのLustである
学問的に、リビドーLibido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求 Bedürfnisses の感覚と同時に満足 Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)
おまえたちは、かつて享楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -

……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――

- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )


◼️死の欲動とは永遠の生の廻りのさまよいである
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534、1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb(欲動)という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


◼️究極のエロス・究極の享楽は死(永遠の生)である

昔は誰でも知っていた、エロスがなんであるか、享楽がなんであるかを。

昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(リルケ『マルテの手記』)
自分が、如何に生く可きかを學んでゐたと思つてゐる間に、自分は、如何に死す可きかを學んでゐたのである。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳)
死とは、私たちに背を向けた生の相であり、私たちが決して見ることのない生の相である。Der Tod ist die uns abgekehrte, von uns unbeschienene Seite des Lebens(リルケ書簡 Rainer Maria Rilke, Brief an Witold von Hulewicz vom 13. November 1925ーー「ドゥイノの悲歌」について)
死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(グザビエ・ビシャ Xavier Bichat ーー、フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳より孫引き)


◼️人の生は享楽の周圍にむらがる蛾である
或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕 それは僕の責任ではない。(芥川龍之介「闇中問答」昭和二年、遺稿)
僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。…

僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)
我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)
かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。 

されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。(萩原朔太郎「青猫」序、1923(大正12)年)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



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【補足】:生の欲動は死に向かう運動であり、死の欲動は死を避ける運動である。

◼️エロス欲動とタナトス欲動は、引力と斥力である
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


◼️究極のエロス・究極の融合(引力に吸い込まれること)は死である
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


◼️引力に誘引されつつも斥力が働く運動を欲動混淆と呼ぶ
われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび脱混淆Entmischung することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

人はみな究極のエロス・享楽(永遠の生=死)を憧憬しつつ、その死を避けようとする斥力がある。ラカンの剰余享楽の最も本来的意味は、このエロス欲動とタナトス欲動の欲動混淆である。

剰余享楽 le plus de jouir は(……)享楽の欠片である。le plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

この「剰余享楽」と訳される「 le plus-de-jouir」は、享楽喪失と喪失の穴埋めの二つの意味がある。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)


◼享楽は生きる存在から常に既に喪われている

ラカンが「享楽は去勢だ」というのは、何よりもまず、享楽は生きる存在から常に既に喪われているからである。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

すなわち、《生きる存在から控除されたsoustrait à l'être vivant》リビドー とは、去勢された享楽を意味する。

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
対象aは、「喪失 perte・享楽控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)

生きる存在から控除されたリビドー 、この「永遠の生」が享楽である。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelle(永遠の生)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

こうして人の生は、享楽の周圍にむらがる蛾であることが確認された。

享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

2019年4月16日火曜日

欠如の名と穴の名(Nom-du-Manque et Nom-du-Trou)




ラカンのS(Ⱥ)に相当する箇所にフロイトにおいては「受動性」が置かれているが、これはポール・バーハウによれば次の文に依拠する。

(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカン自身あるいはラカン派においては 、S(Ⱥ)は例えば次のように表現される。

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout [Ⱥ]の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓(穴埋め) [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)


このS (Ⱥ)とはフロイトのリビドー固着・欲動の固着(ラカンのサントーム)である(参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群)。

Σ(サントーム) としてS(Ⱥ) grand S de grand A barré comme sigma 。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 2001」 LE LIEU ET LE LIEN ,2001)
サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion ( サントーム)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)


そしてS (Ⱥ)、リビドーの固着は、後期ラカンの思考においては骨象aでもある。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


このS(Ⱥ)は前期ラカンにおいては「母なるシニフィアン」に相当する。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

このセミネール5には、比較的よく知られている「母の欲望」と「父の名」の図式がある。






一般的には母の欲望をDM、父の名をNPと略して、上の図の左側は次のように表示される。





これが冒頭の図でポール・バーハウが簡略して図示している意味である。彼はラカンの後年のマテームȺ、とS(Ⱥ)を利用しているが。





1959年以降のラカンの思考においてはΦはS1と等置されるようになる(特にセミネール17にて)。したがってΦマテームΦを使ってこう示してもよい。





この図を説明的に表示すれば、次の通り。





ようするにこうである。





穴の名とは母なるシニフィアンである。欠如の名とはファルス、もしくは父の機能である。


〈母〉は、根底としては、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

他方、《ファルスPhallus とは大他者のなかの欠如のシニフィアンsignifiant du manque dans l’Autre)》である。この文脈のなかでS(Ⱥ)を「穴の名」、ファルスΦを「欠如の名」とした。

ちなみにジャック=アラン・ミレールは、次の図を示している。




「欠如の名/穴の名」とは、「快(有限)/享楽(無限)」と等価である。

欠如と穴の相違は次の通り。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯)

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)

別の形の注釈であるなら次のものがよい。

享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)

もっともーーミレールはフロイトが母に気付いていなかったと言っているがーー、最晩年のフロイトにはその形象的示唆がある。


「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)

晩年のラカンが次のように言うのは、いま記した文脈のなかにある。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

⋯⋯⋯⋯

ラカンはセミネール9とセミネール10にて原初の享楽に相当するものをAという記号で示している。これは出生とともに喪われる(参照:人はみな享楽喪失の主体である)。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

最晩年のラカンが《享楽は去勢である la jouissance est la castration》(ラカン、Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)というのはまずこの意味である(出産外傷)。つまり、生きている存在には享楽は不可能だということである。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール,Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES, 1988)
ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接な関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort (Marga Auré, A risque de mort, 2009)
・死は快の最終的形態である。death is the final form of pleasure.
・死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance
(ポール・バーハウ「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」2006)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

これらのラカン注釈者たちの正当性は、さらに晩年のラカンの次の文が裏付けている。

私は(フロイトの)欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)

ここで欲動を「享楽の漂流」としているが、事実上、それは「死の漂流」のことである。それは3年後の次の文が示している。

人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)


⋯⋯⋯⋯

最後に前半の記述も含め、ラカンのマテームを使って最も基本的な発達段階図を図示すれば次の通り。





以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

2019年4月12日金曜日

原抑圧と去勢

ラカンは『テレビジョン』(1973年 )で、原抑圧と去勢という語をほとんど同じものとして扱っている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていない。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではない。Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression : que (pour faire image), la castration, ce soit dû à ce que Papa, à son moutard qui se tripote la quéquette, brandisse : « On te la coupera, sûr, si tu remets ça. »

…結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier いう考えに傾いていった。総体的に言うと、これや第二の局所論の大きな変化である。(ラカン、テレビジョン、1973年)

フロイトは分析治療対象としては否定的な文脈でだが、出産外傷を原抑圧という語をほぼ等置しながら語っている。

オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。

…だがおそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)

出産外傷は、去勢の原像、母の去勢、母からの分離としても語られている。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

これらから、原抑圧とは去勢の意味をもつと考えてよい。

事実、後の発達段階(成人言語の世界への入場)で起こる現象は「象徴的去勢」と呼ばれ、これが機能しない精神病者を「父の名の排除」としての原抑圧がなされていると前期ラカンはしたのだから。

もっともこの「父の名の排除」は現在、ジャック=アラン・ミレールやコレット・ソレールによって問い直しがなされている。

精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)
わたしたちは見ることができます。他の分析家たちは、欲望を生み出すために、去勢不安にかかわる父が必要不可欠だという前提から始めて、精神病は欲望を締め出す la psychose excluait le désir、不安さえvoire l'angoisse 締め出すと結論しているのを。

しかし精神病の最も典型的人物像を観察したら、彼らが欲望を欠如させているなどという結論をどうやって支持しうるというのでしょう? むしろ欲望概念の見直しが必要なのです。(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », 25/10/2013)


父の名の排除とは、実際はS2の排除である。

神経症においては、S1 はS1-S2のペアによる無意識にて秩序づけられている。ジャック=アラン・ミレール は強調している。(精神病における)父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Pèreは、このS2の排除 la forclusion de ce S2 と翻訳されうる、と。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne Paloma Blanco Díaz ,2018)
「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」を「S2の排除 la forclusion du Nom-du-Père」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…
Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)

したがってミレールは原症状(サントーム)をS2なきS1というのである。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(Jacques-Alain Miller,  L'être et l'un、 2011)


2019年4月8日月曜日

ドゥルーズの死の本能とラカンの享楽

ドゥルーズ には《時のなかに永遠回帰を導く死の本能》という表現がある。

エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶 mémoire involontaireのエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

ここでのドゥルーズ は、「死の本能」と「永遠回帰」「無意志的記憶」の回帰をほぼ等置している(その確証となる文は後に引用)。


ドゥルーズの「死の本能」ーー「死の欲動」ではなくーーの捉え方は次の通り(参照)。



マゾッホ論、プルースト論では三区分だが、『差異と反復』では二区分。とすれば、上のように考えざるをえない。

「マゾッホ論」と「差異と反復」に絞って、用語的により厳密に示せば、次のようになる。



ドゥルーズにとっての「死の欲動 pulsions de mort」はエロス欲動にすぎない。すくなくともエロス欲動と混淆された欲動混淆として、死の欲動を取り扱っている。そして欲動混淆の底にある超越論的な沈黙の力を「死の本能 Instinct de mort 」としている。

これはフロイトをとても深く読んだドゥルーズの、限りなくすぐれた洞察といえるんじゃないか。ただし「1960年代のドゥルーズの」と強調しておかなくちゃいけない。1970年代にはラカン派内では悪評高き退行概念「欲望機械」があるんだから。

ドゥルーズが示している「混淆」、つまりフロイトの欲動混淆の記述のひとつはこうだ。

われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび脱混淆Entmischung することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


ドゥルーズの捉え方をラカン用語と比較すれば こうなる。



ラカンの剰余享楽自体、欲動混淆だとみなせる(「なぜエロス欲動は死の欲動なのか」)。

剰余享楽ではなく享楽自体については、いくつかのエキス的文を引用しておこう。

生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。(ミレール Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
享楽自体は生きている存在には不可能である。なぜなら享楽は自身の死を意味するから。残された唯一の可能性は、回り道をとることである。目的地への到着を可能なかぎり長く延期するために、反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

ーーラカン派でさえこのあたりを端折っているやつがほとんどだから、ま、巷間では知られていないんだろうけど、これはわたくしに言わせれば「常識」。

この観点をとれば享楽とは、ドゥルーズの云う死の本能=超越論的原理として捉えられる(以下、四つの言説基盤図の蚊居肢ヴァリエーション)。

享楽と剰余享楽の定義集



それで、っとーー。ここからが難解版になるから、もうやめとくよ、別の場に一応、そのさわりを置いといたが→「サントームの永遠回帰」。

簡潔に結論をいえば、永遠回帰と死の本能と無意志的記憶の回帰は、構造的には同じ現象ってことだ。すべてリビドー固着による強制された運動の機械だ。

強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)

リビドー固着による「強制された運動の機械」が死の本能であること。これもドゥルーズはある程度把握していた、こう書いてるから。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

ーーリビドー固着とは原抑圧と等価であるのは、繰り返しているのでここではもう触れない(参照)。

ま、でもこういったこと書いてもだぶん誰もわからないだろうからほとんど徒労だがね、せいぜいこうやってウエブ上に「象徴的登録」をしておいて、今後、マヌケラカン派マヌケドゥルーズ派がなんたら言ってたら、バカにするぐらいだな。バカにする楽しみってのもそろそろ失せて来たけど。

ラカン派がマヌケなのはある意味仕方がないけど(日本における精神分析的知の極度の劣化現象ーーとくにフロイト・ラカン派のーーはもはや誰もが認めなくてはならない。そもそも21世紀に入ってからの核心的な注釈書さえ翻訳されていず、とんでもむかしのブルース・フィンクの凡庸な注釈書がいまだ珍重されている状況)、でも、なんで日本ドゥルーズ研究者ってマヌケしかいないんだろ? (いやあシツレイ!) 

その原因のひとつはプルースト論を端折ったせいじゃないかな。フロイトやラカンをまともに読めていないということもあるけれど、ま、それはしようがないさ。もともとわらかないのを白状しているヒガキのたぐいよりもずっと害があるのは、わかってるふりしているチバのたぐいだな。

4年ほどまえ、無知まるだしのヒガキの鳥語をちょっとだけからかってやったらヒステリー起こしてこんなこと囀ってたけどさ。

檜垣はフロイトの夢判断が読めていない→そのとおりでございまして私はフロイトやラカンに関心をもったことはあり良くよんだことはありますが理解できず断念しました。理解できていない、そのとおりで全く自覚てきでず ちなみにラカンは嫌いですが偉いとおもっています

いま思えば「スナオで賞賛に値する」態度だね、彼はどっちかというと産婆系の「好感のもてる」ドゥルーズ研究の長だろうしな。とはいえ「まぁ、世界とはこの程度のものです」(蓮實重彦)ってのがオレの最近の口癖だな。

プルースト論とドゥルーズが引用している前後の『失われた時をもとめて』を読んだらーー全部読めとはいわないよ、どうせムリだろうからーー、もうすこしまともなドゥルーズ派がでてきそうなもんだがな。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』)

2019年4月6日土曜日

サントームの永遠回帰

ドゥルーズ にとって永遠回帰は純粋差異から来る。

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する。…

永遠回帰 L'éternel retour には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。

…永遠回帰はまさに、起源的・純粋な・総合的・即自的差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが「力への意志」と呼んでいたものである)。差異が即自(それ自身における差異 l'en-soi )であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自(それ自身に向かう差異 le pour-soi)である。Si la différence est l'en-soi, la répétition dans l'éternel retour est le pour-soi de la différence.(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

《差異が即自(それ自身における差異 l'en-soi )であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自(それ自身に向かう差異 le pour-soi)である》とは、ジャック=アラン・ミレール によるサントームの定義の精緻化である。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)


ドゥルーズ は『差異と反復』で、《永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する》と記しているのを上に見たが、ラカンは純粋差異についてこう語っている。

この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S9, 06 Décembre 1961)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(ラカン、S19, 17 Mai 1972)

ここでラカンが「一」と呼ぶものは、《一のようなものがある Y a de l’Un》であり、サントームである。

サントームsinthome……それは《一のようなものがある Y a de l’Un》と同一である。(jacques-alain miller、L'être et l'un、2011)
ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。

ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。

これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの大他者とは、身体である。すなわちシニフィアンの彼岸には、身体とその享楽がある il y a le corps et sa jouissance。 (Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse, 2013 )


ドゥルーズ は純粋差異に相当するものを、プルースト論で「内在化された差異 différence intériorisée」、「内的差異 différence interne」とも呼んでいる。

究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)
無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである L'essentiel dans la mémoire involontaire n'est pas la ressemblance, ni même l'identité, qui ne sont que des conditions 。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異である L'essentiel, c'est la différence intériorisée, devenue immanente。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)

この「内在化された差異」あるいは「内的差異」の、ラカンによる最も簡潔な図式化は次のものである。






左は空集合∅、右は対象aが記されている。

ここでは空集合についての注釈は記述が長くなるので、次の二文のみを引用しておくだけにする。

女 La femme とは…空集合un ensemble vide のことである。(ラカン、S22、21 Janvier 1975)
フレーゲの思考においては、「一」という概念は、ゼロ対象と数字の「一」を包含している。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege), 2014,)


核心は「a」である。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a(喪われた対象)」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、2013)

要するに、「一」というシニフィアンには常に喪われたものがある。常にシニフィアンと身体がある。

上にsinthome=Y'a d'l'Un」の注釈において示したHélène Bonnaudは、《シニフィアンの彼岸には、身体とその享楽がある》としていたが、 これは簡潔に言えば、シニフィアンの彼岸には、身体があるでよい。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

これは、事物表象(イメージ)であれ語表象(言語)であれ、どんなシニフィアンにも常に身体的残滓がある、ということである。

フロイトの「事物表象 Sachvorstellung」と「語表象 Wortvorstellung」は、ラカンの「イマーゴ imago」と「シニフィアン signifiant」である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe、2009年)


この文脈におけるラカンの対象a(喪われた対象)の定義を二つ掲げておこう。

対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)


骨象aとは、穴としての骨象(トラウマとしての対象)である。そして「文字」とは次の意味である。

・後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

ようするに「骨象」とは、身体に突き刺さった骨、身体の上への刻印、フロイトのリビドー固着 Libidofixierungenであり、《異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=フロイトの異物)(ラカン、S23、11 Mai 1976)のことである。

この骨のせいで身体には常に穴があいている。

身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)

そして「身体の穴」における穴とは別名、去勢と呼ばれる。

対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

⋯⋯⋯⋯

ここまでの記述に従って、永遠回帰も無意識的記憶の回帰も、身体の穴のせいである。この穴のせいで、人は強制された運動、もしくは「強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)」としての反復強迫がある。

もちろんトラウマ的出来事は、身体の興奮度の多寡による反復強迫を促す多寡はある。初期フロイトはこれをQ要因(quantitativen Faktor)と呼んだ。だが構造的にはすべてのシニフィアンは反復強迫を促すという考え方をラカンはもった。《シニフィアンは享楽の原因である。Le signifiant c'est la cause de la jouissance》 S20, 1972)


以下、ニーチェ、ラカン、フロイトのここでの文脈におけるエキス文を並べておこう。

享楽(悦楽 Lust)が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.

…すべての享楽は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」1885年)

ラカンにとって永遠回帰とは享楽回帰である。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

フロイトにとって永遠回帰は、反復強迫(死の欲動)である。

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫 Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)


2019年4月5日金曜日

欲望の定義(エキス)

以下、ラカン派における欲望の定義のエキスを掲げる。

■四種類の欲望
①私は私の大他者 my Other が欲望するものを欲望する。
②私は私の大他者 my Other によって欲望されたい。
③私の欲望は、大きな大他者 the big Other ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
④私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)

①②③は、いままでラカン派文脈、あるいは標準的な共同体心理学レベルでも、さんざん語られてきた「欲望」である。

①は、他人が欲しがっている或いは他人が所有しているから、私も欲しくなる。「隣の芝は青い」、「一盗二婢三妾四妓五妻」⋯⋯。

(ある種の男にとっては)誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる。(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)


②は、典型的にはヘーゲル的承認欲望のこと。《承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir》(ラカン、E151)。

柄谷行人) 欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)


③は、欲望は言語作用の効果だということ。その意味で①②は、③に包含される。

欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)

ーーラカンは《欲望は法に従属している》としているが、厳密に言えば、「欲望は言語の法に従属している」である(参照)。


だが④の《私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている》とは何だろうか?

前期ラカンはこう言っている。

他のモノはフロイトのモノ das Ding である das Dingautre chose est das Ding, (ラカン、S7、16 Décembre 1959)
(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

そしてこのモノ=母は、喪われた対象だと、1970年には言うことになる。

(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)

ーーより詳しくは「モノと対象a」にてラカン発言を中心にした資料がある。

現在の臨床ラカン派においては、この④の欲望が核心である。

・「欲望は大他者の欲望」は、欲求 besoin との相違において、欲望 désir は、言語作用の効果だということを示す。…この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件である。…しかし、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら 「欲望は大他者の欲望ではない le désir n'est pas désir de l'Autre」。

・欲望の原因は、フロイトが、原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが、欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]と呼んだものである。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)


ーー女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールがこのインタビューで語っている《le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.》の前半を、いままで「欲望は剰余享楽の換喩」と訳してきたが、実際は、《享楽喪失の換喩[métonymie du plus-de-jouir]》という意味もある。

したがって次のようにも訳せる。

欲望は、欠如の換喩[métonymie du manque]と同じ程度に、享楽喪失の換喩[métonymie du plus-de-jouir]である(=「原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」の換喩である)。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »、2013)

なぜならコレット・ソレールは別の場で次のように 言っているから。

対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)


「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」については、くれぐれも注意しなければならない。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

この両義性については、多くのラカン注釈者は取り逃している。わたくしの気づいた範囲でも、斎藤環佐々木中は、完全な誤解釈をしている。

例えばーーすでに10年以上前のことゆえやむえないとはいえーー、斎藤環はこう言っている。

ラカンによれば「享楽」には3種類ある。「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」だ。(斉藤環『生き延びるためのラカン』2006年)

しかし現在のわたくしの捉える範囲では、ラカンによる代表的な三つの享楽は、すべて剰余享楽である。

Le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性


松本卓也も「享楽の社会論書評」やネット上にある序文を読む限りだが、ひどく曖昧なままのようにみえる。何も不可能な享楽から剰余享楽への移行が晩年のラカンにあったわけではない。もともと生きている主体には、享楽は常に既に斜線を引かれている。剰余享楽しかない。これはラカンの理論展開において1960年前後からそうである。1959年4月8日、セミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言ったときからそうである。その後、セミネール7などでいくらかの彷徨いはあったといえ、あれは過渡期の現象である。

次の晩年の宣言は、1959年に遡って読むことができる。

⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


さて話を戻せば、なにはともあれ、《欲望は換喩によって定義される Le désir est défini par la métonymie, 》(ミレール 、L'Autre sans Autre、2013)ことは間違いない。

以下、もういくらかの定義文を列挙しておこう。


■欲望は防衛
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)

簡潔に言い直せばこうである。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


■欲望のデフレ
ラカンにおいては「欲望のデフレune déflation du désir」がある…

承認reconnaissanceから原因causeへと移行したとき、ラカンはまた精神分析の適用の要点を、欲望から享楽へと移行した。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller )

ーーここでの《享楽とは、より厳密に言えば、剰余享楽である。》(ミレール Jacques-Alain Miller, A New Kind of Love、2011)

※享楽については、「享楽と剰余享楽の定義文(エキス)」を見よ。



■欲望の主体=幻想の主体
欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)

最晩年のラカンが「人はみな妄想する」といったことに依拠すれば、欲望の主体は「妄想の主体」である。

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ジャック=アラン・ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

もっとも妄想という用語には注意しなければならない。

病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)

究極的には妄想とは、人がみな原初にもつ「構造的トラウマ」に対する防衛である。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

したがって人間は一般化妄想の主体と、現在ラカン派では呼ばれる。この「一般化妄想l délire généralisé 」を「一般化倒錯 perversion généralisée」と名付ける流派もある(参照)。

この観点を額面通りとれば、妄想も倒錯も何も悪いことではない。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的であるtoute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)



■欲望=倒錯
去勢 castration が意味するのは、欲望の法la Loi du désir の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない la jouissance soit refusée ということである。(ラカン、E827、1960年)
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。

そしてこの理由で、後期ラカンは「父の隠喩 la métaphore paternelle」について皮肉を言い得た。彼は父の隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動きmouvement vers le père》の版という意味である。(JACQUES-ALAIN MILLER L'Autre sans Autre 、2013)
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)


⋯⋯⋯⋯

■欲望機械という倒錯

ドゥルーズ&ガタリに「欲望機械」概念があるが、ラカン派にとって自由な流体としての「欲望する機械」とは、《厳密にフェティシスト的錯誤 strictly fetishistic illusion》(参照)である。

ある純粋な流体が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体の上を滑走しているun pur fluide à l'état libre et sans coupure, en train de glisser sur un corps plein. 。この欲望機械は、私たちに有機体を与える。Les machines désirantes nous font un organisme(『アンチ・オイディプス』1972年)


フロイト・ラカン語彙では基本的に、欲望は言語内のもの、欲動は身体的なものである。

欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

もしドゥルーズ&ガタリの欲望機械を「欲動機械」と言い換えても自由な流体など決してない。

なぜなら人は最低限、出産外傷による原去勢と、言語による去勢(象徴的去勢)の二つの去勢あるから。この去勢に強制されての「欲動の換喩としての欲望」があり、去勢に強制されるのは欲動自体も同様(参照)。





もっともドゥルーズ&ガタリは、欲望機械という新しい倒錯概念を発明したのだ、と肯定的に捉えることもできるかもしれない。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
言わねばならない。その問題の人物…私が言祝いだあの人物は、臨床家ではなかった。ただ彼はシンプルにサドとマゾッホ SACHER-MASOCHを読んだのである。(……)

要するに、マゾヒズム masochisme は発明されたのだ。それは皆が到達できることではない。それは享楽と死とのあいだの entre la jouissance et la mort…関係性を確立するやり方である。(……)

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を穴埋する combler le trou dans le Réel ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )


そもそも厳密にいえば言語活動自体、倒錯である。

言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構fictionnelである、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか? Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980年)


 ■象徴的去勢

上の図に示した二種類の去勢についてここでは、出産外傷という原去勢は割愛し、言語による去勢をめぐるラカン文とその注釈のみを掲げる(原去勢については「人はみな享楽喪失の主体である」を参照)。

なによりも先ず、シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
フロイト的経験の光の下では、人間は言語によって囚われ拷問をこうむる主体である。à la lumière de l'expérience freudienne l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage (ラカン、S3、16 mai 1956)
・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの効果によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)
すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

享楽と剰余享楽の定義集(エキス)

◼️享楽=去勢
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


◼️去勢=享楽控除
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)


◼️去勢の原像=母からの分離(出産外傷)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


◼️享楽=リビドー =エロスエネルギー
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)


◼️①リビドー=不死の生
    ②リビドー控除(エロス控除) → 喪われた対象

このラメラlamelle、この器官organe、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが、それはリビドー libidoである。  

これはリビドー、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドーである。 つまり、不死の生 vie immortelle、禁圧できない生 vie irrépressible、いかなる器官 organe も必要としない生、単純化されており破壊されえない生 vie simplifiée et indestructible、そういう生の本能である。それは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物 l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)ものである。

対象 a[ l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態formes は、これの代理表象représentants、これと等価のもの équivalents である。諸対象 a [les objets a] はこれの代理表象、これの形象 figures に過ぎない。

乳房 Le seinは、両義的なもの équivoque として、哺乳類の有機組織に特徴的な要素として、例えば胎盤 le placentaという個体が誕生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser ことのできるものを、 代理表象représenter しているのである 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964)



◼️大他者の享楽=エロス=死
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


◼️大他者の享楽はない
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


◼️享楽のさまよい=死のさまよい
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534、1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)


◼️生の欲動(融合欲動)と死の欲動(分離欲動)
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
生の欲動(融合欲動)は死を目指し、死の欲動(分離欲動)は生を目指す。[the life drive aims towards death and the death drive towards life.] (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe , Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004)
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)



この図は四つの言説基盤図のヴァリエーション。それ以外に、次のジャック=アラン・ミレールの次の図を参照している。





◼️享楽喪失を取り戻そうとする循環運動
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


◼️母胎回帰運動
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


◼️究極の享楽=主体の死
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)


◼️死への迂回路と死への道
・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


◼️対象a=去勢=享楽控除
私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)


◼️le plus-de-jouirの両義性(享楽喪失と喪失の穴埋め)
仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Gisèle Chaboudez, Le plus-de-jouir, 2013)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou [Ⱥ]と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)\\\









2019年4月2日火曜日

去勢文献

以下、資料の列挙(去勢コンプレクス、去勢不安のたぐいは省く)


■フロイトにおける去勢
去勢は…全身体から一部分の分離である[ Kastration …die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen](フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚 Empfindungen の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。

乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分の興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであ るーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)


■出産外傷
母を見失うという外傷的状況 traumatische Situation des Vermissens der Mutterは、出産という外傷的状況 traumatischen Situation der Geburt とは、決定的な点で食い違っている。出産の場合は見失うべき対象はない。不安だけが、この場合にあらわれる唯一の反応である。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)
オットー・ランクは、『出産外傷 Das Trauma der Geburt』で、子供のもっとも最初期の恐怖症frühesten Phobien と出産の出来事Geburtsereignissesとの関係を証明しようと、精力的な試みをしているが、私にはこれが成功しているようには思えない。これについて二種の非難が起こる。一つは、彼がある前提に立っていることである。子供は出産にさいして、特定の感覚的印象、ことに視覚的印象をうけていて、この印象を新たにするとき出産外傷の記憶 Erinnerung an das Geburtstrauma、ひいては不安反応Angstreaktionをひき起こしうるという前提である。

この仮定は証明できないあやしいものである。子供が出産過程Geburtsvorgangについて、触覚や一般感覚taktile und Allgemeinsensationen以上のものをもっているとは考えられない。

…第二にランクは…必要に応じて子宮内にいた幸福な時の記憶 Erinnerung an die glückliche intrauterine Existenzや、その外傷になった障害traumatische Störung の記憶を使いわけているが、それは解釈にあたって勝手気ままに振舞うことだという非難である。

子供の不安のどの例でもランクの原則をそのまま適用することは難しい。子供が暗闇におかれたり、ひとりぼっちになったりした場合、これを子宮内の状況の再現として、よろこんでうけとるだろうと期待しなければならぬことになる。しかもこの場合にこそ、子供は不安をもっておうずるというもが事実である。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。

…だがおそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)


■去勢(自分の身体だとみなしていたものの分離)による原初の自己愛的リビドー備給 
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)



■ラカンおよびラカン派による象徴的去勢
シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
去勢 castration が意味するのは、欲望の法la Loi du désir の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない la jouissance soit refusée ということである。(ラカン、E827、1960年)
我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「一連の諸シニフィアン la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。

S1 はそこに介入する。それは「特定な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet 」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。⋯⋯⋯

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。

我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)
すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)
対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの効果によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
・シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ?

・シニフィアンは享楽を「停止!」させるものである。Le signifiant c'est ce qui fait « halte ! » à la jouissance (ラカン、S20, December 19, 1972)
フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴づけのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に包摂することは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体のに、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(もっとも)ラカンがこの欠如を象徴的去勢と命名した事実は、彼の理論の理解可能性を改善したわけではない。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)
幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧がある il y ait du refoulemen と私は理解している。(Lacan, S20 , 13 Février 1973)


■ラカンによる出産外傷・原初に喪われた対象
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る。卵の場合も人間の場合も、つまりオムレットhommelette、ラメラlamelle(≒羊膜)での場合も、これを想像することができる。

⋯⋯対象 a (喪われた対象)について挙げることのできるすべての形態 formes は、ラメラの代理表象である(ラカン、S11、20 Mai 1964)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


 ◼️verlorene Objekt 喪われた対象
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


◼️原ナルシシズム(自閉症的享楽)の底にある去勢
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号(去勢記号)は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー身体自体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)


■ラカンによる原抑圧と去勢の等置
フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていない Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではない。la castration, ce soit dû à ce que Papa, à son moutard qui se tripote la quéquette, brandisse : « On te la coupera, sûr, si tu remets ça. »

(……)結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初にある le refoulement originaire était premier という考えに傾いていったのである。(ラカン『テレヴィジョン』AE529-530, Noël 1973)

フロイト自身、上に引用した1937年の論文で、オットー・ランクの「出産外傷」概念吟味での文脈だが、《出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうもの》としてこれを《原トラウマ Urtrauma》と呼んでいる。






二種類のサントーム

大きく言って、ラカンのサントームとは「リビドー固着」と、その固着と同一化しつつ「距離を取る」という二つの意味がある。

次の文における「症状との同一化」は「サントームとの同一化」、そして「症状から距離を取る」が「原症状としてのサントームから距離を取ること」である。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)


以下、二種類のサントームの定義をラカン自身あるいはラカン派注釈から掲げる。

◼️サントームの第一の意味
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは「身体の出来事」として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI . l’outrepasse、2011)  

ーーこの「身体の出来事」とはフロイトの《幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある》(『精神分析入門』1916)の「翻訳」である。

すなわちサントームの第一の意味は、リビドー固着である。

固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。原症状(サントーム)は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状のない主体はない」である。( Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq , 2002)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
・後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)


◼️サントームの第二の意味
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎない。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008)
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

「父の名を使用する」というのが、サントームから距離を取ることであり、この手法の一つとして「非意味のシニフィアンの発明」ということが言われている。

何はともあれ私が言っていることは、シニフィアンの発明 l'invention d'un signifiantは、記憶とは異なった何ものかであることだ。子供はシニフィアンを発明しない。受け取るだけである。…なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く非意味のシニフィアンを。Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)

これが、ラカンがフロイトの遺書と呼ぶ論文にあらわれる、ラカン流の「魔女のメタサイコロジイ」である。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)

⋯⋯⋯⋯

■梯子と脚立


ほかにも、症状から距離を取るために手段として、イデオロギー的父の名である「梯子」ではなく、「脚立」概念がある。

《誰もが引き出す予備の脚立 [ les escabeaux de la réserve où chacun puise ]》 (Lacan,« Joyce le symptôme »,1975). 


梯子という用語は、前期ラカンにおいて次のように現われる。


去勢 castration が意味するのは、欲望の法la Loi du désir の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない la jouissance soit refusée ということである。(ラカン、E827、1960年)

以下、脚立概念のミレール注釈である。

脚立 escabeau は梯子 échelle ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある。
escabeau とは何か。私が言っているのは、精神分析の脚立であり、図書館で本を取るために使う脚立ではない。…

脚立は横断的概念である。それはフロイトの昇華の生き生きとした翻訳であるが、ナルシシズムと相交わっている L'escabeau, c'est un concept transversal. Cela traduit d'une façon imagée la sublimation freudienne, mais à son croisement avec le narcissisme. …
私は自問した、サントームと脚立とにあいだに線を引くことを試みようかと je me disais que je pourrais essayer un parallèle entre le sinthome et l'escabeau。脚立を促進 fomente するのものは何か。それはパロール享楽 jouissance de la parole の見地からの言存在 parlêtre である。パロール享楽は「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beauをもたらす。

他方、サントーム sinthome は、言存在のサントームとして、言存在の身体に固着 tient au corps du parlêtre している。症状(サントーム)は、パロールがくり抜いた徴 marque que creuse la parole から起こる。…それは身体のなかの出来事 événement dans le corpsである。

脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントームの固有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。…(JACQUES-ALAIN MILLER, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014 )

ミレールはここで「非意味のサントーム」と「有意味の脚立」を区別しようとしているが、原症状から逃れるための別の症状という意味では、どちらも脚立として捉えうる。

たとえば現在、一部で「オープンダイアローグ」なるものが注目されているが、あの手法は基本的には、脚立でありパロール享楽の審級にある筈である、《脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある》。これは実際上は、前エディプス的主体に対しては、かつてから、仮に公然とではないにしろ、ひそかになされていた手法のヴぇリエーションである。

倒錯構造の患者の「自由連想」と治療者の「自由に漂う」注意力は、次の状況を起こしがちである。すなわち倒錯者が(神経症的)治療者を取り扱う(治療する treat)という状況である。何の不思議なことでもない、頻繁に倒錯者を扱う分析家は集団療法を提案しているのは。それは転移的関係性を制御できるようにするためである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、2001年)

このバーハウの言っていることは、父の名の斜陽の時代は、前エディプス的主体(倒錯的主体、精神病的主体)が多くなるという文脈のなかで読む必要がある。現在の社会構造的環境では、旧来のフロイト的臨床手法は機能することが少なくなっているのである。

一神教ではない日本ーー前エディプス的主体が多い日本ーーでは、もともとフロイトの「自由連想」「寝椅子」療法は、うまく機能しないという立場もかねてからある。

… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

そもそも現在の先端ラカン派においては、フロイト流「徹底操作 durcharbeiten
」、つまり古典的ラカン流「幻想の横断 traversée du fantasme
」は臨床手法として否定されつつある。

身体の享楽(リビドー固着)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係をもつ。しかし結局、享楽は自閉症的である。Pierre-Gillesは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen、2013)
ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー執着する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe)

もっとも依然として古い手法に固執している旧套フロイト・ラカン派がいまだ多数残存しているという「不幸」があるが。

⋯⋯⋯⋯


以上、結局、脚立とは原症状に対する別の症状の構築である。

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、「症状のない主体はない」と。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化(サントームとの同一化)」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウPAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)

したがって最も簡潔に図示すれば次のようになる。




かつての父の名の時代(神経症の時代)であれば、精神分析によってイデオロギー的父の名を取り払えば(フロイトの自由連想による徹底操作、ラカンの幻想の横断、主体の解任)、その底には原症状としてのリビドー固着が現われる。この固着に対処するのが現在の真の精神分析である。

現在の父の蒸発の時代であれば、神経症的エディプス後の主体ではなく、前エディプス的主体が多くなっている(倒錯、精神病的主体)。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)


前エディプス的主体は既になんらかの形で、精神分析を経ずに自ら固有の症状を作っていることが多い。とくに倒錯者においては、精神病のように過剰な妄想に悩まされず、安定した症状形成をしている場合がある。

したがってジャック=アラン・ミレールは次のように言うのである。

ラカンの不安セミネール10では、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

倒錯者における前者の対象a(「欲望の原因 cause du désir」)は主体の側にある。…

神経症者における後者の対象a(「欲望の対象 objet du désir」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)

神経症者は「欲望の原因としての対象a」に基本的には気づいていない(「分析」が必要である)。前エディプス的主体(倒錯者に代表される)は、「 欲望の原因としての対象a」に分析なしでも気づいている。これが倒錯者には旧来の精神分析の手法(自由連想、幻想の横断等)は機能しないと言われてきた主要理由である。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

この文脈で上に引用したラカン発言を読むことができる。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)


ラカンが使う「倒錯」という語の扱いには注意しなければならないが、以下の文を読むと、ラカンはほどんと倒錯のすすめをしている。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的であるtoute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
倒錯者は、大他者のなかの穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)
我々はみな知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めの)ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。

そしてこの理由で、後期ラカンは「父の隠喩 la métaphore paternelle」について皮肉を言い得た。彼は父の隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動きmouvement vers le père》の版という意味である。(JACQUES-ALAIN MILLER L'Autre sans Autre 、2013)

この理由で「一般化倒錯 perversion généralisée」ということが、現代ラカン派で言われている(参照)。


※原症状としてのリビドー固着の詳細については、「フロイト・ラカン「固着」語彙群」を見よ。

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※付記

フロイトはこう言っている。

フェティシストは、後々の生活においても、さらに他の利点として、性器代理物Genitalersatzesが非常に役立っていると感じている。フェティッシュは、その意味を他人から知られることはなく、したがってまた拒否 verweigert されることもない、それは容易に意のままになるし、それに結びついた性的満足 sexuelle Befriedigung は快適である。他の男たちが得ようとしているものや、苦労して手に入れねばならぬものなどは、フェティッシュにとってはぜんぜん気にもならないのである。(フロイト『フェティシズムFetischismus 』1927年)

他人に迷惑がかからない限りで、フェティッシュは最もすぐれた症状でありうる。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)


そもそも言語活動自体がフェティッシュでありうる。

言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構fictionnelである、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか? Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


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※追記

私がサントームΣとして定義したものは、象徴界、想像界、現実界を一つにまとめることを可能にするものだ j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel, de continuer de tenir ensemble。…

サントームの水準でのみ…関係がある…サントームがあるところにのみ関係がある。… Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome (ラカン、S23、17 Février 1976)
ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979)
La métaphore du nœud bor-roméen à l'état le plus simple est impropre. C'est un abus de métaphore, parce qu'en réalité il n'y a pas de chose qui supporte l'imaginaire, le sym-bolique et le réel. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel c'est ce qui est l'es-sentiel de ce que j'énonce. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel parce qu'il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c'est ce que je n'ai pas osé dire. Je l'ai quand même dit. Il est bien évident que j'ai eu tort mais je m'y suis laissé glisser