学問と芸術を持っている者は、宗教を持っている。 学問と芸術を持たない者は、宗教を持ちなさい! Wer Wissenschaft und Kunst besitzt, hat auch Religion; Wer jene beide nicht besitzt, der habe Religion! ーーゲーテ「おとなしいクセーニエン」Ⅸ 遺稿 |
フロイトにとって宗教は集団妄想だが、結局、哲学も芸術も理念(理想)も妄想の一種である、と以下の文から読める。 |
私が『ある幻想の未来』で扱ったのは、宗教感情の一番深い源泉というよりはむしろ、ごく普通の人間が自分の宗教だと考えているもの、つまり、一方では羨ましいほどの完璧さで宇宙の謎を解明してくれると同時に、他方では、ゆき届いた摂理が自分の生命を看視してくれていて、たまたまその摂理が働かないような場合にも死後の生活においてその償いをしてくれるだろうということを保障してくれる教義や約束の体系であった。 ごく普通の人間としてはこの摂理を、現実の父親をはるかに超越した一人の父親の形象としてしか考えることができない[Diese Vorsehung kann der gemeine Mann sich nicht anders als in der Person eines großartig erhöhten Vaters vorstellen.] |
われわれ人の子の欲求を推察し、われわれの願いに耳をかし、われわれが後悔の実(じつ)を見せれば心を和らげてくれるのは、このよう父親以外にはない。これらすべてのことは、その幼児的な性格があまりにも明白で、およそ現実離れしているから、人類に好意を寄せている者としては、大部分の人間は永久にこの種の人生観を脱することはできないだろうと考えるだけでも胸が痛む思いである。 さらに浅ましいのは、こんな宗教は根拠のないものであることを当然見抜かねばならないはずの現代人のかなりの部分が、あろうことか、惨めな退却戦を行ないながら、未練たっぷりに、この種の宗教を少しでも救おうと努めている姿である。 |
神の代りに影のような抽象的・非人格的な原理を据え、それで宗教の神が救われたと思いこんでいる哲学者[den Philosophen, die den Gott der Religion zu retten glauben, indem sie ihn durch ein unpersönliches, schattenhaft abstraktes Prinzip ersetzen]たちに向かっては、信者たちと共同戦線を張り、「主の御名をそんなに軽軽しく口にするものではない」と忠告してやりたいぐらいである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章, 1930年) |
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人間の宗教は集団妄想[Massenwahn]の一種と見做すべきである。言うまでもなく、妄想に囚われている人間はそれが妄想であることを認めない。Als solchen Massenwahn müssen wir auch die Religionen der Menschheit kennzeichnen. Den Wahn erkennt natürlich niemals, wer ihn selbst noch teilt. 〔・・・〕 |
宗教は選択と適応という作業を制限する。というのは、宗教は幸福の獲得と苦痛の防衛への道をすべての人間に平等に課すから。宗教のテクニックは、生の価値をデフレさせ、現実の世界の像を妄想によって歪曲することにある。宗教の前提にあるのは、知性への恫喝である。この犠牲を払って、つまり信者を心的幼児性の状態に余儀なく固着させ、彼らを集団妄想へと引き摺り込むことによって、宗教は多くの人間が個人的神経症に陥るのを防ぐことに成功する。 |
Die Religion beeinträchtigt dieses Spiel der Auswahl und Anpassung, indem sie ihren Weg zum Glückserwerb und Leidensschutz allen in gleicher Weise aufdrängt. Ihre Technik besteht darin, den Wert des Lebens herabzudrücken und das Bild der realen Welt wahnhaft zu entstellen, was die Einschüchterung der Intelligenz zur Voraussetzung hat. Um diesen Preis, durch gewaltsame Fixierung eines psychischen Infantilismus und Einbeziehung in einen Massenwahn gelingt es der Religion, vielen Menschen die individuelle Neurose zu ersparen. (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章, 1930年) |
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われわれが文化の一番の特色だと考えるのは、高尚な心的活動の評価と奨励である。すなわち、知的・学問的ならびに芸術的活動や、人間の生において理念にあたえられている指導的役割が、評価され大事にされることである。これらの理念の中で首位に立つのは各種の宗教体系である[Unter diesen Ideen stehen obenan die religiösen Systeme]〔・・・〕 われわれはまた、これらの宗教体系・哲学体系あるいは理想[dieser religiösen, philosophischen Systeme und dieser Ideale]の中のいくつかに下されている評価に惑わされてはならない。すなわち、これらの体系や理想を人類精神の最高の所産として讃美するか迷妄[Verirrungen]として嘆くかは別として、そういう体系や理想が存在すること―――ことにそれらが人類文化の上に君臨していること――がその文化が高度なものである証拠になっていることは承認せざるをえない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第3章, 1930年) |
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一つの疑問だけはどうしても避けて通ることができない。それはつまり、文化の発展と個々の人間の発展のあいだにこれほど広範囲な類似が見られるとすれば、文化ないしは文化時期の中のあるもの、場合によっては全人類が文化努力の影響によって「神経症」になっていると診断してもよいのではないか?daß manche Kulturen ― oder Kulturepochen ― möglicherweise die ganze Menschheit ― unter dem Einfluß der Kulturstrebungen »neurotisch« geworden sind? (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年) |
宗教・哲学・芸術・理念(理想)が妄想であるなら、自我理想も妄想であるだろう。そしてフロイトにとって言語は自我理想である[参照]。とすれば、言語も妄想である。
この意味でラカンの「人はみな妄想する」は明瞭な形で、フロイトに既にある。
フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。 Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978) |
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「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。…この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. MILLER, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |
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我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel.]〔・・・〕現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
欲動の現実界がある 。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
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ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours. (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011) |
欲動のトラウマの穴を穴埋めするのが妄想である。
父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père] (Lacan, S17, 18 Mars 1970) |
ラカンがS (Ⱥ)を構築した時、父の名は穴埋め、このȺの穴埋めとして現れる[Au moment où Lacan construit S(Ⱥ), le Nom-du-Père va apparaître comme un bouchon, le bouchon de ce Ⱥ. ](J.- A. Miller, L'AUTRE DANS L'AUTRE, 2017) |
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父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005) |
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない[Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ](J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un, 2/3/2011) |
大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98) |
以上、欲動の穴を言語で穴埋めするのが妄想である。
ーー《私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと[Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire]》(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)