2022年4月11日月曜日

風景は教育する

  

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない [c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire](Lacan, S16, 20 Novembre 1968)


ーーとは、蓮實重彦の風景論「風景を超えて」における《存在が風景を読むのではない。風景が存在を読みとってゆく》等々と同義である。



蓮實重彦「風景を超えて」より


◼️風景は教育する

風景は教育する。風景が風景としてあることの意義は、ほぼその点に尽きるといってよい。風景をめぐって口にされるあれやこれやの言説は、風景がまというるもろもろの表情がそうであるように、ときには教育とは無縁の体験へと人を導くかにみえるが、そうした体験も所詮は風景にとって二義的なものにすぎない。教育装置として機能することで、風景ははじめて風景となる。だから無償の風景というものは存在しない。それが風景であるかぎりにおいて、あらゆる風景は耐えがたく醜い。そして、風景に瞳を向けることは、おしなべて恥ずかしい身振りなのである。あらゆる視線は、習得する視線にほかならないからだ。風景を賛美し風景を貶めるといった振舞いは、恥ずかしさを何とか隠蔽せんとするものにのみ可能な貧しい延命の儀式にほかならない。


風景は教育する。風景は、教育装置として機能することではじめて風景となる。とはいえ、そうした教育的資質に自覚的な風景というものはごく稀であろう。ほとんどの場合、風景は悪意を欠いた無邪気さを露呈しながらあらゆる視線にその全貌をさらしているかにみえる。風景は慎ましく彼方にひかえ、みずから視線を選択したりはしないし、瞳という瞳を平等にうけいれてもいる。だから、驚嘆すべき眺めとして存在を刺激し、退屈な眺めとして存在をまどろませるとき、驚嘆し退屈するのは視線の特権だと思われてしまいがちなのだ。心象風景として内的視線を招き寄せるときも、想像力に同じ特権が委ねられているかにみえる。いずれにしろ、美しかったり醜かったり、またそのどちらでもなかったりするのが風景だと考えられているし、風景自身もそう信じこんでいるに違いない。


◼️存在が風景を読むのではない。風景が存在を読みとってゆく

だが、そうした美的感性の篩などはあっさりかいくぐってしまう風景は、逆にその感性的な篩の網目を入念に組織する装置として機能しながら、視線から、審美的判断を下そうとする特権を奪ってしまう。つまり風景は、感性と思われたものを、想像力や思考とともに「知」の流通の体系に導き入れ、その交換と分配とを統御する教育装置として着実に機能しているのである。教育とは、存在を分節化し、装置としての風景にふさわしい体系に、思考と感性と想像力を馴致せしめる不断の活動にほかならない。だから風景に驚嘆し、退屈しもする感性は、装置としての風景が休みなく語り続ける美しさの物語に、しかるべく組みこまれてゆくまでのことだ。存在が風景を読むのではない。風景が存在を読みとってゆくのである。風景が教育するとは、この風景による解読の運動に存在が徐々に馴れ親しんでゆく過程を意味している。みずから「記号」として交換され、分配され、しかるべき物語の説話論的要素たることをうけいれながら、そこにいかなる痛みも怖れの感情をもいだかずにいられるまで、風景に犯されることを教育と呼ぶのである。だから風景に驚嘆し、退屈しもする感性は、装置としての風景が休みなく語り続ける美しさの物語に、しかるべく組みこまれてゆくまでのことだ。



◼️「制度」、あるいは「イデオロギー」は教育する

では、そのとき風景はなぜ風景と呼ばれなければならないのか。「制度」、あるいは「イデオロギー」としてはなぜいけないのか。もちろん、「制度」は教育すると書き改めても事態にさしたる変化は生じまい。これまで、いろいろな場所で、いわゆる「制度」なるものの希薄にして執拗なる教育的資質には触れてきたつもりだ。だが、「制度」が「制度」として機能するとき、その機能ぶりは徹底して不可視であるとされながら、しかしその不可視性は決して純粋の透明性を誇るわけではなく、それじたいがすでに多少とも濁っている思考だの感性だの想像力だのをうけとめた結果、しかるべき汚点や斑点を表層にまとっているという意味で、むしろ絵画的光景として、つまり構図を持った風景として共有されているからである。それが現実の風景ではなく、内的なイメージのようなものとして共有されていようと問題ではない。

人は「制度」を想像することができるし、「制度」を思考することもできるし、そのあり方に感性的な反応を示すことも可能なのだ。多くの困難と複雑なる戦略とを必要としていようと、「制度」を思い描くことは決して不可能でない。しかも、そのことが「制度」の真の「制度」性ということができる。つまり漠として捉えがたくはあっても「制度」はそのイメージを介して「知」としての交換と分配の体系上に位置づけうるように思われるし、またこのイメージを欠いた場合、それは流通する「記号」たりえないだろう。その意味で、「制度」はいささかも特権的な「記号」ではない。だがその特権性の不在は、それ自身がイメージとして流通しながら、ありとあらゆる思考と感性と想像力とにイメージを付着させずにはおかぬという意味で、きわめて逆説的な特権性を誇示しているともいえる。それが外的なものであれ内的なものであれ、人は瞳の向こう側に浮上する風景に思考や感性をなげかけながら、存在を組織してゆくのだ。


◼️風景とは視線を対象として分節化する装置にほかならない

想像力を平等にうけとめるこの不可視の幕のようなもの、不可視ではあってもそこで視線をうけとめてくれる透明な、しかも程よく汚れた壁のようなもの、これまで風景と呼ばれてきたものはそうしたものなのだ。誰もが暗黙のうちにその存在をうけいれているイメージの投影装置。風景が教育的なのは風景のそうした性格ゆえにである。それは、視線の対象であるかにみえて、実は視線を対象として分節化する装置にほかならない。というより、その装置は、何よりもまず思考を分節化する機能を顕著に発揮する。その不可視の表層に汚点や斑点を見ているのは決して視線ではないからである。そしてそこで分節化される思考は、想像力が見たと信じ込む表層の濁った部分をつなぎあわせ、輪郭や陰影をきわだたせて中心部と周辺地帯とを分離しながら構図を組織し、遂には生きた存在たちの顔、動かぬ物質どもの表情、あるいは想念の形象化された姿を浮きあがらせるに至る。そのとき人は、風景がおさまることになる構図がいかに奇態なものであれ、顔として、表情として、形象化された姿としてしかるべく配置される存在や物質や想念の戯れを肯定し、みずからの風景の構図を解読するという姿勢の積極性を錯覚しながら、「知」の磁場における存在の分節化をうけいれることになるだろう。その戯れが抽象的な構図を描きだそうが具象的な構図におさまろうが、思考はその全域を視界におさめながら、方向の意識だの距離の感覚だのを習得しえたと確信する。この確信が解読を支え、「知」の磁場の相貌に馴れつつそこに分節化される存在の痛みを忘れさせるのだ。


◼️あらゆる視線は、風景の構図を解読の対象であるかに錯覚する

だから風景とは、存在を説話論的要素として分節化しながら物語に組み入れるときの痛みを緩和する忘却装置として、その教育的資質を発揮しているのだということができる。あらゆる視線は、風景の構図を解読の対象であるかに錯覚し、かつその錯覚を一つの自然として思考に共有させんとする存在の、無意識であるが故に絶望的な自家撞着を露呈せざるをえず、風景の教育的資質は、その絶望をあくまで絶望とは意識させまいとする希薄な執拗さのうちに存している。誰もが何の恥じらいもなく風景に視線を向けることができるのは、風景が瞳に従順であるからではなく、従順を装う風景の演技がいかにも徹底しているからにほかならない。思考がすでにその構図に馴れ親しみ恐れることがないので、視線もまた、いかなる羞恥心もなく風景と対峙しうるというわけだ。


いかなる視線といえども、それが視界に展開される顔や表情や姿の戯れをまさぐりつつ構図の解読へと向かわんとする真摯な情熱に衝き動かされたものであろうと、解読を越えた何ものかを習得せんとする無意識的な欲望の運動を隠しおおすことはできない。だが、無償の視線がありえないとしても、それは決して無償の構図におさまることのない風景がその欲望を煽りたて、思考の貪欲ぶりをむしろ慎み深い善意であるかに勘違いさせ、そのことで風景が思考にとって過剰な何ものかを含むことなく存在と調和ある関係を生きているかに振舞うので、それを模倣する視線がみずからの欲望を意識化するにはいたらないというまでのことなのだ。ところで肝腎なのは、思考が満遍なくまさぐることで思うことで構図を解読しえたと確信しうる風景と、視線が捉える風景との関係をあくまで通俗的な比喩に貶めたままでおいてはならぬという点だ。無償の風景が存在しないが故に無償の視線もまた存在しないのであり、にもかかわらず視線が風景の過剰なるものへの欲望を抑圧しつづけうる理由は、思考のそれと知らずに装われた善意を視線が模倣しているからにほかならないのだ。


◼️肝腎なのは、思考の風景が視線の風景に先行しているということ

教育する風景に汚染しきった思考は、みずからの視界に浮上する風景を瞳が捉える風景の比喩だと信じこんでいる。だが、実際には、人が現実に視界におさめることのできる風景とは、思考を解読へと誘っておきながらその代償として思考を分節化する教育の馴致装置としての風景の比喩的一形態にすぎず、事態はその逆なのではない。風景とそのしかるべき構図を必要としているのは思考の方であって、現実の瞳の知覚作用はそうした思考の身振りと欲望とを模倣しているにすぎない。思考の風景が視線の風景に先行しているということ、肝腎なのはその点だ。


◼️無垢の思考と裸の視線というメロドラマ

無垢の思考と裸の視線とが原初の風景と交錯しあうといった抽象的なメロドラマを想像して思考と視線の優先権を競いあうといった事態であれば話は別だが、すくなくともわれわれが「文化」と呼ばれる「制度」の中で暮し、かつその「制度」そのものに何らかの働きかけを試みんとする現実的な場にあっては、視線は明らかに思考を模倣するものとしてある。つまりここで問題となる風景とは、視界に浮上する現実の光景の構図を一つの比喩にしたてあげもするあの不可視の、だが透明とはほど遠い濁った壁の表層にまといついた汚点や斑点の戯れそのものにほかならず、ほとんどの風景論者たちは、風景の教育的資質に言及しながらも、このモデルと模倣との関係にいたって無自覚であるといえる。それは、彼らがすでに風景の教育的資質に汚染し、その馴致=分節機能に従順に従いながら、自分自身にまだ語るべき物語が残されていると錯覚しているからであろう。〔・・・〕


◼️自分だけは風景の汚染をまぬがれているかの確信術を風景によって教えこまれている

しかし、それにしても教育する風景といったものについて語ることほど退屈なはなしもまたとあるまい。あたりに行きかっているあまたの言説は、ほどよく身支度を整えた自意識過剰の哲学的なそれから無邪気な日常的な会話にいたるまで、またとうぜんのことながら文学という誇らしげな言葉の群であろうと、そのことごとくがそれと意識されざる風景論を形成しているからである。あらゆる存在は、いまおしなべて饒舌なる風景論者であり、教育装置としての風景がその事実を自覚させまいとして躍起になって忘却機能を演じたてているのだ。誰もが風景について論じながら、その論議の対象が風景ではないと錯覚したり、また風景について語りながら自分だけはその風景の汚染をまぬがれているかに確信する術を風景によって教えこまれているかのようだ。


◼️驚くべき杜撰さのパラダイム概念なる無償の饒舌

たとえば、驚くべき杜撰さでトーマス・クーンによって提起されたあの「パラダイム」なる概念、とうぜんその杜撰さにふさわしい希薄さで無償の饒舌を煽りたてたあの概念が提起者自身によって曖昧に撤回されたり部分的修正をほどこされたりもしたにもかかわらず概念として文化の領域に居すわり続けてしまったのは、それが斬新で革命的な概念であったからではなく、もちろん退屈なる風景論の薄められた変奏にすぎなかったからだ。すくなくとも『科学革命の構造』に述べられている限りにおいて、「パラダイム」が教育装置として機能する風景の一つであることは誰の目にも明らかだ。「ある一時期に おけるある分野の歴史を細かく調べてみると、いろんな理論が概念や観測や装置に応用される際に、標準らしき一連の説明の仕方が繰り返されていることに気付く。これらがその専門家集団のパラダイムであって、教科書や講義や実験指導の際に現れてくるものである」と述べるクーンは、そのパラダイムなるものの教育 装置の側面を強調しながらこう結んでいる。「それを学び実地に適用することによって、その集団のメンバーは仕事に習熟してゆく」。パラダイムなるものが教育装置として機能するといっても、それは、パラダイムが、特定の「知」をめぐる個々の規則だの仮説だのの総体として、解釈すべき風景 の合理的整合性を存在に納得させるからではなく、「知」の体系性と真実の客観性の確証以前に律する拘束力がそこにそなわっているからである。


◼️解釈する視線は解釈される風景による解釈をすでに 蒙った解釈される視線でしかない

クーンは、いうまでもなくこうした立場を科学的視点から提起しているわけで、思考の「制度」としてある科学が必然的に露呈せざるをえない「制度」性を強調しながら、科学の客観性への制度的信仰、ならびに科学の「知」的発展の連続性への制度的確信などを再審に付したという意味でまんざら無駄な議論だったわけでもなかろうと思う。だが、解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに 蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまって おり、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。


◼️自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性

それにもかかわらずクーンが提起したパラダイムの概念、およびそれが煽りたてたもろもろの議論に何がしかの意味があったとするなら、それは、科学の客観性と連続性という双生児的概念に人びとがようやく疑いの目を注ぎはじめたからではなく、科学をも含めたあらゆる今日的思考が、風景論の時代に属しているという現実をクーンが無意識ながら告白しているからにほかならない。またそれにもまして興味深いのは、風景論の時代に特有な認識の配置図や「知」の流通形態の全域を理論的に踏査しつくしたわけでもないのに風景論の時代の言説をもてあそび、そのことできわめて逆説的ながらみずからの立場を証拠だてているかにみえるクーンが、なおそのパラダイム概念の提起にあたって、ほとんどデカルト的というほかない認識のパターンに頼って自分を科学史という物語の話者に仕たてあげ、その視点を修正したり再強化したりしているという点である。その一点に限っていえば、あたかも彼は自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性がそこに露呈しており、その意味でクーンはいささかも革命的ではないし、ましてや反科学的でもない。彼は風景による教育にことのほか忠実なる風景論の饒舌な語り手にすぎないのだ。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批評宣言』所収、1979年)




見ることは見ずにおくことの技術の体系

見ることの技術の体系化は、しかし、それ自体として完成されるものではない。とりあえずそれが可能なのは、病気が正常と、狂気が理性と、言葉が物とすでに分離しているという歴史的な前提があるからにすぎない。技術体系にその機能を許しているのは、あくまでこの分割である。技術の歴史は、この分割をもその文脈にとりこみえたとき、はじめてその歴史性を開示することになるだろう。また、『狂気の歴史』や『臨床医学の誕生』、そして『言葉と物』が歴史的な書物になっているのもその限りにおいてである。


この三冊の歴史的な書物で問われているのは、まぎれもなく見ることの技術体系である。だが、視線が技術の問題であるとしても、その技術が何を見るのかのそれではなく、何も見ずにおくための技術であったという点は改めて強調しておく必要があるだろう。それは、不可視のまわりに配置された視線の体系なのだ。事実、技術に翻訳されえないが故に病気は病気なのだし、狂気は狂気なのだし、言葉は言葉なのだ。『臨床医学の誕生』で強調されていたのが、医師がいかに病気を見ていなかったかという点にあったことを思い起こすまでもなく、見ることは見ずにおくことの技術の体系として、ながらく人間的な思考を支えていたのだ。(蓮實重彦「視線のテクノロジー フーコーの「矛盾」」初出1984年『表象の奈落』所収)





…………………


◼️制度という説話論的装置

制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する装置なのである。あるいは、きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、それがこの章の冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。その担い手たちは、知っているから語ろうとする存在ではない。だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こをが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者は、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)


あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実誤認、それは、「未知」なるものはいまこの瞬間ここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落すのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いまこの瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。(蓮實重彦『表層批判宣言』「言葉の夢と「批評」」ーー黒字強調箇所は原文では傍点)




◼️物語の分節機能に従う説話論的磁場

説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)



◼️何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。

だが、知っているとはどういうことなのか。ほとんどの場合、知っているとは、みずから説話論的な磁場に身を置き、そこで一つの物語を語ってみせる能力の同義語だと思われている。フローベールとは、十九世紀フランスの小説家で、『感情教育』などの客観的な長篇小説を書いた、というのがそうした物語である。青年時代に神経症の発作に見舞われていらい、世間との交渉を絶ち、ノルマンディーの田舎に閉じこもって、文章の彫琢に没頭した、というのも物語である。また、その他いろいろあるだろう。そんな物語の一つをつぶやくことができるとき、人は、そこで主題になっているものを知っていると思う。知は、物語によって顕在化し、また物語は知によって保証されもするわけだ。なにひとつ物語を語りええないものを前にして、人はそれを知らないという。だから、フローベールが未刊のままの草稿として残した倒錯的な辞典の題名をかかげてみても、知と物語との相互保証を導きだすことにしかならないだろう。ところで、フローベルが十九世紀の半ばに構想を得た辞典は、まさに、こうした知と物語との補完的な関係を断ち切ることにあったのだ。

実際、誰もがフローベールを知っている。そして、知っているという事実をたがいに確認しあうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。その物語の中で、最も多くの人に知られているものこそ、フローベールが執筆を企てた辞典の項目たる資格を持つものである。誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが、知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。まるで物語の外には知など存在しないかのように、装置は、知を潤滑油として無限に機能しつづける。するとどういうことになるか。


結果は目にみえている。人は、知っていることについてしか語らなくなるだろう。たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。

ところで、この物語の無限反復の中に辞典の題名を導入するとどうなるか。それはギュスターヴ・フローベールの未完の草稿だと口にするだけで、この辞典が説話論的な磁場の中へ姿を消してしまうのは明らかだろう。あとはすべてが円滑に進行する。その倒錯的な辞典の倒錯性そのものに出会うことなく、誰もが物語を納得してしまうのだ。だが、フローベールとしては、みずからを無謀な編纂者に仕立てあげることで、この寛大な納得を、物語の模倣を介して宙に吊ることを目ざしていたわけだ。というよりむしろ、説話論的な磁場の保護から出て、誰もがごく自然に口にする物語を、その説話論的な構造にそって崩壊させるというのが、彼の倒錯的な戦略であったはずだ。物語に反対の物語を対置させることではなく、物語そのものにもっとも近づいて、自分自身を物語になぞらえさえしながら、物語的な欲望を意気阻喪させること。つまり、失望の生産とは、知と物語との補完的な関係をくつがえし、知るとは、そのつど物語を失うことにほかならなぬのだと、実践によって体得すること。

事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたりもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充塡して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)



◼️物語とは、本当らしく見せるための配慮の体系

自分一人が特権的な証人たりえたできごとを本当のこととして他人に報告しようとするとき、人は、みずから語りつつある物語が真実であると立証すべく、本当らしさへの配慮で思わず武装してしまう。語ることは、語ることの真実らしさに支えられることなしに遂行されはしないからである。しかも、物語に耳を傾ける者たちは、語ることの真実らしさを確信しえたときに、初めて説話論的な安心を獲得する。つまり、物語は、本当らしく見せるための配慮が共有されるとき、初めて語る者と聞く者とを結びつけるのである。その意味で、物語とは、本当らしく見せるための配慮の体系だといってよい。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p.412、1988年)


◼️真実として受け入れられるための二つの条件

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p.754、1988年)


◼️ジャーナリズムの基盤ーーその場にいたという説話論的特権の虚構的肥大化

(これらの)著者それぞれの政治的姿勢の違いにもかかわらず同じ構造の言説に属しており、基本的には、誰がより多くの正しい情報を持っているかという点にすべてが還元されるだろう。その場にいない人間に何が語れようかという、疲れを知らぬ旅人マクシムの一貫した立場と、コミューン擁護派のリザガレーのそれとはほぼ同じものなのである。


ところで、その場にいたという説話論的な特権の虚構的な肥大化こそがジャーナリズムの基盤なのだから、こうした立場はこんにちまで根強く生き残っている。〔・・・〕


◼️マルクスによるジャーナリズム的磁場の徹底的な批判

ーー旅行記的言説の根本的否定

実際、ロンドンに亡命中のドイツ人が、事態の推移に寄りそうようにして『フランスの内乱』を書きえたのは、マルクスがそのような知の配置に敏感であり、またその配置の変換に創造的に関わりえたからにほかならない。その説話的な戦略は、話者の説話論的な特権の否定だといってよかろうが、それは同時に、その場にいたという説話論的な特権の虚構的な肥大化としてあるジャーナリズム的磁場の徹底的な批判ともいえるだろう。あるいはまた、語ることそのものに露呈される階級性批判としてもよいものが、別のいい方をするなら、旅行記的な言説の根本的な否定ということにもなろう。〔・・・〕



◼️マルクスの構造的仮説の優位性

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P.508、1988年)



………………


◼️従軍記者の時代

従軍記者になるための条件は、それが一般的に保守的と呼ばれるものであれ革新的と呼ばれるものであれ、きまって人類の大義と真実の二語を口にし、それを口にすることでみずからの成熟を確信し、いまある自分自身を肯定し、しかも強要されたわけでもないのに、他者の群に向かってそう物語ってみせる人間のことである。たえて久しく戦争など起こっていないというのに、現代の日本社会にも多くの従軍記者が棲息している。誰もが知っているあの批評家も、あの小説家も従軍記者そのものではないか。あるいはあの国のあの哲学者、あの人類学者も従軍記者ではないか。実際、現代とは、意識的であると否とを問わず従軍記者の時代なのだ。〔・・・〕


彼らは、一様に何ごとか貴重なものが喪われたという思いを心のかたすみに隠し持っている。しかも、その崩壊の意識が、成熟の実感と彼らのうちで深く結びついている。だが、成熟にせよ喪失にせよ、それを口にしうるのは従軍記者へと変容する芸術家に限られている。それを幻想と呼ぶか否かはともかくとして、少なくとも、この成熟と喪失が具体的に歴史を分節化しているのではなく、大義と真実の二語を口にしたものだけにみえてくるものだという意味で、それは一つの世代的な虚構なのである。人類の大義の名のもとに真実を顕揚したりする人間はきまってこの虚構の中に身を閉じこめ、従軍記者という名の作中人物をみずから演じ始めることになるだろう。この役割はきまって政治的なものであり、それを演じるのもきまって芸術家たちなのだ。従軍記者の役が真剣に演じられれば演じられるほど、その演技は政治的な色調を帯びることになるだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1888年)


◼️従軍記者という凡庸な芸術家・凡庸な知識人

彼らが演じてしまう政治的な役割が一つの力を帯び始めるとき、従軍記者は新たな名前を獲得する。それは知識人という名前である。知識人とは、従軍記者の役を真剣に演じながら、こうした政治的な虚構の説話論的な要素にすぎない人類の大義や真実に殉じようとする芸術家にほかならない。こうした定義にあてはまる知識人は現代にしか存在しない歴史的な生産物である。それは、たとえば中世の知識人だの江戸時代の知識人などとは、説話論的な機能において異なっている。そして、しばしばそう口にされることで現代の特質を明らかにしうると信じられている知識人の終焉の知識人とは、現代に生きのびていた中世的な、あるいは江戸時代的な知識人にほかならず、今日の社会には、過去の自分を否定することで従軍記者の役割が真剣に演じうるものと錯覚している芸術家たち、つまり知識人があふれているのである。その知識人たちの政治的な役割を明らかにするためには、彼らに共通する資質としての凡庸さの構造を明らかにしなければならない。特権的な知識人の終焉を口にすることはいささかも歴史を明らかにしはしない。それは、歴史から目をそらすための恰好の口実にすぎず、それこそ凡庸な芸術家にふさわしい政治的な虚構というものだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)



……………


柄谷行人はこの「凡庸な芸術家・凡庸な知識人」を中野重治に依拠しつつ「芸能人」と言い換えた。


中野重治は「芸術家の立場」というエッセイで注目すべきことをいっている。まず彼は芸術家と職人を対比する。この場合、「職人」という語は、中野がつけ加えていっているように、芸人や農民、あるいはすべての職業人をもふくんでいる。いわば、それは、どの「職」にも固有のスキルと、それに伴う責任感やプライドをもつ者のことである。


《職人は、ある枠のなかに安住し、あるいはこの枠を到着目標とする。彼らは枠をやぶろうとしないのみならず、そもそも枠に気づかない。それに対して、芸術家は、この枠を突破しようとする。しかし、その結果はわからない。《職人の場合、その努力は何かの結果を約束する。約束された結果への努力が職人の仕事になる。約束されていない結果への努力が芸術家の仕事になる。》(中野重治「芸術家の立場」)


中野のこの区別は、ある意味でロマン派以後の考えのようにみえる。しかし、実は彼はそれ以前の状態で考えている。たとえば、中野はこの「芸術家」と「職人」の関係を上下において見ていない。《職業としての一人の大工と、職業としての一人の建築芸術家があるわけではない。そういう上下はない》。しかし、職業としての上下はなくても、芸術家と職人の上下関係は本質的にある。《ある人は職業として芸術家となって行ってつまりは職人になる。あるひとは職業として職人になって行ってつまりは芸術家になる。識別に困難はあるが、実際にはそれがある》。たとえば、中野は、職人として始めて芸術家に至った例として、樋口一葉や二葉亭四迷をあげている。


いうまでもなく、一葉や四迷は芸術家という意識をもっていない。同じことが、イタリアのルネッサンスの芸術家についていえる。彼らは職人として始めて、その「特権的な才能」ゆえに、ロマン派以後なら芸術家と呼ばれるものになった。しかし、彼ら自身は芸術家とは考えていなかった。つまり、中野がここでいう芸術家とは、芸術家という観念が出現する以前の ”芸術家” である。ところで、中野は、ここで芸術家でもなく職人でもない芸能人というものをもちこむ。


《芸術家とならべて考える言葉に職人というのがある。たいていは、芸術家は職人よりも上のもの、職人は芸術家よりも下のものとなっている。芸術家とならべて考えるもう一つの言葉に芸能人というのがある。芸能人という言葉はあたらしい。それは、芸術家よりもあたらしく、ほんとうをいえば、言葉としてどの程度安定したものか、いったい安定するものかどうかさえすでにうたがわしい。しかし、とにかく、日本の現在でその言葉はあり、それは、なにかの程度で何かをいいあてている。そしてたいていは、芸術家は芸能人よりも上のもの、芸能人は芸術家よりも下のものとなっている。》(中野重治「芸術家の立場」)


芸能人という言葉は、事実この当時はまだ新しかったけれども、今日ではむしろ中野がいったとは違った意味で「安定」している。そもそも職人や芸人が消滅してしまったからだ。したがって、中野がいう「芸能人」は今日われわれがいう芸能人とは別であることに留意すべきである(むしろ「文化人」という語がそれに該当している)。ここで中野が意味するのは、芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。中野はこういっている。


《そこへさらに例の芸能人が混じってくる、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。》(中野重治「芸術家の立場」)


こうした「芸能人」のなかに、中野はむろん学者や知識人をいれている。中野がこの「芸能人」という言葉が「何かの程度で何かをいいあてている」と書いたとき、彼はたしかに何かをいいあてていたといってよい。というのは、まさにこの時期「大衆社会」という言葉があらわれ、且つその言葉が「いいあてている」ような現象が出現していたからだ。


中野がこれを書いた1960年以降、芸術家あるいは知識人は失墜した。かといって、職人あるいは大衆が自立したわけではない。そのかわり知識人でも大衆でもないような大衆があらわれた。それは中野がいう「芸能人」に対応しているといってよい。べつの言葉でいえば、ハイ・カルチャアでもなくロー・カルチャアでもない、サブ・カルチュアが中心になって行った。むろん、それがもっと顕著になるのは八〇年代である。この時期、中野のいう「芸能人」にあたるものは、ニューアカデミズムと呼ばれている。学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。


文学にかんしても同じことがいえる。もはや「純文学」などという者はいない。しかも、純文学を軽侮することがアイロニーとしてあった時代もとうに終っている。今や新人作家がその二冊目のあとがきにつぎのように書く始末なのだ。《良いもの、つまんないかもしれないものも、ちゃんと読んでくれる人がいて、ごまかしがきかないくらい丸ごと伝わってしまうことはプロの喜び、幸せ、大嬉しいことです。しっかり生きて、立派な職人になりたい。いい仕事をしよう》(『うたかた/サンクチュアリ』)。


「立派な職人になる」と言うのは、一昔前なら、「大問題」を相手にする戦後派的な作家に対して身構えた作家の反語的な台詞としてありえただろう。それは、実際はひそかに “芸術家” を意味していたのである。そういうアイロニーはまだ村上春樹まではある。しかし、吉本ばななは、これを自信満々でいっているのではないかと思われる。それは文字どおり芸能人のファン・クラブ会誌にふさわしい言葉である。そもそも「職人」や「芸人」がどこにもいなくなった時代に、こういう言葉が吐かれていることは、知識人や芸術家が死語にひとしいことを端的に示している。1960年に中野重治がいった事態はその極限に達したかのようにみえる。


しかし、中野のいう「芸能人」は、べつに1950年代後半以降の新しい現象ではない。むしろ、芸術家や知識人は、それがあらわれたときすでに中野のいう「芸能人」のような存在だったというべきなのである。べつに芸術を実現しているわけでもないのに、「芸術家」と名乗る人たち。「知識」を追求しているわけでもなく、そのことを指摘されれば、実践が大切であり大衆に向わねばならないという人たち。そして、大衆から孤立しているが、その理由が大衆の支持を最も必要とするからにすぎないような人たち。こういう種族がもともと知識人や芸術家なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」初出1990年『終焉をめぐって』所収)