2022年11月16日水曜日

斜線を引かれた主体はエスの欲動蠢動


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet. ](Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


現実界のなかの主体とは厳密には、斜線を引かれた主体$のことである、ーー《穴は斜線を引かれた主体と等価である[A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $]》(J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)



この穴はトラウマを意味する。


現実界は穴=トラウマをなす[le Réel … fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


Trou-matismeとはラカンがしばしばやる言葉遊びである。


ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び[le jeu de mots de Lacan sur le troumatisme]。トラウマの穴はそこにある。そしてこの穴の唯一の定義は、主体をその場に置くことである[Le trou du traumatisme est là, et ce trou est la seule définition qu'on puisse donner du sujet à cette place] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006)

人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )



このトラウマの穴は、フロイトの原抑圧によって空く。


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



そもそもラカンの主体$は、フロイトの自我分裂が起源である、ーー《ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ]》(Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)



自我分裂とは自我と欲動、つまり自我とエスの分裂をいう。


欲動要求と現実の抗議のあいだに葛藤があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている[Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen.  ](フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)

自我分裂…一方は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている[Ichspaltung…die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. ](フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


上に「自我分裂」と「抑圧」が結びつけられているが、後期フロイトは抑圧を原抑圧の意味でしか使っていない➡︎原抑圧文献」。


この原抑圧は固着と等価である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)



したがって、原抑圧による穴とは固着の穴であり、固着が身体に穴を空ける。


ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴をつくる。固着が無意識のリアルな穴を身体に穿つ。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



つまり固着による主体の穴とは、欲動の身体の穴のことである。


主体とは、欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴に過ぎない[Le sujet …rond brûlé dans la brousse des pulsions](Lacan, E666, 1960)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



この欲動の身体の穴(トラウマ)の別名を異者としての身体という。


われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


これはフロイトの定義通りである。

トラウマ=異者としての身体=固着に伴うエスの欲動蠢動である。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体[Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



以上、ラカンの現実界のなかの斜線を引かれた主体は異者である。この主体はエスと言ってもよい。より厳密にはエスの欲動蠢動である。


主体の穴は対象aでもある。


対象aは穴である[l'objet(a), c'est le trou](Lacan , S16, 27 Novembre 1968)


したがって、《対象aは主体自体である[le petit a est le sujet lui-même[a ≡ $]》( J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


この対象aが異者としての身体であり、主体に結びつく。


異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている[ ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté] (Lacan, S16, 14  Mai  1969)


以上、$ ≡ Ⱥ ≡ a ≡ Fremdkörper であり、要するに、斜線を引かれた主体はエスの欲動蠢動である。


………………



ここで注意しなければならないのは、ラカンには穴としての主体以外に、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]があることである。この別名が《シニフィアン私[le signifiant « je » ]》(Lacan, S14, 24  Mai  1967)である。


そしてこのシニフィアン私は、現実界の主体に対する見せかけである。


見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)


フロイトの自我とは事実上、この見せかけの「シニフィアン私=私表象」である。現実界の主体に対するこの私表象は、フロイトの次の二文に相当する。


自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)

エスがあったところに、自我は到らなければならない [Wo Es war, soll Ich werden](フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年)


「自我は自分の家の主人ではない」とは、自我はエスの見せかけに過ぎないということである。

ラカンはイマジネールな自我とシンボリックなシニフィアンを区分はしたが、フロイトにはこの区別はない。さらにラカンにおいて想像界は象徴界によって構造化されている。

想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)


この意味で、フロイトの自我はラカンの見せかけとしてのシニフィアン私(私表象)の審級にある。