2022年11月12日土曜日

自我分裂と主体$

 

◼️原抑圧による自我分裂(自我とエスの分離)

フロイトは自我分裂についてこう言っている。

欲動要求と現実の抗議のあいだに葛藤があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen.  (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


欲動要求はフロイトにとってリアル[Real]であり、リアル[Real]とリアリティ[Realität]の対立が自我分裂[Ichspaltung]に関わることが示されている。


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)



欲動要求とは事実上、エスの身体的要求である。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)



この自我分裂による自我とエスの分裂は次の文に示されている。

自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


「エスへの抑圧」とあるが、この抑圧とは原抑圧であり、神経症とあるのは、何よりもまず原抑圧の症状である現勢神経症である[参照]。





フロイトにおいて欲動に関わる抑圧はすべて原抑圧であり、別名「排除」である。

原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe ](フロイト『症例シュレーバー』1911年)

排除された欲動 [verworfenen Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)



◼️自我分裂とフェティシズム


ところで、フロイトは自我分裂をフェティシズムと関連づけて語っている。

フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕

幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧(=原抑圧・排除)と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt. 

我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


このフロイト最晩年の文は教科書的通念、あるいは或る時期までのフロイトの記述ーーたとえば1927年の『フェティシズム』論ーーからは、いくらかの相違がある。

以前のフロイトは精神病的な排除(原抑圧)と倒錯あるいはフェティシズム的な否認、精神神経症的な抑圧(後期抑圧)を区別したが、上の文では排除[Verwerfung]と否認[Verleugnung]を区別せず、しかもそれがフェティシズムに関わることが示されているのだから。


だが、ここではこの相違を不問にしたまま話を進める(そのうち別投稿で示すかもしれないが、ここでの話題ではない)。



◼️母なる超自我による自我とエスの分離


フロイトの死の枕元にあったとされる上と同じ論文で、フロイトは自我とエスを分離させるのは超自我だと書いている。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。

Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]とあるが、《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)であり、つまり母は超自我である。


母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)



◼️超自我と原抑圧の一致


さて、自我とエスの分離の審級が超自我であり、先に見たように原抑圧も自我とエスを分離する。この意味で、超自我と原抑圧は等価なのである。


これはジャック=アラン・ミレールがラカンから引き継いだ最初のセミネールで断言的に強調していることでもある。

超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕

あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


なおフロイトにとって超自我も原抑圧も欲動の固着である。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着される[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden  »Verdrängung«. ]〔・・・〕この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege, und können hinzufügen](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年、摘要)



欲動はリビドーと等価であり、固着とは、エスに異者としての身体(欲動の身体)を置き残す(残滓)という意味である。

常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者としての身体は原無意識(本来の無意識)としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)





◼️固着の残滓としての異者としての身体[Fremdkörper]


上でひとつ示した、日本では「異物」とも訳されてきたエスに置き残された異者としての身体、つまりリビドー固着の残滓としての欲動の身体について、フロイトは多様な表現の仕方をしている。ここでは、以下に三文掲げる。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体[Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



ラカンが原抑圧に穴(トラウマの穴)を見出すと言ったのは、このトラウマあるいは欲動の身体としての異者を示している。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。穴は原抑圧と関係する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.…La relation de cet Urverdrängt](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975、摘要)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


フロイトラカンにとってリアルな身体は欲動の身体のトラウマなのである。



◼️母なるモノという固着の残滓=異者としての身体


フロイトは異者だけでなくモノも残滓とした。

我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste,](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)


この残滓は次の形でも現れている。

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her.](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


したがってモノは母、あるいは母への固着に関わるが、これがラカンの現実界であり、繰り返せば、フロイトの異者としての身体である。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan、S23、11 Mai 1976)





◼️モノというリアルな対象aと主体


なおこの残滓としてのモノはラカンにおいてリアルな対象aでもある。

セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる。dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a. ( J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un - 06/04/2011)



たとえばセミネールⅩにはこうある。

残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

フロイトの異者は、置き残し、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


つまりリアルな対象aは残滓=異者=享楽=母=固着である。

そしてセミネールⅩⅢでは、この対象aを超自我と結びつけている。

私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)


同じセミネールで、穴は主体だとも言っている。

現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


さらにセミネールⅩⅥでは、この穴としての対象aを主体、あるいは異者と結びつけている。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968)

この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている。 ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté, (Lacan, S16, 14  Mai  1969)


さらにもうひとつ、主体は喪われた対象とも言っているが、これは享楽の対象としてのモノの定義でもある。

主体はどこにあるのか? われわれは唯一、喪われた対象としての主体を見出しうる。より厳密に言えば、喪われた対象は主体の支柱である。

Où est le sujet ? On ne peut trouver le sujet que comme objet perdu. Plus précisément cet objet perdu est le support du sujet (ラカン, De la structure en tant qu'immixtion d'un Autre préalable à tout sujet possible, ーーintervention à l'Université Johns Hopkins, Baltimore, 1966)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


これらを「仮に」額面通り受け入れれば、主体は、モノ=対象a=残滓=異者=享楽=母=固着=超自我=現実界=穴(トラウマ)=喪われた対象となる。


なお、フロイトにとって原初にあるトラウマは母なる対象の喪失であり、これがラカンが示している享楽の対象としてのモノであり、主体である。


母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

母の喪失というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)





◼️ミレールによる主体


この文脈のなかでジャック=アラン・ミレールはラカンの主体、ーー厳密な意味での斜線を引かれた主体ーーを次のように定義している。

まず1980年代にはこう言った。

超自我は斜線を引かれた主体と書きうる [le surmoi peut s'écrire $] (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

超自我の真の価値は欲動の主体である[la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. ](J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


そして1996年と2001年のセミネールでは、超自我と欲動をラカンマテームS(Ⱥ)として示した。


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]…ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne ](J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)


これを受け入れるなら$ ≡ S(Ⱥ)となる。


ところが2002年以降、$ ≡ Ⱥ ≡ a ≡ (- J) ≡ (- φ)とするようになる。



穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)

対象aは主体自体である[a ≡ $]

le petit a est le sujet lui-même( J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)

私は斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする[(- J) ≡ $]

le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $  (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 04/06/2008)

私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す[$ ≡ (- φ)  ]

j'écris S barré équivalent à moins phi :  $ ≡ (- φ)  (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)


つまり2002年以降のミレールの主体はこうである。




斜線を引かれた享楽は、ラカンが去勢として示しているマテームであり、去勢は種々あるが、リアルな水準での去勢は、乳幼児期、自己身体と区別していなかったとフロイトが想定する母の身体の喪失を意味する。


われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


ラカンの享楽は去勢喪失穴(トラウマ)なのである。


享楽は去勢である[la jouissance est la castration.] (Lacan parle à Bruxelles,  26 Février 1977)

享楽の喪失がある[il y a déperdition de jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)


ーー《去勢は享楽の喪失である[ la castration… une perte de jouissance]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)




◼️主体$はS(Ⱥ)なのか、それともȺなのか


さてここでの問いは、主体$はS(Ⱥ)なのか、それとも穴Ⱥなのか、である。ジャック=アラン・ミレールが初期のS(Ⱥ)から後にȺへ置き換えたことから、穴のシニフィアンS(Ⱥ)ではなく、穴自体のȺのほうが正しいように見える。だがこれは何よりもまずラカンの言明のバラつきによるところが大きい。

ラカンは上で見たようにセミネールⅩⅢでは超自我と関連付けて、《私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ]》(Lacan, S13, 09 Février 1966)と言い、晩年には次のように言う。


大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).](Lacan, S24, 08 Mars 1977)


したがってミレールはこう言っているのである、ーー《斜線を引かれた大他者 Ⱥ (穴)の価値を、ラカンはS(Ⱥ) というシニフィアンと等価とした[la valeur de poser l'Autre barré[Ⱥ]…que Lacan rend équivalent à un signifiant,  S(Ⱥ)  ]》  (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas 18 décembre 1996)



◼️サントームという母の名S(Ⱥ)


S(Ⱥ) は文字通り穴のシニフィアン、つまり現実界のトラウマのシニフィアンであり、現実界の症状サントームかつ母なるモノのシニフィアンである。


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

サントームは現実界・無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient ]  (Lacan, S23, 17 Février 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


つまり現実界、あるいは現実界の症状サントームは、母の名である。

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)



S(Ⱥ) =サントーム=固着(事実上母への固着)である。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要



ラカンはS(Ⱥ) を母に関連付けて語っている。

私のS(Ⱥ)、それは「大他者はない」ということである。無意識の場処としての大他者の補填を除いては。mon S(Ⱥ).   C'est parce qu'il n'y a pas d'Autre, non pas là  où il y a suppléance… à savoir l'Autre comme lieu de l'inconscient〔・・・〕


人間のすべての必要性、それは大他者の大他者があることである。これを一般的に神と呼ぶ。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  


女なるものを"La"として示すことを許容する唯一のことは、「女なるものは存在しない」ということである。女なるものを許容する唯一のことは神のように子供を身籠ることである。La seule chose qui permette de la désigner comme La…  puisque je vous ai dit que « La femme » n'ex-sistait pas, …la seule chose qui permette de supposer La femme,  c'est que - comme Dieu - elle soit pondeuse. 


唯一、分析が我々に導く進展は、"La"の神話のすべては唯一の母から生じることだ。すなわちイヴから。子供を孕む固有の女たちである。

Seulement c'est là le progrès que l'analyse nous fait  aire, c'est de nous apercevoir qu'encore que le mythe la fasse toute sortir d'une seule mère  - à savoir d'EVE - ben il n'y a que des pondeuses particulières.   (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


上に《神とは単に女なるものだ》とあるが、セミネールⅩⅦでは、こう言っている。


一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. ](ラカン, S17, 18 Février 1970)

(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


つまり論理的に超自我は母なる女S(Ⱥ)となり、ミレールの示している超自我S(Ⱥ)は純粋にラカンの発言から導き出しうる。そして先に見たように超自我はフロイトにおいて固着であるゆえ、固着S(Ⱥ)も正しい。




◼️自我とエスの境界表象S(Ⱥ)


ところでポール・バーハウはS(Ⱥ)を境界シニフィアンーー自我とエスの境界表象ーーとしつつ、原抑圧=固着としている。

境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

フロイトの原抑圧として概念化したものは何よりもまず固着である。この固着とは、何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。〔・・・〕原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


この境界表象[Grenzvorstellung ]は初期フロイトのフリース宛書簡に使われている語であり、「抑圧」概念と関連付けられているが、ここでの抑圧は間違いなく原抑圧である。

抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)


フロイトの後年の境界概念、ラカンの境界構造はまさにこの境界表象と等置しうる。

欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord. ]  (Lacan, S16, 12 Mars 1969)


つまりS(Ⱥ)は欲動のシニフィアンであると同時に原抑圧、固着、超自我を示している。

先にラカンが《対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ]》(Lacan, S10, 26 Juin 1963)としているのを見たが、この対象aがS(Ⱥ)なのである。


言わなければならない、S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré[S(Ⱥ)](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)





◼️固着S(Ⱥ)の両義性


固着は原抑圧のトラウマのシニフィアンであるが、表象と身体の両方を包含した概念である。

固着概念は、身体的要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)



このバーハウの言っていることは次のミレールと等価である。

S(Ⱥ) は表象プラス穴である[S(Ⱥ) → S plus A barré. ] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 7/06/2006)


なぜなら穴とは現実界の身体のことだから。

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


この穴の身体がフロイトのエスに置き残された異者としての身体である。

原初の現実界の出発点は「異者としての身体[Fremdkörper]」として居残って効果をもったままである。これは、身体的な何ものかがどの症状の核にも現前しているということである。より一般的なフロイト理論用語では、いわゆる欲動の根[Triebwurzel]あるいは固着点である。ラカンに従って、われわれはこの固着点のポジションに対象aを置くことができる。

the original real starting point remains effective as a “foreign body.”… the fact that something of the body is present in the kernel of every symptom. In the more general terms of his theory, this is the so-called “root” of the drive or the point of fixation . Following Lacan, we can place the object (a) in this position. (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)



固着としての穴のシニフィアンS(Ⱥ)は概念的には身体のトラウマに対する原防衛だが、固着の両義性により実際は穴埋めすることはない。


S(Ⱥ)は穴に敬意を払う。S (Ⱥ)は穴埋めするようにはならない。[« S de A barré » respecte, respecte le A barré. Il ne vient pas le combler]. (J.-A. MILLER, Illuminations profanes - 7/06/2006)




もともとフロイトの抑圧(原抑圧)の定義は、エスを自我へと翻訳することの失敗なのである。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧 Verdrängung」呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fließ, 6.12.1896)


この翻訳[Übersetzung]という語は、最晩年のモーセにも次の形で現れている。


抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben]〔・・・〕


自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)





◼️自我分裂と固着S(Ⱥ)


ここで冒頭に戻ろう。そこには自我とエスを分離するのは原抑圧あるいは超自我であることが示されている。そしてこの原抑圧と超自我は等置しうることを示した。どちらも固着S(Ⱥ)である。そしてたった今示したように固着は表象と身体Ⱥーー境界表象と異者としての身体ーーの両方を含んだ概念である。

したがってラカンマテームを使えば、次のようにおける。




この固着の両義性を視野に入れれば、ラカンの主体$はS(Ⱥ)でもȺでもどちらとも書ける。つまり$ ≡ S(Ⱥ)であり、$ ≡ Ⱥでもある。この自我分裂に関わる超自我S(Ⱥ)、もしくは固着によってエスに置き残された異者としての身体のエスȺがラカンの斜線を引かれた主体の原点にある内実であるだろう。



ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.]  (Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)



◼️原主体は不気味な異者である


なおラカニアンが主体というとき、大きく二つあることに注意しなければならない。

主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)



享楽の主体は欲動の主体、シニフィアンの主体は事実上、欲望の主体である。

享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぼう[nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »]〔・・・〕この享楽の主体はシニフィアン化によってによって欲望の主体としての基礎を構築する[« le sujet de la jouissance »…la significantisation qui vient à se trouver constituer le fondement comme tel du « sujet désirant » ](ラカン, S10, 13 Mars 1963)


先ほど$をȺ、あるいはS(Ⱥ)としたときの主体は、もちろん享楽の主体(欲動の主体)を示している。欲望の主体とはこの享楽の主体に対する防衛である。


欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.]( Lacan, E825, 1960)



晩年のラカンはこの享楽の主体に相当するものを話す身体[corps parlant]、あるいは話す存在[parlêtre]と言ったが[参照]、これはフロイトの異者としての身体(欲動の身体)と等価である。



ラカンは「話す身体」の概念を「話す存在」に結びつけた[D'où le concept de corps parlant que Lacan associe au parlêtre.](ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault , Le parlêtre et son sinthome , 2016)

身体なき享楽はない。私は提案するが、話す存在概念は欲動の原無意識と等価の場に置かれる[il n'y a pas de jouissance sans corps. Le concept de parlêtre – c'est ce que je propose – repose sur l'équivalence originaire inconscient – pulsion. ]〔・・・〕

現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)


「話す身体=話す存在=無意識の欲動」であり、これは厳密にフロイトの「エスの欲動蠢動=異者としての身体」と等価である。再掲しよう、ーー《エスの欲動蠢動[Triebregung des Es]は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる》(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)、そして《異者としての身体は原無意識(本来の無意識)としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)である。


この意味で、原主体は異者としての身体である。



ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると[Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet](J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



フロイトは次のようにも書いている。


疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象である。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察される。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかである。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)


この異者をフロイトは不気味なものともした。

不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


以上。