2022年11月21日月曜日

超自我は異者としての身体

 

①超自我はラカンの現実界の穴(トラウマ)であり、フロイトの定義において固着である。

私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)




②原抑圧も同じく現実界の穴(欲動の身体)であり、フロイトの定義における固着である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975、摘要)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


以上、①②より、超自我と原抑圧は同じものであり、固着である。

超自我と原抑圧の一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.]  (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)




③ラカンの現実界はトラウマであり、レミニサンスする。

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)


これはフロイトにおける固着に伴う異者としての身体のレミニサンスの言い換えである。


固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)



④したがってラカンの現実界はフロイトの固着を通した異者としての身体である。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


この異者としての身体の別名はエスの欲動蠢動である。

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


①②③も含めて確認すれば、超自我=原抑圧=固着であり、これにに伴っての異者身体のレミニサンス(エスの欲動蠢動)があり、超自我は事実上、この異者としての身体である


ジャック=アラン・ミレールが次のように言っているのは事実上、この意味である。


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


ラカンは主体と異者を事実上、等置しており、欲動の主体とは欲動の異者身体としうる。これが超自我である。


異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている[ ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté] (Lacan, S16, 14  Mai  1969)



ここでの話題は、この超自我=異者としての身体[Überich=Fremdkörper]のつもりだったのだが、以下、補足として続ける。


⑤フロイトにおいてエスの欲動蠢動の別の言い方は無意識のエス反復強迫である。

欲動蠢動は自動反復の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして(原)抑圧においての固着の契機は無意識のエスの反復強迫である[Triebregung  … vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –…Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


さらにこの反復強迫の別名が死の欲動である。

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


例えばジャック=アラン・ミレールなどが超自我と死の欲動を等置しているのはこういった経緯がある。

死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ... c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)

タナトスとは超自我の別の名である[Thanatos, which is another name for the superego] (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one, 2016)




⑥究極の異者としての身体は喪われた母の身体である。

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,] (Lacan, S7, 20  Janvier  1960 )

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


この喪われた母の身体はまずフロイトの次の文に相当する。

母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


つまり死の欲動の原像は、喪われた子宮内生活を取り戻そうとする欲動である。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)


フロイトの分析眼によれば、自我は決してそんなことを思わないとしても、エスの意志はそうしたいのである。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志[Willen des Es] を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。

Ichs … Es gleicht so im Verhältnis zum Es dem Reiter, der die überlegene Kraft des Pferdes zügeln soll, mit dem Unterschied, daß der Reiter dies mit eigenen Kräften versucht, das Ich mit geborgten. Dieses Gleichnis trägt ein Stück weiter. Wie dem Reiter, will er sich nicht vom Pferd trennen, oft nichts anderes übrigbleibt, als es dahin zu führen, wohin es gehen will, so pflegt auch das Ich den Willen des Es in Handlung umzusetzen, als ob es der eigene wäre. (フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


……………


さて途中で付け加えのをやめた文がある。「超自我=異者身体」とした箇所で思い止まったのである。だが、やはり最後に示しておこう。

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


この「女性器は超自我」とは通念としてはいかにも奇妙である・・・とはいえ、どうしてもそうなってしまう。ここではいくらか穏やかに、「超自我の原像は女性器」としておく。



なおセミネールⅩ時点でのラカンは、女性器ではなく子宮内の胎児が異者としての身体としている。

子供はもともと母、母の身体に生きていた [l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère]。…子供は、母の身体に関して、異者としての身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である[il est,  par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses   de son chorion dans …l'utérus](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


これはフロイトの異者の定義の両義性に依拠すれば奇妙ではない。

疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)