「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」、さらには仏語で「ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン - 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください」 |
8年ほど前、当時カナダ在住の比較文学者太田雄三氏の『喪失からの出発 神谷美恵子のこと』(岩波書店 2001年)からの引用としてネット上でこの文を拾ったのだが、引用元の「神谷美恵子の青春」が消えているな。 |
次の文も同じそこからだが。 |
こんな女。母性型と妖婦型を持ち合せ、前者を聖にまでひきあげて見せる事によって人を次々と惹きつけて行く。そして自他共に苦ませる。しかし、結局一人づつとりあげては捨てて行く。迷惑なのはその「他」共。 私の内なる妖婦(ヴァンプ)を分析したら面白いだろうと思う。それは随分いろんなことを説明するだろう。みんなを化かす私の能力、みんなを陶酔させ、私を女神のようにかつがしめるあの妖しい魔力にどれほどエロスの力があずかっているかしれない。それを思うとげっそりする。 |
しかし一面私はたしかに自分のそうした力をエンジョイしている。あらゆる人間を征服しようとする気持ちがある。征服してもてあそぶのだ。 私の心は今ひくくひくくされている。私は才能と少しばかりの容姿-少なくとも母はこの点を常に強調する-の為に人から甘やかされ、損なわれた女だ。心は傲慢でわがままで冷酷である。そうして男をもてあそんでは投げ棄てる事ばかりくりかえしている。 自分の才能と容姿がのろわしい。平凡な心貧しき女であり度かった。(神谷美恵子、非公開の手記) |
これを読んだときは、さすがだな、こういった「自己分析」ができる神谷美恵子さんは、と感じたものだが、いまならもっと大きく「女なるものの分析」と言ってもいいぐらいだ[参照]。
次のようには間違いなくあるようだ(葛井義憲「神の器としての神谷美恵子」PDF)。 |
彼女の「日記」 (1943年9月)に「altruistisch [利己的]なところも、 ästhetisch [美学的]なところも、hedonistisch [悦楽的]なところも、みな自分の、人間の、ありのままの姿ではないか」(『若き日の日記』、1984年、119頁) |
あるいは、 |
「夜八時、工場できょうは大分疲れをおぼえた。(中略)バッハのフーガとプレリュードで心が澄んだ。十年前に―否、更に根源的には、父母の染色体がお前という生命に配合された瞬間にお前の運命は定まったのだ。必要以上に女っぽい体と心情の中に置かれた飽くことなき知的欲望、荒々しく烈しい熱情、そして本質的なものにしか惹かれない心―女として何という「怪物」だろう。 「宇宙観」だの「矛盾」だの「使命感」だの、そうしたものに悩み続けねばならぬとは!」 |
いま見たら、「野村胡堂・あらえびすの家族と神谷美恵子」(箱石匡行 2004年、PDF)にも神谷美恵子さんの日記の引用があるので、いくつか抜き出しておこう。 |
1944年1月2日(日) 昨日言ったような行動と血と涙をきょう読み終えた宮沢賢治に於て見出す。日本にかかる入物の生まれし事のうれしさ、ほこらしさ力強さ。しかも何と日本人らしい歩み方であろう。 『世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』 『世界に対する大いなる希願をまず起せ』 『つよくただしく生活せよ、苦難を避けず直進せよ』 『いまやわれらは新たにただしき道を行き、われらの美をば創らねばならぬ』 以上のような言葉をよみ、宮沢賢治の生活の跡を辿って自分のインチキさ、不徹底さを耐え難いほど恥ずかしく感じた。何とかして自分のインチキ性と徹底的に戦い、『苦難を避けずに直進』出来るよう今年は努力しよう。殊に今年は卒業して、その後の道を決定せねばならないのだから重要だ。 そして宮沢先生の言うとおり、自分の精力の一滴たりとおろそかに費やさぬこと。 |
1944年6月6日(火) ゆうべ床の中で『宮沢賢治素描』を読んであの人の独身をいいなと思った。人類愛と学問と芸術とに一切の力を昇華しつくしてしまおうとするゆき方は、それがあまりひどい無理や破綻や浪費なしになされ得るものならば、そうして、そうした方面で、その人間の与えられている天賦が並々ならぬものであるならば、理想的な道の一つなのかも知れぬ。彼がGeschlec[h]tstrieb[性欲]を克服するために一晩中牧場を歩きまわって来た時の態度や言葉に、一つの透徹した信念とそれに基く問題の解決を見る心地がする。彼はG・[性]の事についても広く読み深く考えたという。正々堂々とこの間題に取組んで、自らの態度を決したのだ。そうして人間として何等奇形に陥ることなく、自分のあらゆる力を使命にそそぎつくす道を歩み得たのだ。 私にもこの道を歩むことが許されたら!と思う。 |
1945年12月2日(日) 頭を剃って尼になったクリステャンがあるそうだが私もそんな事がしたい。蓮月はそのようにして言いよる男たちを斥けたと言う。私にもそれだけの強さがなくては駄目だ。宮沢賢治の女難に対する態度を学べ。皆それ相応の苦心をしているではないか。『軛』を運命と考えるか、恩恵と考えるか、自己の分不相応な理想と考えるか、あるいはたたかいとるべき課題と考えるか、その時の気分によってさまざまである。しかし結局は、自己の使命という積極的な方面から割出されねばならぬ事であろう。少なくとも今まで自らえらびとった道と、その当然の-覚悟の上である筈の結果について呟くべきではない。ただ恐ろしいのは知らず知らず人を誘惑してしまう私という人間の、構成である。男性に対するわなたる自分である。こればかりはどうしたらよいのか分らない。ただみ前にひれ伏して御許しを御導きを祈るばかりである。 |
1946年5月30日(木) 私はこれ以上独りであるべき入間でないこと、Nとの結婚は全く大きな恩恵である事をはっきり見定めることが出来た。彼との結婚はchaos[混沌]なる私に秩序と統一とを与えてくれるだろう。それが私に一ばん必要な事だ。生命力の氾濫する私には制約が要る。 |
なお神谷美恵子さんは次のような方でもあった。 |
神谷と美智子妃との関係については宮原によるルポ「神谷美恵子 聖なる声」があり、その内容は夫の神谷宣郎や皇室関係者の証言によって裏付けられている。神谷は1965年から1972年にかけて、美智子皇太子妃の相談役、話し相手として東宮御所に通っていた。この時期の美智子妃は宮中聖書事件に関する報道、胞状奇胎による男児流産などで精神的窮地にあり、神谷の兄・前田陽一が当時の皇太子にフランス語を教えていた縁で、神谷が相談相手に選ばれた。しかし精神科医が皇太子妃のもとへ通うことは誤解を招くとして、一連の会見は長年伏せられてきたという。神谷が東宮御所に通っていた時期は、精神科医として長島愛生院に通った時期とも重なっている。 |
(井濱葉月「病いと聖化の近代 : 神谷美恵子をめぐって」2010年、PDF) |
※参照:「中井久夫による神谷美恵子」
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いま「引き出し」を探ってみると、冒頭に掲げた太田雄三『喪失からの出発 神谷美恵子のこと』(岩波書店 2001年)からの引用文がある無署名のエッセイ「神谷美恵子の青春」のPDFが残っていたので該当箇所を画像で貼付しておく。