2022年11月16日水曜日

性別化の式のデフレと女性の享楽の一般化

 以下、性別化の式のデフレと女性の享楽の一般化の簡単なまとめ


◼️性別化の式のデフレ

性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。[Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. ]〔・・・〕

性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。[les formules de la sexuation…C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après] (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)


まずふたつだけ注釈を入れる。


①《身体とララングとのあいだの最初期の衝撃》とあるが、最も簡単に言えば、《母なるララングのトラウマ的効果[L'effet traumatique de lalangue maternelle]》(Martine Menès, Ce qui nous affecte, 15 octobre 2011)のことである[参照]。


ララングとは事実上、母の言葉である、ーー《ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins》(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


②法なき現実界は、セミネールⅩⅩⅢにある。


私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.  Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)



ーー《ラカンの「現実界は無法」(法なき現実界)の形式は、まさに正しくS(Ⱥ)と翻訳しうる。無法とは、Ⱥである。la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré. 》(J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/2005)


なおラカンはセミネールⅩⅩの段階ではこのS(Ⱥ)を女性の享楽として示したーー《S(Ⱥ) にて示しているものは「斜線を引かれた女性の享楽」に他ならない[S(Ⱥ) je n'en désigne  rien d'autre que la jouissance de L Femme]》(Lacan, S20, 13 Mars 1973)



…………………


さて、上の2012年における会議でのミレールの発言のベースは2011年のセミネールにある。

◼️女性の享楽の一般化

確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。

だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕

ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



ミレールのいう上の二つ、数学的論理による性別化の式のデフレ(二次的なものへの移行)、女性の享楽の一般化(両性にある享楽自体)とは、性別化の式にあるファルス関数に基づく吟味の二次化、かつ男性側の主体$→フェティッシュ(a)の一択ではなく、身体の享楽S(Ⱥ)にも向かうということである(女性側の二択L → Φ 、L→ S(Ⱥ) の変更はない)。




性別化の式に囚われずに男女両性の二択を示せば次のようになる。



もちろんLⱥ自体、斜線を引かれた主体なので、[L ◊ Φ]ではなく[$ ◊ Φ]と記してもよい。

すなわち次のようになる。


(a)と Φは、男女それぞれの仕方でのリアルな享楽S(Ⱥ)に対する防衛である。


男はフェティッシュの対象a[petit a fétiche]、女はファルス享楽、すなわちパロール享楽にての防衛である。

ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で[jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. ](J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)




ミレールは、女性のパロール享楽は事実上、被愛妄想的享楽としている。

ラカンの命題においてパロール享楽は明瞭にシニフィアン自体のなかにある。このパロール享楽が特に補填的女性の享楽である。厳密にこの女性の享楽は被愛妄想的享楽である、その対象が話すことを要求するという意味で。[La thèse de Lacan, c'est que la jouissance de la parole, qui est évidemment là dans le signifiant comme tel, est spécialement cette jouissance féminine supplémentaire. C'est exactement la jouissance érotomaniaque, au sens où c'est une jouissance qui nécessite que son objet parle.  ](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


これは、1960年のラカンと性別化の式を結びつける試みである。

対象に対して男女の性の位置が異なるとすれば、それは男のフェティッシュ形式と女の被愛妄想形式の愛を隔てる距離のすべてである。Si la position du sexe diffèr e quant à l'objet, c'est de toute la distance qui sépare la forme fétichiste de la forme érotomaniaque de l'amour. (ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドライン Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)




③ さて先のミレール2011年セミネールでの「享楽自体=非エディプス的享楽=身体の出来事に還元される享楽」をめぐるラカン自身の発言は次のものである。


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! [« qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975)

症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


つまり症状としてのひとりの女は身体の出来事である。


この症状は現実界の症状サントームのことである(ラカンは1975年11月に初めてサントーム概念を提出した)。


サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient]   (Lacan, S23, 17 Février 1976)



したがって1976年2月には次のようにいう。

ひとりの女はサントームである [une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976)


すなわち、ひとりの女としてサントームは身体の出来事である。

サントームは身体の出来事として定義される [Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)


ラカンにおいて享楽は現実界である。

享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)


したがってミレールは次のように言う。


サントームという享楽自体 [la jouissance propre du sinthome ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)

純粋な身体の出来事としての女性の享楽 [la jouissance féminine qui est un pur événement de corps ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2 mars 2011)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


つまりセミネールⅩⅩアンコール以後のラカンにおいて、女性の享楽は男女両性にある身体の出来事に還元されたということである。


もう少し補足すれば、サントームとしての享楽自体は、フロイトのトラウマへの固着と反復強迫のことである。

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)


フロイトからも直接引こう。

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]

この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


フロイトは上で、トラウマへの固着と言っているが、或る強度を超えた身体の出来事は固着が起こる。トラウマは固着自体である(フロイト自身、例えば「原トラウマ=原固着」(1937)としているときもある)。


したがってひとりの女としてのサントームは固着の反復である。

サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


これが現代主流ラカン派の現在時点での公式見解である。


固着の反復は、別の言い方をすればトラウマへの固着の反復、あるいは身体の出来事への固着の反復である。より簡潔にいえばトラウマの反復である。これが両性にある享楽自体としての女性の享楽である。




④ひとりの女とは?


最後に「ひとりの女は身体の出来事」をより具体的に示そう。


ラカンはフロイトのモノは現実界と言っており、サントームも上に示したように現実界である。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient]   (Lacan, S23, 17 Février 1976)



したがってミレールはこう言っている。

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)


サントームはモノの名とは、サントームは母の名ということであるだろう。

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


より厳密にいえば、喪われた母なる対象の名である。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


この母なるモノはフロイトの次の文に相当する。

母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

母の喪失というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


したがって、おそらくひとりの女はトラウマ的母の喪失の名と言いうる。もっともラカン注釈者でここまで「直接に」言っている人物に出会ったことがないので、あくまで私の想定であるが(とはいえジャック=アラン・ミレールは先に示したように、「サントームはモノの名」としているわけで、ほとんどそう言っていると捉えうる)。


以上