2023年8月11日金曜日

男女両性における「女なるものの排除」

 


女なるものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとってと同じように[La Femme dans son essence,  …elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme](Lacan, S16, 12 Mars 1969)


ラカンは上で「抑圧」と言っているが、同じセミネール16の2ヶ月後に「排除」と言い換えている。


私が排除[forclusion]について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから[Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,…tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. ](Lacan, S16, 14 Mai 1969)


ーーつまり冒頭の文は、男女両性にとっての女なるものの排除を言っている。


ここで象徴界、現実界、排除の三つの用語について確認しよう。


まず象徴界と現実界ーー、

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


ーーこの「象徴界/現実界」区分においては、想像界は象徴界に含まれる、《想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique]》(Lacan, S2, 29 Juin 1955)


そして排除は原抑圧である。

原抑圧の名は排除と呼ばれる。女なるものの排除である[le nom du refoulement primordial…s'appelle la forclusion, la forclusion de la femme](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 26 novembre 2008、摘要)

原抑圧は「現実界のなかに女なるものを置き残すこと」として理解されうる[Primary repression can …be understood as the leaving behind of The Woman in the Real.](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)



「置き残し」は「排除」と等価である。


ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。

The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)



固着とあるが、フロイトは固着と原抑圧を等置している。つまり原抑圧=固着=排除であり、この意味は欲動をエスへ置き残すことである。






ところで、フロイトにおいてリアルな欲動はマゾヒズム的なものであり、これが先に示したラカンの現実界の享楽である。


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)



このマゾヒズムが女性性=受動性である。

マゾヒズム的とはその根において、女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


人はみな初期幼児期に母に対して受動的な立場に置かれる。

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)


これは、ラカンの言い方なら次の通り。

(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


繰り返せば、《享楽はその本質においてマゾヒズム的である [La jouissance est masochiste dans son fond ]》(Lacan, S16, 15  Janvier  1969)



この母なる女が与える「享楽=マゾヒズム=受動性=女性性」が、原抑圧された欲動を意味する。


ポール・バーハウは《受動性は女性性を意味する[passivity means femininity]》(PAUL VERHAEGHE,  DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)としているが、原抑圧とはこの受動性の排除であり、これが男にとっても女にとっても排除されている女なるものなのである。


ここで最初期と最晩年フロイトの二文を並べてみよう。


本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと思われる[Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist ](フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

受動的立場あるいは女性的立場に対する反抗[das Sträuben gegen seine passive oder feminine Einstellung]〔・・・〕私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている[ich meine, »Ablehnung der Weiblichkeit«wäre vom Anfang an die richtige Beschreibung dieses so merkwürdigen Stückes des menschlichen Seelenlebens gewesen. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)


つまり、女性性の拒否 [Ablehnung der Weiblichkeit]=受動性の拒否[ Ablehnung der Passivität]であり、本源的に抑圧されているもの(原抑圧)はこの女性的受動性である。


フロイトは1905年『性理論』注でも、生物学的意味とは異なった心理学的意味で、女性性[Weiblichkeit]/男性性[Männlichkeit ]を受動性[Passivität]/能動性[Aktivität ]としている。


他方、能動性とはサディズムを意味する。


最初期の口唇期[die erste orale Phase]。この第一段階では、問題になっているのは口唇的な取り入れ[orale Einverleibung]だけで、母の乳房の対象[Objekt der Mutterbrust]との関係には両価性はまったくない。噛みつき行為の出現によって特徴づけられる第二段階は、口唇サディスティック[oralsadistische]と表現することができる。この段階で初めて両価性の現象が現れ、その後、次のサディスティック肛門期[sadistisch-analen Phase]において非常に明確になる。〔・・・〕ここで、リビドー固着、気質、退行[Libidofixierung, Disposition und Regression]のあいだの関連について学んだことを思い起こす必要がある。(フロイト『新精神分析入門』第32講、1933年)



つまりはこうである。




さらに次のようにもある。

無意識的なリビドーの固着は…性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年)


以上、マゾヒズム的固着のエスへの置き残し、これが原抑圧された女性性=受動性であり、原抑圧されているリアルな欲動である。ラカンの男女両性にとっての「女なるものの排除」はこういう形で把握できる。