反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
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ーーこのラカンのセミネール17の発言は、フロイトの『快原理の彼岸』の次の記述に依拠している。 |
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以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要) |
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つまり、欲動の回帰[Wiederherstellen der Triebe]=反復[Wiederholungs]である。 厳密に言えば、この欲動は「抑圧された欲動」であり、欲動の回帰とは「抑圧された欲動の回帰[Wiederkehr der verdrängten Triebe]としうる。 |
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抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。 |
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Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer) (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
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ここでジャック=アラン・ミレールの注釈を掲げて確認しておこう。 |
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フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない。それは自らを主張する。 ce que Freud pose quand il aperçoit que la motion de la pulsion échappe à toute influence, que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. Comme il s'exprime :〔・・・〕 これは「抑圧されたものの回帰」のスキーマと対になっている。それは症状の形態の下での「享楽の回帰」である。C'est symétrique du schéma du retour du refoulé, … il y a retour de jouissance, sous la forme du symptôme. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97) |
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欲動的享楽との関係における抑圧されたものの回帰[le retour du refoulé dans le rapport à la jouissance pulsionnelle](J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 3/02/99) |
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ミレールは「享楽の回帰」と「抑圧されたものの回帰」を事実上等置しているが、これは文脈上ーー享楽の抑圧・欲動の抑圧[le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion]とあるようにーー「抑圧された欲動の回帰」である。つまり享楽の回帰は「抑圧された享楽の回帰」である。 |
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ラカンは、享楽の抑圧[le refoulement de la jouissance]という表現は、私の知る限り、直接的には一度も使っていない。だが次のようには言っている。 |
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欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance]( Lacan, E825、1960) |
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この防衛は抑圧を意味する。 |
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私は(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)防衛過程[Abwehrvorganges]概念のかわりに、後年、抑圧[Verdrängung]概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの防衛[Abwehr]という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。 Ich meine den des Abwehrvorganges [Fußnote]Siehe: ›Die Abwehr-Neuropsychosen«.. Ich ersetzte ihn in der Folge durch den der Verdrängung, das Verhältnis zwischen beiden blieb aber unbestimmt. Ich meine nun, es bringt einen sicheren Vorteil, auf den alten Begriff der Abwehr zurückzugreifen, (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年) |
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したがって、先のラカン文は、「欲望は享楽の抑圧[le désir est le refoulement de la jouissance]」と言い換えることができる。ラカンにおける欲望は言語に結びついており[参照]、言語を使用する主体はみな欲望の主体である。つまり人はみな欲動的享楽を抑圧している。しかしながら人には欲動の身体的要求の回帰がある。
…………… なお、主に『制止、症状、不安』のフロイトに依拠すれば、欲動は次の語彙群に相当し、これらが抑圧されたものである。
ラカンにおいての享楽は次の通り。
以上を図示しておこう。 こうして見れば、何が抑圧(防衛)されているのか、つまり何が回帰するのかがよく分かる筈である。
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※補足➡︎「抑圧された欲動文献」