プルーストは異者[ l'étranger]という語を次のように使っている。 |
◼️異者はかつての少年の私だった[l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors] |
私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。(…)最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。 |
je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie) La Bibliothèque électronique du Québec, p40) |
◼️自分自身の不在という異者 |
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私はといえばーー長くはつづかない特権、旅から帰った短い瞬間に自分自身の不在 [notre propre absence]を突然まのあたりに見る能力をさずかるあの特権によってーー帽子をかぶり、旅行用のコートを着た、証人で目撃者、この家の者ではない外来の客(異者)、二度と見られない場所をフィルムにとりにきた写真師、といった要素しか残していない人間のようであった[l'étranger qui n'est pas de la maison, le photographe qui vient prendre un cliché des lieux qu'on ne reverra plus]。(プルースト「ゲルマントのほうへ」) |
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ーーこの文の前後は「写真師という異者(プルースト)」にある。 |
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ここでプルースト の『失われた時を求めて』の核心的章のひとつ「心の間歇 intermittence du cœur」から次の文を抜き出す。 |
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◼️自我でありながら自我以上のもの |
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自我でありながら自我以上のもの[moi et plus que moi ](内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器[le contenant qui est plus que le contenu et me l'apportait])(プルースト『ソドムとゴモラ』「心の間歇 intermittence du cœur」1921年) |
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この《自我でありながら自我以上のもの[moi et plus que moi ]》自体、「心の間歇文献」で示してあるが、フロイトラカン的観点からは「異者」である。ここではそこで提示した相とはいくらか異なったーーよりわかりやすいだろう用語を使ってそれを示す。
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◼️異者(異物)の外傷性フラッシュバック |
一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
◼️解離=排除された異者のフラッシュバック |
遅発性の外傷性障害がある。(……)これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』) |
「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年) |
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne, 3 JUIN 1987) |
「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011) |
享楽は穴を為す現実界に外立する。C'est au Réel comme faisant trou, que la jouissance ex-siste. (Lacan, S22, 17 Décembre 1974) |
◼️異者のレミニサンス |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こす。ヒステリー はほとんどの場合、レミニサンスに苦しむのである。 das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […] der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年) |
ーーフロイトはヒステリー研究から始めたので上のように言っているが、異者のレミニサンスは、事実上、言語を使用する主体すべてにある。 |
ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」) |
私は完全なヒステリーだ。つまり症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme(Lacan, S24, 14 Décembre 1976) |
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私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。…これを「強制 forçage」呼ぼう。…これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンス réminiscenceと呼ばれるものによって。 Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. […] Disons que c'est un forçage. […] c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
◼️常に同じ場処に回帰する異者 |
現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place » (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |
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ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年) |
異者とは固着の残滓である。 |
享楽は、残滓 (а) による。la jouissance[…]par ce reste : (а) (ラカン, S10, 13 Mars 1963) |
異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste, (Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
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常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
固着の残滓としての異者としての身体Fremdkörperは、次のポジションに位置づけられる。 ーー《原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, 》(フロイト『抑圧』1915年) |
精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合としての症状である。〔・・・〕現実界の到来は文字固着を通して起こる。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance;[…] L' avènement de réel se fait par sa lettre-fixion〔・・・〕 現実界のすべての定義は次の通り。常に同じ場処かつ象徴界外に現れるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため--であり、反復的でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なきものである。Toutes les définitions du réel s'y appliquent : toujours à la même place, hors symbolique, car identique à elle-même ; réitérable mais sans rapport de chaîne à d'autre Sa, (Colette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
享楽はまさに固着にある。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
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私は、一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. 〔・・・〕 フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
最後にニーチェの異者を掲げておこう。長らく異郷にあった自我の回帰である。 |
偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。 Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre! つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。 Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年) |