2021年2月21日日曜日

症状とサントーム

欠如と穴(外立)」から引き続く


◼️欲望から欲動(享楽)へ

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如と存在の欲望[sur le manque à être et sur le désir d'être]を基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 [reconnaissance]の解釈を指示した。〔・・・〕しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因[non sur le désir mais sur la cause du désir]を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在するものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在するのか。それはフロイトが欲動と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである[c'est ce que Freud a abordé par les pulsions et à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.] …

ラカンの教えにおいて…欲望のデフレ[une déflation du désir]があるのである。(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


◼️存在欠如からサントームへ

主体は、存在欠如である以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。le sujet a un corps avant d'être manque à être et il n'en a qu'un moyennant quoi ce corps a été percuté par lalangue et l'analyse consistera à épurer le sens phallique pour revenir à ce trou, ce manque, qui n'est pas manque d'être mais sinthome (Pierre-Gilles Guéguen, LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 、2016)


サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる。le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008ーーララング文献集

サントームという享楽自体[la jouissance propre du sinthome ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011)


◼️サントーム=固着

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation] (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 23/03-30/03/2011, 摘要

享楽の一者の純粋な反復をラカンはサントームと呼んだ。la pure réitération de l'Un de jouissance que Lacan appelle sinthome, (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 30/03/2011)

私は、一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. 〔・・・〕フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


ーー《現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »》  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )


◼️欲望の可動性/享楽の非可動性

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)




◼️症状とサントーム(原症状)




症状はサントームの形式的封筒である。le symptôme est l'enveloppe formelle du sinthome    (Patricio Alvarez, Escabeau, 2016)


サントームの身体の出来事(リビドーの固着)は、還元できない症状の残滓を導入する。この残滓は隠喩の核に活動しており、消し去ることが不可能な身体の現前の徴である。この不可能なものが症状のリアルな相である。L'événement de corps du sinthome introduit le reste symptomatique irréductible, qui est actif au cœur de la métaphore, et qui signe la présence corporelle impossible à effacer. Cet impossible indexe la dimension réelle du symptôme.  (Jean-Louis Gault , Le parlêtre et son sinthome , 2016)




◼️形式的封筒=心的外被

フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「心的なもの」である(現勢神経症と精神神経症  Aktualneurose / Psychoneurose)。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。〔・・・〕「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、『性理論三篇』にて、リビドーの固着[Fixierung der Libido]と呼ばれるようになったものである。〔・・・〕


この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、《真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 》である。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)


ここで、咳や嗄れ声[Husten und Heiserkeit]の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。地階[Zuunterst in der Schichtung ]には器官的な誘引としてのリアルな咳の条件[realer, organisch bedingter Hustenreiz]があることが推定され、それは、真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒[Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet ]のようなものである。


この刺激は固着しうる [Reiz ist fixierbar]が、それはその刺激がある身体領域[Körperregion]と関係するからであり、ドラの場合、その身体領域が性感帯[erogenen Zone ]としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドー [erregten Libido]を表現するのに適しており、咳や嗄れ声はおそらく、最初の心的外被[psychische Umkleidung]である。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片 Bruchstück einer Hysterie-Analyse(症例ドラ)』1905年)






以下、続く、➡︎「境界表象と異者という残滓