【享楽の対象としてのモノ】
享楽の対象としてのモノは、大他者かつ喪われた対象である。
|
享楽の対象は何か?[Objet de jouissance de qui ? ]…大他者の享楽? 確かに![« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]…(享楽の対象は)フロイトのモノ La Chose(das Ding)であり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970、摘要)
|
ーーここでの大他者とは身体のことである。
|
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
|
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
|
そして喪われた対象の「喪われた」とは「去勢された」という意味である。
|
享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
|
去勢の原点は、幼児が自己身体だとみなしていた身体の部分が分離されることである。この自己身体だとみなしていた身体の主要なものは、母の身体である。
|
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
|
セミネール7のラカン は、喪われた対象=去勢された対象としてのモノを母だと言っている。
|
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
|
だが、このモノとしての母とは、厳密には「モノとしての母の身体」である。
|
ラカンは「母はモノである」と言った。母はモノのトポロジー的場に来る。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的身体をモノの場に置いた処である。« la mère c'est das Ding » ça vient à la place topologique de das Ding, où il peut dire que finalement Mélanie Klein a mis à la place de das Ding le corps mythique de la mère. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme - 28/1/98)
|
|
|
このモノは、対象aーー喪われた対象という意味での対象aーーでもある。
|
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
|
対象a は外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
|
私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
|
そして去勢された母の身体は、異者としての身体とも呼ばれる。
|
モノとしての外密 extimitéは、異者としての身体のモデルmodèle corps étrangerである。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
|
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
|
【モノ=去勢=異者】
ここでまず、上に記してきた内容をジャック=アラン・ミレール の簡潔な注釈にて確認しておこう。
|
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
|
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
|
モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
|
モノ=去勢=異者である。
異者 Fremdeは、フロイトにおいて、たとえば次のような形で現れる。
|
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)
欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。
それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者 fremd のようなものに思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
|
ーー固着によって異者が生じるとあるが、この固着が去勢の代表的な形態のひとつである。
フロイトにおける固着ーー厳密には「リビドーの固着 Fixierung der Libido」「欲動の固着 Fixierung des Triebes」ーーは、身体的なものが心的なものに翻訳されずエスのなかに置き残されるという意味である。
|
リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残すzurückgelassenのである。…
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を居残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 」1916年)
|
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
|
幼児期の固着の主要なものは、母への固着である。これは男にとっても女にとっても同じである。
|
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
|
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
|
この固着は、ラカン派ではしばしば「享楽の固着」と呼ばれる。
|
フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
|
【無意識のエスの反復強迫としてのモノ】
さて享楽の対象としてのモノ=異者に話を戻そう。
まず「享楽の対象」=「リビドーの対象」であることを確認しておく。
|
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
|
そしてモノが享楽、あるいは享楽の対象である。
|
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
|
ーーここにあるモノ=欲動の無意識が、《たえず刺激や反応現象を起こしている異者身体 Fremdkörperとしての症状》である。
|
自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異者身体としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
|
異者身体の症状は、別の言い方をすれば、固着を通した《無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es》 である。
|
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
|
|
………………
|
【享楽=自体性愛=自己身体の享楽=異者身体の享楽】
さて「モノという異者」についての話おおむねここまででよいのだが、以下はフロイト用語ラカン用語の関係を鮮明化しつつ確認しておく。
|
ラカンの享楽とはフロイトの自体性愛である。
|
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
|
自体性愛の起源は、永遠に喪われている対象ーーすなわち「モノという異者」ーーーの周りを循環運動することである。
|
われわれは口唇欲動 pulsion oraleの満足と純粋な自体性愛 autoérotisme…を区別しなければならない。自体性愛の対象は実際は、空洞 creux・空虚 videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
|
フロイトの「自体性愛 Autoerotismus」は、ラカン派では「自己身体の享楽 la jouissance du corps propre」とも言い換えられるが、これが享楽自体である。
|
享楽における場のエロス[ l'érotique de l'espace dans la jouissance]。この場を通してラカンは、彼がモノ[la Chose]と呼ぶものに接近し位置付けた。私が外密[extimité]を強調したとき、モノの固有な空間的場[la position spatiale particulière de la Chose]を描写した。モノとは場のエロス[l'érotique de l'espace]に属する用語である。…
疑いもなくこのモノは、ナルシシズムと呼ばれるものの深淵な真理である。享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この 去勢が自己身体の享楽の徴である。[C'est sans doute la vérité profonde de ce que nous appelons le narcissisme. La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. ]
この享楽の対象は、禁じられ外密のポジションにある。すなわち内的かつ手に入らないものである。ラカンはこの外密をモノの名として示した。[Cet objet de la jouissance comme interdit, comme occupant une position extime, c'est-à-dire à la fois interne et inaccessible, c'est ce que Lacan a désigné du nom de la Chose](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)
|
上でジャック=アラン・ミレール は《去勢が自己身体の享楽の徴 la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre》としているが、この去勢によって喪われた身体ーー先に引用したフロイトが示しているように、幼児が当初は「自己身体の部分 Körperteils」とみなしていたが「母からの分離 Trennung von der Mutter」により「喪失Verlust」してしまった身体ーーが「異物=異者身体 Fremdkörper」である。
ラカンはこの異者身体を「ヘテロ hétéro」とも表現している。
|
フロイトは、幼児が自己身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…が、自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro.
…ヘテロhétéro、すなわち「異物的(異者的 étrangère)」である。
(LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)
|
したがって自体性愛=自己身体の享楽とは、実際は、「モノという異者身体の享楽」なのである。先に引用したフロイトの『抑圧』論文の《暗闇に蔓延る異者 wuchert dann sozusagen im Dunkeln … fremd》という表現を使えば、享楽自体は「暗闇に蔓延る母なる異者身体の享楽」とも表現できる。
|
ここでもミレール にて確認しておこう。
|
自己身体の享楽はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté.](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)
|
【モノ=去勢=穴=喪われた対象=享楽の対象】
ところでモノは「斜線を引かれた大他者=穴 Autre barré」とも表現される。
|
モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
|
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はないということである。大他者の大他者はないのだから。これが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (ラカン、S23、16 Décembre 1975)
|
ーーここでラカンが「大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre」と言っているのは、大他者の享楽(原享楽・原エロス)の達成は死だからである。したがって生きている存在には享楽は不可能である。
|
大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort. に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)
|
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]……それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
|
|
喪われた対象としての対象aは、去勢とだけではなく、穴とも表現されていることを確認しておこう。
|
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
|
要するに、モノ=去勢=穴=喪われた対象=享楽の対象である。
|
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
|
対象a は外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
|
私は常に、一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
|
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]…(享楽の対象は)フロイトのモノ La Chose(das Ding)であり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970、摘要)
|
|
【モノの名としてのサントーム】
|
後期ラカンの核心概念、原症状としてのサントーム自体、モノの名である。
|
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
|
これは上で《享楽の対象 objet de la jouissance》としての《外密をモノの名 nom de la Chose》(J.-A. Miller, 2004)とあったのと同じである。
ラカンのサントームは、固着、享楽の固着のことであり(参照)、サントームの機制は、ここでも幼児が自己身体とみなしていた母なる身体が分離=去勢されて「異者としての身体」となることである。そしてこの異者身体を取り戻そうとする不可能な試みを生み、人に反復強迫をもたらす。
享楽の固着とそのトラウマ的作用がある fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
|
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
|
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
|
ーーこの同化不能のトラウマが、フロイトの「モノdas Ding」あるいは異物(異者としての身体 Fremdkörper)の原意味である。
|
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
|
トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
|
晩年のフロイトは、この固着を「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」とも表現した。これは、穴ウマ(穴=トラウマ troumatisme) (S21, 19 Février 1974)というラカン 用語を使えば、「穴への固着」となる。
|
幼児期に起こるトラウマは、自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
|
ラカン は《身体は穴である。le corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)とも言っているが、これも固着による穴である。
|
固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
|
他方、母なる大他者にも去勢の穴がある。
|
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
|
ここでもミレール とそしてソレールによって確認しておこう。
|
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
|
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴(享楽喪失の穴)がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
|
【原固着=原トラウマ】
フロイトの思考においては、固着は大きく2種類ある。原固着と通常の固着である。通常の固着は、上に「リビドーの固着」の記述を引用したとき示した通り、幼児期の母による世話における固着=身体の上への刻印であるが、ラカンのサントームもこの水準にある。
他方、原固着は、「出産外傷 Das Trauma der Geburt」による「母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]」であり、フロイト はこの原固着を「原トラウマ Urtrauma」(『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)ともしている。
上に示したようにラカン においては、トラウマ=穴であり、原トラウマ、すなわち原穴である。
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である。
Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM […] c’est le nom du premier trou(コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)
|
したがってここでも、「母はモノの名 La Mère est le nom de la Chose」である。
|
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
|
わたくしはこの原母を "LȺ MÈRE" と記すことを好む。すなわち「穴のあいた母なる大他者」である。
|
ラカンがセミネール11で胎盤の喪失を語ったときは、原固着(母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ])の審級にある。
|
例えば胎盤は…個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を示す。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)
|
セミネール9における次の発言も、原固着=原トラウマの審級にある。
|
原初に何かが起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつてAの形態[ la forme A]を取った何かを生み出させようとして、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させようとして faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
|
以上、固着については細かく言えば、まだいくらでも触れるべきところがあるが、ここでこの程度にとどめておく。
|