2020年5月19日火曜日

無モノ去勢穴


我々は、「無」le rien と本質的な関係性を享受する主体を、女たちfemmesと呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女である主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。(J.-A. Miller, Des semblants dans la relation entre les sexe, 1997)

さてここでの問いは、男女とも無にかかわるのに、なぜ女たちのほうが無に接近しているのだろうか、である。


まず無とはモノのことである。

現実界の中心にある空虚の存在をモノと呼ぶ。この空虚は…無である。l'existence  de ce vide au centre de ce réel tout de même qui s'appelle la Chose, ce vide […]rien.    (ラカン, S7, 27 Janvier 1960)

そしてモノとは母である。

モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)

この母とは、究極的には、出産外傷による母子融合の喪失という意味での「喪われた原母」である。この意味での喪失は男女とも同じ条件の筈である。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]…(享楽の対象としての)フロイトのモノ La Chose(das Ding)は、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970、摘要)

したがってミレールはこう言う。

モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

繰り返せば、享楽の対象としてのモノは、喪われた対象であり、原点にあるのは出生によって去勢された原母である。

去勢ー出産 [Kastration – Geburt]とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

最晩年のラカンは次のように言っている。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

ーー《去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。》 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

去勢にはいろいろな種類がある。とくに前中期ラカン における成人言語の世界に入ることによる言語による去勢、「象徴的去勢」が名高い。だがそれについてはここでは割愛する。

今、ここで中心点話題としているのは出生による「リビドーの控除=享楽の控除」という意味での原去勢である。

リビドー libido は、…人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

ーー《ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 である。》(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

ところで上で引用したように《モノは享楽の名》《去勢は享楽の名》と言うミレール は、「モノは穴」ともしている。

モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

モノとは(言語の大他者Aとは異なって)象徴界外にある「斜線を引かれた現実界的大他者Ⱥ」である。



このモノが穴であるのは、ラカンの次の発言群にて確認できる。

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
J(Ⱥ) (斜線を引かれた大他者の享楽)…これは「大他者の享楽はない」ということである。大他者の大他者はないのだから。これが斜線を引かれたA [Ⱥ] (穴)の意味である。qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [A].  (ラカン, S23, 16 Décembre 1975)



ここまでで、モノは去勢(喪われた対象)であり、享楽の対象であり、穴であり、無であることを見てきた。

この穴=無は、究極的には、ブラックホールあるいは女陰の奈落である。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現[apparition sur la scène d'une forme de femme、ヴェールが落ちて[son voile tombé]、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)

したがってミレール は《真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée.》 (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)と言うのである。

以下、確認しよう。

まずモノは不気味なものである。

モノは、その異者性の特徴において、不気味なものである。das Ding,[…] dans son caractère étrange, unheimlich    (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

不気味なものは欠如の欠如である。

不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)

欠如の欠如は穴である。

現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

ある時期以降のラカン にとって去勢=穴とは欠如ではない。欠如とは象徴秩序(ファルス秩序)の審級にある語である。現実界の審級における去勢とは、何も欠けていないこと=穴である。

女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)

こうして究極の不気味なものはここでも女性器であることが確認できたはずである。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

そしてこの不気味なモノは人に内的反復強迫をもたらすのである。

心的無意識のうちには、欲動興奮 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

これこそ享楽回帰=母胎回帰である。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)



以上、男よりも女のほうが無に接近している理由は、股の間にオメコを持っているせいだということが確認できた筈である。



◼️付記:欠如と穴の相違

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。
この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯
ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)