享楽は去勢である la jouissance est la castration(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
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以下、「享楽は穴である la jouissance est le trou」ともしうることを、ジャック=アラン・ミレール の注釈を軸にして、フロイトラカンを引用することにより示す。
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次の、去勢と穴と等置している文を受け入れるなら、たちまち「享楽は穴」となる。
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去勢[-φ]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 9/2/2011)
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だが以下はいくらか綿密にそれを裏付ける。
穴とはラカン マテームでは、Ⱥと書かれる。
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去勢とは差し引かれた享楽という意味もある。
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(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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したがってこうである。
そして去勢=穴は、象徴界外(言語外)の現実界の水準にあり、トラウマ的な「不気味なもの」である(ラカン においてトラウマとは言語外にあるものという意味)。
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不気味なもの Unheimlich とは、…(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…。…私は(-φ)[去勢]を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
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欠如の欠如が現実界を為す。Le manque du manque fait le réel (Lacan, AE573, 17 mai 1976)
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現実界は穴ウマ(穴=トラウマ)を為す le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
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フロイトにおいて究極の不気味なもの=穴は、女性器である。
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女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
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この不気味なものは内的反復強迫を促す。
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心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
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内的反復強迫とは、より厳密に言えば、無意識のエスの反復強迫である。
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欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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この無意識のエスの反復強迫を促すものをフロイトは「異物 Fremdkörper」と呼んだが、この異物が不気味なものである。
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たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
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「異物 Fremdkörper」とは「異者としての身体」ということである。
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われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン , S23, 11 Mai 1976)
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別の角度から言えば、不気味なものは外密であり、異者としての身体=モノである。
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私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
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ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガーが使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体のモデルmodèle corps étrangerである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。( J.-A. Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
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上のミレール 注釈は1985年という比較的早い段階のものなので、最近の注釈を掲げることにより確認しておこう。 |
モノは、その異者性の特徴において、不気味なものである。das Ding,[…] dans son caractère étrange, unheimlich (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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ところで前期ラカンはモノを母と呼んでいる。
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モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
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だが、このモノとしての母とは、厳密には「モノとしての母の身体」である(参照:モノという異者身体の享楽)。この母なる異者身体が、究極の異者としての身体である。
そしてこのモノが喪われた対象である。
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享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë…それは喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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この母という対象 Objekt der Mutterは、……喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsである(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
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「喪われた」とは「去勢された」という意味もある。 |
去勢ー出産 [Kastration – Geburt]とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
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人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
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この出産外傷=原去勢が、ラカン 曰くの「廃墟となった享楽」である。
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反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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そして究極的な「享楽回帰 Retour de la jouissance」は「母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleib」のである。 |
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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確認しよう。喪われた母の異者身体が享楽の対象であり、モノの名である。
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この享楽の対象は、禁じられ外密のポジションにある。すなわち内的かつ手に入らないものである。ラカンはこの外密をモノの名として示した。[Cet objet de la jouissance comme interdit, comme occupant une position extime, c'est-à-dire à la fois interne et inaccessible, c'est ce que Lacan a désigné du nom de la Chose](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)
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モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
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そしてこのモノ=享楽の名が去勢=穴なのである。
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去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
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モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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以上、最晩年のラカンが《享楽は去勢である la jouissance est la castration(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)という時、「享楽は穴である la jouissance est le trou」ともすることができるのを確認できた筈である。 |