2020年5月29日金曜日

陰毛の光景への固着

ラカン の原症状としてのサントームはフロイトの固着だが、では「女のペニスへの固着」や「陰毛の光景への固着」などもサントームなんだろうか?

以下はその「根源的な問い?」のための文献集でる。

隠蔽記憶≒フェティッシュ=病因的固着 pathologische Fixierungen

「初期の」性的刻印に関して…精神分析は新しい病因的固着[pathologische Fixierungen ]が、五歳あるいは六歳以降に起こりうるかを疑っている。


alle diese »frühzeitigen« Sexualeindrücke… während die Psychoanalyse daran zweifeln läßt, ob sich pathologische Fixierungen so spät neubilden können. 


真の解釈は、フェティッシュの発生の最初の記憶の背後に、埋没され忘れられた性的発達の最初の記憶の段階があり、それがフェティッシュによって表象される。それは、あたかも「隠蔽記憶 Deckerinnerung」によるようにして、フェティッシュはこの記憶の残滓と沈殿物を表象するのである。つまり幼児期の最初の数年のこの段階に、フェティシズムとフェティッシュの選択が構成的に決定づけられる。


Der wirkliche Sachverhalt ist der, daß hinter der ersten Erinnerung an das Auftreten des Fetisch eine untergegangene und vergessene Phase der Sexualentwicklung liegt, die durch den Fetisch wie durch eine »Deckerinnerung« vertreten wird, deren Rest und Niederschlag der Fetisch also darstellt. Die Wendung dieser in die ersten Kindheitsjahre fallenden Phase zum Fetischismus sowie die Auswahl des Fetisch selbst sind konstitutionell determiniert.. (フロイト『性理論三篇』第1篇、1905年、1920年注)


隠蔽記憶=病因的トラウマ ätiologische Traumen
=トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自己身体の上への出来事Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。
ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

このような尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。
これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に強化される可能性がある。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)


外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…
この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)




女のペニスへの固着 Fixierung an den Penis des Weibes

子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、エロス的欲動活動[erotische Triebbetätigung]としてある激しい視姦欲[intensive Schaulust]が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母から発したエロス的魅力[Die erotische Anziehung, die von der Person der Mutter ausging]やがて、やはりペニスだと思われている母の性器を見たいという渇望[Sehnsucht]において頂点に達する。


ところが後になって女はペニスをもっていない das Weib keinen Penis besitzt ]ことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心因性インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因[Ursache der psychischen Impotenz, der Misogynie, der dauernden Homosexualität werden]となりうるものである。


しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固着 die Fixierung an das einst heißbegehrte Objekt, den Penis des Weibes]は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求[infantiler Sexualforschung]のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴[weiblichen Fußes und Schuhes]のフェティシズム症的崇拝[Die fetischartige Verehrung des weiblichen Fußes und Schuhes]は足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代理象徴[Ersatzsymbol]としているようにみえる。「女の毛髪を切る変態者」Zopfabschneider は、それとしらずに、女の性器に去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第3章、1910年)


隠毛の光景への固着 Fixieren den Anblick der Genitalbehaarung

フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である[der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) ……


我々は、喪われた女性のファルスの代替物として、ペニスのシンボルとなる器官や対象が選ばれると想定しうる[Es liegt nahe zu erwarten, daß zum Ersatz des vermißten weiblichen Phallus solche Organe oder Objekte gewählt werden, die auch sonst als Symbole den Penis vertreten]。


これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。Das mag oft genug stattfinden, ist aber gewiß nicht entscheidend. 


フェティッシュが設置されるとき、外傷性健忘における記憶の停止のような或る過程が発生する。[Bei der Einsetzung des Fetisch scheint vielmehr ein Vorgang eingehalten zu werden, der an das Haltmachen der Erinnerung bei traumatischer Amnesie gemahnt


またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な直前の印象が、フェティッシュとして保持される[Auch hier bleibt das Interesse wie unterwegs stehen, wird etwa der letzte Eindruck vor dem unheimlichen, traumatischen, als Fetisch festgehalten. 


こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである[So verdankt der Fuß oder Schuh seine Bevorzugung als Fetisch –; oder ein Stück derselben –; dem Umstand, daß die Neugierde des Knaben von unten, von den Beinen her nach dem weiblichen Genitale gespäht hat; ]。


毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景への固着[fixieren den Anblick der Genitalbehaarung]である。これには、あの強く求めていた女性のペニスの姿がつづいていたはずなのである。

Pelz und Samt fixieren –; wie längst vermutet wurde –; den Anblick der Genitalbehaarung, auf den der ersehnte des weiblichen Gliedes hätte folgen sollen; 


とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間、すなわち、まだ女性をファリック[phallisch]だと考えていてよかったあの最後の瞬間をとらえている。だが私は、フェティッシュの決定が毎回確実に見通せる、というつもりはない。

die so häufig zum Fetisch erkorenen Wäschestücke halten den Moment der Entkleidung fest, den letzten, in dem man das Weib noch für phallisch halten durfte. Ich will aber nicht behaupten, daß man die Determinierung des Fetisch jedesmal mit Sicherheit durchschaut. 


フェティシズムの研究は、去勢コンプレクスの実在をいまだ疑ったり、あるいは女性の性器に対する恐怖には他の理由があるとする人々に是非お勧めしたい。たとえば出産外傷の記憶を想定している人もいる。このフェティッシュの解釈となると、私にはまた別の学問的興味がある。


Die Untersuchung des Fetischismus ist all denen dringend zu empfehlen, die noch an der Existenz des Kastrationskomplexes zweifeln oder die meinen können, der Schreck vor dem weiblichen Genitale habe einen anderen Grund, leite sich z. B. von der supponierten Erinnerung an das Trauma der Geburt ab. Für mich hatte die Aufklärung des Fetisch noch ein anderes theoretisches Interesse. (フロイト『フェティシズムFetischismus1927年)



母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter 
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


リビドーの固着=享楽の固着

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験が、リビドーの固着を置き残す傾向がある、ということである。Die Äußerung der angeborenen Anlage unterliegt ja keinem kritischen Bedenken, aber die analytische Erfahrung nötigt uns geradezu anzunehmen, daß rein zufällige Erlebnisse der Kindheit imstande sind, Fixierungen der Libido zu hinterlassen. (フロイト 『精神分析入門』 第23 講, 1917年)

フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着である。ce que Freud appelait […]la fixation.[…]c'est une fixation de jouissance. ( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)

享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)







サントームは固着である Le sinthome est la fixation

現実界のポジションは、ラカンの最後の教えにおいて、二つの座標が集結されるコーナーに到る。シニフィアンと享楽である。ここでのシニフィアンとは、単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]である。それは、S2に付着したS1ではない[non pas le S1 attaché au S2 ]。この「一者のシニフィアン[le signifiant Un] 」という用語から、ラカンはフロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。


Cette position du réel, je suis arrivé à la coincer de deux coordonnées cueillies dans le dernier enseignement de Lacan : le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – le Un détaché du deux, non pas le S1 attaché au S2 et prenant sens à partir de lui, donc le signifiant Un –, et puis, de ce terme où Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance.


私は、この一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. 〔・・・〕


フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

反復的享楽、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準にある。この反復的享楽は「1のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部にある。それはS2なきS1[S1 sans S2](フロイトが固着と呼んだもの)を通した身体の自動享楽に他ならない。


La jouissance répétitive, la jouissance qu'on dit de l'addiction - et précisément, ce que Lacan appelle le sinthome est au niveau de l'addiction -, cette jouissance répétitive n'a de rapport qu'avec le signifiant Un, avec le S1. Ça veut dire qu'elle n'a pas de rapport avec le S2, qui représente le savoir. Cette jouissance répétitive est hors-savoir, elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)

享楽の一者の純粋な反復をラカンはサントームと呼んだ。la pure réitération de l'Un de jouissance que Lacan appelle sinthome, (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 30/03/2011)

ーー要するに要約すれば《サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]》となる。


欲望の条件としてのフェティッシュ  

対象a、欲望の原因としての対象aがある[l' objet(a), […]comme la cause du désir.]。

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因」としての対象の相で現れる[fétiche comme tel, où se dévoile cette dimension  de l'objet comme cause  du désir]。  

フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望される対象ではない。…そうではなくフェティッシュは欲望を引き起こす」対象である[Car ne n'est pas le petit soulier, ni le sein, ni quoi que ce soit où vous incarniez le fétiche, qui est désiré, mais le fétiche cause le désir] …


フェティシストは知っている、フェティッシュは「欲望が自らを支えるための条件」だということを[c'est que pour le fétichiste,  il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition  dont se soutient le désir. ](Lacan, S10, 16 janvier 1963)


倒錯者の「欲望の原因」としてのフェティッシュ  

ラカンはセミネール10「不安」にて初めて、対象-原因[objet-cause]を語った。彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュ[le fétiche de la perversion fétichiste]として、この欲望の原因としての対象 [objet comme cause du désir]を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである[le fétiche n'est pas désiré, mais il doit être là pour qu'il y ait désir]。これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。…


ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件としての対象[un objet qui est condition du désir]である。・・・倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、欲望自体の地位 [le statut du désir comme tel]を表している。…


不安セミネールでは、対象の両義性がある。原因しての対象[objet-cause ]と目標としての対象[objet-visée]である。前者が正当な対象[objet authentique]であり、常に知られざる対象[toujours l'objet inconnu]である。後者は偽の対象a[faux objet petit a]、アガルマ[agalma]である。(なぜならラカンが言うように《アガルマは大他者の領野に探し求められる[recherche de l'γαλμα [agalma] dans le champ de l'Autre]》(3 Juillet 1963)から)。


倒錯者の対象a(「欲望の原因 [la cause du désir])は主体の側にある。

神経症の対象a(「欲望の対象[l' objet du désir])は、大他者の側にある。


神経症者は自らの幻想に忙しいのである。彼らは夢見る。神経症者の対象aは、偽の対象a [petit a falsifié]、大他者への囮[appât pour l'Autre]である。神経症者は、まがいの対象a[petit a postiche]にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 02/06/2004、摘要訳)


ーー《われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause.》 (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)


倒錯症状とサントームとの近似性

倒錯は対象a のモデルを提供する。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。


 c'est la perversion qui donne le modèle de l'objet petit a. Chez Lacan la perversion a servi aussi de modèle pour dire que dans les névroses c'est la même chose, mais que c'est brouillé, qu'on ne s'en aperçoit pas parce que c'est camouflé par les labyrinthes du désir, par le désir qui est en fait une défense contre la jouissance, et donc que dans les névroses, il faut en passer par l'interprétation.


倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである。ここに、サントーム概念が見出される。


En tout cas, si on suit le modèle de la perversion, on n'en passe pas par le fantasme. La perversion met, au contraire, en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnement. Et c'est ce que retrouve le concept de sinthome. 


(神経症とは異なり倒錯においては)幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない[Ca ne se condense pas dans un lieu privilégié qu'on appelle le fantasme]。 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)






冒頭にフロイトの隠蔽記憶とフェティッシュが近似するという文を掲げたが、以下はラカン 派による隠蔽記憶とサントームの近似性を示す文献群である。


幻想は現実界のスクリーン(覆い)だけではない。同時に現実界の窓(現実界の上の窓)である。幻想には二つの価値がある。スクリーンと窓である。

le fantasme n'est pas seulement écran, écran du réel. Il est en même temps fenêtre sur le réel. Et il y a là deux valeurs du fantasme […] entre l'écran et la fenêtre.(J.-A. MILLER, - 2/2/2011 )

隠蔽記憶と表象代理
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réelが、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想fantasmeと呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966 )
隠蔽記憶はたんに静止画像(スナップショットinstantané)ではない。記憶の流れ(歴史histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4  30 Janvier 1957 )
幻想を以て我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané に凍りつかせて還元する fige, réduit 何かーー隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )と呼ばれるある点で止まる何かの現前。

映画の動きを考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動化されているもの、そこには全てのエロス的機能valeurs érotiques が積み込まれたままである…そこではフルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃したものと支えたもの、その居残った最後の支え le dernier support restant が含まれるている…(ラカン、S4、16 Janvier 1957)

表象代理とサントーム
世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。(ラカン, S13, 27 Avril 1966)
フロイトのVorstellungsrepräsentanz…この表象代理 représentant de la représentation」は、「表象の仮置場 tenant-lieu de la représentationである。(Lacan, S11, 12  Février  1964)

表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)

四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない 、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトがどんな方法でかは知られていないが言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。


Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme.  C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé.  Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975