2020年5月3日日曜日

三種類の享楽

表題の「三種類の享楽」とは、ラカン派のなかでもそう言っている人が直接にいるわけではない。つまり以下は、わたくしがこう捉えているということを示すが、わたくしはの考えでは、こう捉えるほかはないということでもある。

大きくいって享楽には次の三種類がある(上段の剰余享楽plus de jouir のなかには本当はまた何種類もあるのだが、ここではそれは割愛)。



まず用語の確認をしておこう。

リビドー =享楽
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


上図の中段にある「斜線を引かれた享楽」は出生によって喪われた享楽ということである。

リビドー控除=享楽控除=去勢
不死の生vie immortelleとしてのリビドーは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除されるsoustrait。…例えば胎盤 le placentaという個体が出生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964、摘要)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».]. (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)




「斜線を引かれた享楽」の別名は去勢であり、かつまた穴である。

去勢=穴、剰余享楽=穴埋め
-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。Ce petit a sur moins phi , c'est la façon la plus élémentaire de comprendre cette conjugaison que j'évoquais, la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
※詳細➡︎剰余享楽定義集


ラカンから直接引いて確認しよう。

享楽=去勢
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
要するに、去勢以外の真理はない。En somme, il n'y a de vrai que la castration  (Lacan, S24, 15 Mars 1977)


ここで「リビドー控除=享楽控除=去勢」の項のラカン文に戻ろう。

不死の生vie immortelleとしてのリビドーは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除されるsoustrait。…例えば胎盤 le placentaという個体が出生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964、摘要)

繰り返せば、不死の生とは出生によって喪われた享楽である。

享楽喪失=廃墟となった享楽
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


ここではフロイトではなく、フロイトの向こうに常にいるニーチェから引こう。要するに不死の生とは、死の彼岸にある永遠の享楽である。

死の彼岸にある永遠の享楽
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である。死の彼岸über Tod 、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。総体としてに真の生である。生殖を通した生、セクシャリティの神秘を通した生である。
このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・創造の永遠の享楽die ewige Lust des Schaffens があるためには、生への意志がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)

ここでも用語を確認しておこう。

Lust=Libido=Jouissance
我々は、フロイトがLustと呼んだものを享楽と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (Jacques-Alain Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)


したがってラカン はこう言う。

死への道は享楽
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de  la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie.  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

つまりはこう図示できる。






死は享楽の最終的形態
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)




※付記:冒頭に「剰余享楽plus de jouir のなかには本当はまた何種類もある」としたが、最後に次の図を示しておこう。




ここまで記してきた定義上では、最初の剰余享楽はΣである。ΣはS(Ⱥ)である。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。Σ としてのS(Ⱥ)  grand S de grand A barré comme sigma よ記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)
S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré [Ⱥ]」を支配するmaîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


上でミレールが言っているように、Σはたしかに最初の穴埋めという意味では剰余享楽だが、ただし穴埋めの残滓=享楽の残滓があり、事実上は、穴の機能としての死の欲動に近似する。

要するにS(Ⱥ)とは穴Ⱥ の境界表象であり、したがって単純には剰余享楽と捉えがたい。このΣ=S(Ⱥ)の上にある二つの享楽、意味の享楽(フェティッシュ)とファルス享楽が、実際上は、穴に対する防衛としての正当的剰余享楽として扱うことができる。

巷間の通念としてはファルス享楽は剰余享楽と見なされていないが、ここまで記してきた定義上、あるいは「人はみな妄想する」という最晩年のラカン観点からは誤謬である。なぜなら妄想とは穴に対する防衛、穴埋めのことなのだから。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )