2020年5月15日金曜日

「母の欲望 Désir de la Mère」と「母の享楽 Jouissance de la Mère」のポジション


母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、一つのシニフィアンの代替をするシニフィアンun signifiant substitué au signifiantである…最初のシニフィアンとは、象徴化を導入する原シニフィアン premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……父はその代理シニフィアンである。 le père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


…………

以下、ジャック=アラン・ミレール 2008(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse VI, 17 décembre 2008)からである。


思い起こそう、いかにラカンがDMとNPを設置したかを。1のシニフィアン[Un signifiant]、つまり母の欲望 le désir de la mère ーー、母は常に乳幼児とともにいるわけではない[Un signifiant, le désir de la mère – elle n'est pas tout le temps auprès de son petit, elle l'abandonne et revient]。子供を捨て去りまた帰ってくる。行ったり来たりする。現れては消える。[elle n'est pas tout le temps auprès de son petit, elle l'abandonne et revient, il y a des va-et-vient, des apparitions et disparitions]、これがシニフィアンDMとしての登録を正当化する。……現前と不在のシニフィアン[le signifiant de sa présence et de son absence,としての「母の欲望 le désir de la mère」であり、行ったり来たりのシニフィアン[le signifiant de ses va-et-vient.] である。
始まりは、つまりシニフィアン化のダイナミズムが主体をシニフィエするものは、Xとして現れる。人はこれが何だか知らない。幼児はそれが何を意味するのか知らない[on ne sait pas, l'enfant ne sait pas ce que ça veut dire ]。

幼児はこのXを学ぶだろう、母の欲望が他のシニフィアン、父の名のシニフィアンに代替される時に。Il va l'apprendre quand, au désir de la mère, va se substituer un autre signifiant, celui du Nom-du-Père. 

この代替はこうして、最初の用語(DM)の抹消とともに記される。後に来る隠喩(NP)は、意味を表すようになる。「謎の母の享楽X[la jouissance énigmatique de la mère (JAM montre X)]」が置換を動機づける。こうして、ラカンがファルスの上に大きなAを記した。十全なるファルスである[c'est ce que Lacan inscrit grand A sur phallus – phallus en toutes lettres]。


ここでミレール は、「謎の母の享楽X[la jouissance énigmatique de la mère (JAM montre X)]」をJM と略せば、



と言っていることになる。すこし後には、c'est cet X, cette inconnue de la jouissance とも言っている(ここではその前後は訳して示さない)。


実に、父性隠喩の本質は、初期のXのファルス的意味作用への転換である[L'essence de la métaphore paternelle c'est en effet la résolution du X initial dans la signification phallique (JAM entoure X et trace une flèche de X au phallus)]。標準的かつ一般[normativante, commune]の意味への転換。この軌道が翻訳しているのは、いかに享楽が意味を獲得するか、ファルス的意味を獲得するかla jouissance prend sens, prend sens phalliqueである。父の名は、本質的に享楽が意味を獲得するのを可能にするオペレーターなのである[le Nom-du-Père est essentiellement l'opérateur qui permet à la jouissance de prendre sens]。(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse VI, 17 décembre 2008)



このミレール2008の発言は彼が過去に言ってきたことといくらの齟齬があることを示そう(そもそもラカン自身が前期から後期にかけての過程のなかで、曖昧なところが多々あり、セミネール5時点でラカンが示した「NP/DM図」のマテームを全面的に信用するほうがおかしいという立場だってあるだろうが)。

たとえばミレール は2003年には母の欲望と享楽を等置している。






次の2003年の発言では享楽という穴を母の欲望と等置しているように捉えられる。

享楽自体、穴をを為すもの、控除されなければならない過剰部分を含んでいる。そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの外被・覆いに過ぎない。…フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。神の系図を設立したフロイトは、父の名において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。

C’est la jouissance même qui fait trou, qui comporte une part excessive qui doit être soustraite, et le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie. […] Dès lors, la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.Freud, établissant la généalogie de Dieu, s’arrêtait au Nom-du- Père. La généalogie lacanienne fore la métaphore paternelle jusqu’au désir de la mère et la jouissance supplémentaire de la femme.   (Jacques-Alain Miller, Passion du nouveau, 2003)


《「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」》とあるが、一般にほとんどのラカン研究者は母の欲望を穴Ⱥとし、女性の享楽をS(Ⱥ) としている。

女性の享楽がS(Ⱥ)なのは、たとえば次の文章群を受け入れるならそうなる。


女性の享楽=S(Ⱥ) =サントームΣ
私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de L femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout [Ⱥ]の補填 suppléance を基礎にしている。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)


したがって次のように記すのが、現代ラカン派の捉え方である。







ところが先ほどのミレール 2008である。




この図の左側は、本来、マテーム的には次のように記せる内容を持っている。






こう記すと「母の欲望」がS(Ⱥ) になってしまう。つまり、「母の享楽 Jouissance de la Mère」のシニフィアンが「母の欲望 Désir de la Mère」という形態となる。




わたくしはこっちのほうが論理的だと思うが(もっともこうすると、女性の享楽=母の欲望になってしまう)、上に引用したミレールが2008年にチラッと言った内容以外は、ネット上で探る範囲では誰もこう言っていない。

次のコレット・ソレールは読みようによっては上のように捉えうるかも知れないが、わたくしはこの文だけをネット上で拾っただけであり、前後を読んでいないのではっきりはわからない。


〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、シニフィアンの空無化作用によって生み出された「原穴の名 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014セミネール)


以上、この記事は今のところはっきりはわからん、という記事である。そのうち機会があったらもう少し考えてみるかも知れないが、でも「いつかそのうち」である。

わたくしは「母の欲望 Désir de la Mèreという表現の曖昧さが嫌いなのである。これは冒頭で引用したラカンの発言を受け入れるなら、「母なるシニフィアンle signifiant maternelの審級にあるのではないか。とすればこのシニフィアンのさらに底部に穴という享楽がある。

したがって、「おい、ラカン! なぜ「母の享楽 Jouissance de la Mère」と言わなかったんだ」と常々思っているのである。

たとえばラカンが次のように言うとき、このモノは「母の欲望」ではなく「母の享楽」の審級にあるとわたくしは思う(参照)。

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose(ラカン、E853、1964年)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)




要するに、ここで示そうとしたのはこうではなかろうか、ということである。





…………………


ちなみにミレールが示している図はラカンにおいて最初は次のように提示された。



そして次にはこうである。




ここでは母の欲望S'の下にあるXを生かして次のように図式しておこう。






言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)


ここまで示してきたように上図は基本的には次のようにマテームで図式できる。



Ⱥは享楽(穴としての享楽)であり、この享楽は、父の名NPの介入によってファルス化される。享楽のファルス化とは何か。かつてのミレール は《徴示的な享楽の死化作用 la mortification signifiante de la jouissance》とした。

われわれがS1としての父の名を分離する瞬間から・われわれが父の名による隠喩作用を支える瞬間から、母の名は原享楽を表象するようになる。母の上の斜線は、徴示的な享楽の死化作用と等価である。

A partir du moment où on isole comme S1 le Nom-du-Père, à partir du moment où on fait supporter cette opération de métaphore par le Nom-du-Père, alors c'est le nom de la mère qui vient représenter la jouissance primordiale  - la barre sur M étant homologue à la mortification signifiante de la jouissance: (J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 23 mars 1988)


※参照

ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかにこうある。父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)