愛は母胎への郷愁
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女性器weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女陰 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
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不気味なものは現実界である
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不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
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欠如の欠如が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
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「現実界=モノ=外密=不気味なもの」である
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フロイトのモノを私は現実界 le Réelと呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン、S23, 13 Avril 1976)
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親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
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外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
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「不気味なもの」は、仏語ではそれに相応しい言葉がない。フロイトの『不気味なもの (Das Unheimliche)』は、L'inquiétante étrangeté と訳されている。すなわち「不穏をもたらす奇妙なもの」。ラカンはそのかわりに、外密という語を発明した。(ムラデン・ドラ―Mladen Dolar, I Shall Be with You on Your Wedding-Night": Lacan and the Uncanny,1991)
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われわれにとって最も興味深いのは、heimlichという語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語 unheimlich と一致する一つのニュアンスを示していることである。すなわち親しいもの・気持のいいもの des Heimliche が、不気味なもの・秘密のもの des Unheimliche となることがそれである。(フロイト『不気味なもの』1919)
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「モノ=享楽の対象=喪われた対象」である
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反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]
…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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この喪われたモノを、ラカンはセミネール7では「母」、セミネール11では「胎盤」、晩年の1975年ザルツブルクでの会議では「臍の緒」と言っているが、要するに(少なくとも究極的には)フロイトにおいて繰り返される「喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben」にかかわる。
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そして「廃墟となった享楽」とは、出産外傷=原去勢によって喪われた母との融合状態である。
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母の去勢
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享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
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人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
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原享楽とは、原ナルシシズム状態としての子宮内生活である。
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原享楽=原ナルシシズム状態
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人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
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自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
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そして享楽回帰運動とは、出生によって去勢=喪われた原ナルシシズム状態を取り戻そうとする愛の欲動=母胎回帰運動である。
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愛の欲動=母胎回帰運動
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去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
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享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
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リビドーLibido はは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…リビドー は愛の欲動 Liebestriebeである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
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人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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母胎回帰とは、ダ・ヴインチが既に言っている原カオス回帰と同一である。
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原カオス憧憬
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我々の原カオス回帰への希望と欲望は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。
la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, (『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)
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ただしこの回帰はダ・ヴインチのいうとおり自己破壊に相当する。なぜなら享楽の対象との融合、つまり大他者の享楽としてのエロスは死だから。
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大他者の享楽=エロス=死
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大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
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大他者の享楽 jouissance de l'Autre 、すなわちエロスは不可能である。…エロスとはひとつになる faire Un という神話だ。
…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりえないne peuvent en faire qu'Un。…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要訳)
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したがってわれわれの人生は、原ナルシシズム状態としての死に対する防衛としてある。
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我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)
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