要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 …それは超自我だ。
l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (ラカン、S24, 08 Février 1977)
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この区分はラカンのマテームでは、自我理想[l'Idéal du Moi]をI(A)、超自我[le Surmoi]をS(Ⱥ)にて示される。
フロイトにおいて自我理想と超自我の区別は最後まで曖昧なままである。だがフロイトのテキストを読み込んでいけば、その区分が現れていることを以下に示す。
フロイトが超自我概念を最初に提出したのは1923年の『自我とエス』にてである。
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自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼ばれうる[eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)
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ーーこの文は、いかにも自我理想と超自我を等置しているように見える。だが後年、次のように言う。
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超自我はまた自我理想の媒体である[Über-Ich …Es ist auch der Träger des Ichideals](フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年)
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超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の父母(そして教育者)の後継者・代理人である[Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten](フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht, 1939年)
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自我理想と超自我を等置はしておらず、超自我は人生最初期の監督者の代理とある。父母とあることにも注目しよう。実はこの父母の区別は『自我とエス』あるいはその二年前の論文『集団心理学と自我の分析』に現れている。
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フロイトは自我理想は同一化に関わると言っている。
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最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想[Ichideals]の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初の最も重要な同一化がかくされているからである[die Wirkungen der ersten, im frühesten Alter erfolgten Identifizierungen werden allgemeine und nachhaltige sein. Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums,](フロイト『自我とエス』、第3章、1923年)
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ーー自我理想の背後には別の同一化がある、と言っている。そして、
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父との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、母にたいするアタッチメント型(依存型)の本格的対象備給を向け始める[Gleichzeitig mit dieser Identifizierung mit dem Vater, vielleicht sogar vorher, hat der Knabe begonnen, eine richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)
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ーーここで対象備給と言っているのは母との同一化にかかわる(備給とはリビドーのことある、《備給はリビドーに代替しうる [»Besetzung« durch »Libido« ersetzen]》(フロイト『無意識』1915年))
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前エディプス期の母との同一化[Die Mutteridentifizierung …die präödipale,](フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続精神分析入門講義』第33講、1933年)
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事実、対象備給と同一化は区別されない、とフロイトは書いている。
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個人の原始的な口唇期の初めにおいて、対象備給と同一化は互いに区別されていなかった[Uranfänglich in der primitiven oralen Phase des Individuums sind Objektbesetzung und Identifizierung wohl nicht voneinander zu unterscheiden. ](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)
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したがって父との同一化以前に対象備給としての母との同一化がある。そして対象備給の始まりは、母の乳房だともある。
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非常に幼い時期に、母への対象備給[Mutter eine Objektbesetzung ]がはじまり、対象備給は母の乳房[Mutterbrust]を出発点とし、アタッチメント型[Anlehnungstypus]の対象選択の原型を示す。[Ganz frühzeitig entwickelt es für die Mutter eine Objektbesetzung, die von der Mutterbrust ihren Ausgang nimmt und das vorbildliche Beispiel einer Objektwahl nach dem Anlehnungstypus zeigt; ](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)
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おそらくこういった文脈を読み込んでだろう、メラニー・クラインは母の乳房が超自我の核だとしているのである。
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私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formation…The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)
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取り入れとあるが、同一化と等価である、ーーー《超自我への取り入れ〔・・・〕。幼児は優位に立つ権威を同一化するこよによって、幼児の超自我になる[Introjektion ins Über-Ich…indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird …als Kind](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)
さて、ラカンはこのメラニー・クラインを受け入れて、母なる超自我と言っているのである。
母なる超自我[surmoi maternel]・太古の超自我[surmoi archaïque]、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 [surmoi primordial]の効果に結びついているものである。…最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、…母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。 (Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
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この半年前には「母なる超自我/父なる超自我」という表現を使っている。
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エディプスなき神経症概念 [notion de la névrose sans Œdipe]…問いがある。父なる超自我の背後に母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的 、さらにいっそう執着的な母なる超自我が[on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ? ](Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
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この父なる超自我が事実上、フロイトの自我理想であり、ラカンの父の名である。
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父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)
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後年のラカンにとって母なる超自我は超自我自体になる。例えば次の二文をくみあわせれば、女なるものは超自我だとなる。
一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.](ラカン, S17, 18 Février 1970)
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一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)
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この女なるものは母なる女のことである。
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(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に[une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition.] (ラカン, S17, 11 Février 1970)
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以上、超自我が母にかかわることを強調するために、次にように図示しておこう。
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なおラカンがいっている「母なる女が享楽を与える」とはマゾヒズムを与えるということである。
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超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, 16 janvier 1963)
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享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976)
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死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)
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つまり母なる超自我は現実界の享楽としてのマゾヒズムという死の欲動を与える。これもフロイトに現れている。
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超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)
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マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。マゾヒズムはサディズムより古い。Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat.…daß der Masochismus älter ist als der Sadismus,〔・・・〕
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
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最後に死の欲動は愛の欲動でもあることに注意を促しておこう[参照]。
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