2023年12月11日月曜日

アリアドネの迷宮の秘密

  

①アリアドネは迷宮である

わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを[ was Ariadne ist!]……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)


『エスの本 Das Buch vom Es』(1923)を記したゲオルク・グロデックは、「アリアドネが何であるか was Ariadne ist!」は、当初は 「Wer Ariadne ist(アリアドネは誰であるか)」であったが、最終的に「was Ariadne ist! (アリアドネは何であるか)」に変えられていることをニーチェ自筆原稿に当たって示している。


ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない…[Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ...](ニーチェ、1887年秋遺稿)



②アリアドネは魂の迷宮であり、永遠回帰である

アリアドネは、アニマ、魂である[Ariane est l'Anima, l'Ame](ドゥルーズ『ニーチェと哲学』1962年)

迷宮は永遠回帰そのものを指示する[le labyrinthe désigne l’éternel retour lui-même]。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』 1962年)




③永遠回帰なる反復は原抑圧された欲動の回帰である

永遠回帰は反復である[L'Éternel Retour est la Répétition](ドゥルーズ『ニーチェ』1965年)

フロイトが、表象にかかわる「正式の」抑圧の彼岸に、「原抑圧」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前、あるいは欲動が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる。

Car  lorsque Freud, au-delà du refoulement « proprement dit » qui  porte sur des représentations, montre la nécessité de poser un  refoulement originaire, concernant d'abord des présentations  pures, ou la manière dont les pulsions sont nécessairement  vécues, nous croyons qu'il s'approche au maximum d'une raison  positive interne de la répétition(ドゥルーズ『差異と反復』「序章」1968年)


原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe](フロイト『症例シュレーバー 』第3章、1911年)

以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)



④永遠回帰は力への意志なる欲動である

力への意志の直接的表現としての永遠回帰[éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance](ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

永遠回帰〔・・・〕ニーチェの思考において、回帰は力への意志の純粋メタファー以外の何ものでもない[L'Éternel Retour …dans la pensée de Nietzsche, le Retour n'est qu'une pure métaphore de la volonté de puissance. ]〔・・・〕

しかし力への意志は至高の欲動のことではなかろうか[Mais la volonté de puissance n'est-elle pas l'impulsion suprême? ](クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


すべての欲動の力(駆り立てる力[treibende Kraft])は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888)


参照:「わたしの内部の湖水から吹き荒れ溢れ出す諸力の海へ、あるいは永遠回帰=力への意志=欲動へ」




⑤反復強迫としての永遠回帰は不気味な欲動の回帰である

同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年、摘要)

同一のものの回帰という不気味なもの[das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr]〔・・・〕

心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配[Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges]が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格[dämonischen Charakter]を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫[inneren Wiederholungszwang] を思い起こさせるものである。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)



⑥原抑圧された不気味な実存の回帰

不気味なものは人間の実存[Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)

未来におけるすべての不気味なもの、また過去において鳥たちをおどして飛び去らせた一切のものも、おまえたちの「現実」にくらべれば、まだしも親密さを感じさせる[Alles Unheimliche der Zukunft, und was je verflogenen Vögeln Schauder machte, ist wahrlich heimlicher noch und traulicher als eure "Wirklichkeit". ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第2部「教養の国」1884年)


《不気味ななかの親密さ[heimisch im Unheimlichen]》(フロイト『ある錯覚の未来』第3章、1927 年)

不気味なものは秘密の親密なものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[daß Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)


なお、上で「抑圧」とあるのは、「原抑圧」のこと(参照)。


※フロイトの抑圧には原抑圧と後期抑圧がある。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)




以上より、


①アリアドネは迷宮である

②アリアドネは魂の迷宮であり、永遠回帰である

③永遠回帰なる反復は原抑圧された欲動の回帰である

④永遠回帰は力への意志なる欲動である

⑤反復強迫としての永遠回帰は不気味な欲動の回帰である

⑥原抑圧された不気味な実存の回帰


したがって、簡単に言えば、アリアドネは不気味な実存の迷宮である。フロイト・ドゥルーズ・クロソウスキー的に言えば、アリアドネは原抑圧された不気味な欲動の永遠回帰となる。




とはいえ、ひょっとしてアリアドネは雌蜘蛛かもしれない。


◼️雌蜘蛛の永遠回帰

月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛[diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht]、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。

そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰[ewig wiederkommen]する定めを負うているのではないか。 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年)

蜘蛛よ、なぜおまえはわたしを糸でからむのか。血が欲しいのか。ああ!ああ![Spinne, was spinnst du um mich? Willst du Blut? Ach! Ach!   ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第4節、1885年)


アブラハム(1922)によれば、夢のなかの蜘蛛は、母のシンボルである。だが恐ろしいファリックマザーのシンボルである。したがって蜘蛛の不安は母子相姦の怖れと女性器の恐怖を表現する。

Nach Abraham 1922 ist die Spinne im Traum ein Symbol der Mutter, aber der phallischen Mutter, vor der man sich fürchtet, so daß die Angst vor der Spinne den Schrecken vor dem Mutterinzest und das Grauen vor dem weiblichen Genitale ausdrückt.(フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの 』第2章、1919年)


わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだーーつまり、わたしの最高の瞬間を狙って[in meinen höchsten Augenblicken]くるのだ…。そのときには、毒虫[giftiges Gewürm]に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした予定不調和[disharmonia praestabilita]を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ [Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind―]。 (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節--妹エリザベートによる差し替え前版、1888年)




…………………


ロラン・バルトが『明るい部屋』の「温室の写真」ーー彼の母が五歳のときの写真ーーの章で引用したのは次のニーチェの迷宮だった。

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)


その特別の写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から、「写真」のすべて(その《本性》を《引き出す》こと、この写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷宮」を形づくっていた。その「迷宮」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷宮の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった La Photo du Jardin d'Hiver était mon Ariane。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の観点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる blessure もないのである。)

(Je ne puis montrer la Photo du Jardin d'Hiver. Elle n'existe que pour moi. Pour vous, elle ne serait rien d'autre qu'une photo indifférente, l'une des mille manifestations du « quelconque »; elle ne peut en rien constituer l'objet visible d'une science; elle ne peut fonder une objectivité, au sens positif du terme; tout au plus intéresserait―elle votre studium: époque, vêtements, photogénie; mais en elle, pour vous, aucune blessure.)

(ロラン・バルト『明るい部屋』第30章「温室の写真」、1980年)



アリアドネは愛される者かもしれない、あるいは過去に刻印された起源の愛の対象の傷かも。

アリアドネは、アニマ、魂である[Ariane est l'Anima, l'Ame](ドゥルーズ『ニーチェと哲学』1962年)

愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる[L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»](ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970年)


ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」)




フロイトにとって愛の喪失=不安=トラウマ=傷である。


寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我への傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs] 〔・・・〕

このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]


この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


この初期幼児期の傷への固着ーーあるいは《初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen.]》(『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)ーーが反復強迫する。そして⑤で見たようにこの反復強迫が永遠回帰である。


さらに言えばフロイトにとってこの永遠回帰としての固着の反復が、③で見た原抑圧された欲動の回帰にほかならない。

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察(症例シュレーバー)』1911年、摘要)



とすれば、アリアドネは愛の固着の迷宮(永遠回帰)かも。



人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。Etre amoureux, c'est se perdre dans un labyrinthe. L'amour est labyrinthique. Par les voies de l'amour, on ne s'y retrouve pas, on ne se retrouve pas.(J.-A. Miller, 「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」 ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)


私の脳髄のなかにはある種の断定があるのだが、ここではそれを示すのは慎んだおく。ときには古井由吉やクンデラが勧める宙吊りの精神を発揮せねばならない。


詩人ニーチェが言っているのは①で示したアリアドネは迷宮だけではなく、さらにディオニュソスも迷宮である、《ディオニュソス:賢くあれ、アリアドネ!私はあなたの迷宮だDionysos : Sei klug, Ariadne!...Ich bin dein Labyrinth...]》(ニーチェ『アリアドネの嘆き』Klage der Ariadne』1887年秋)ーーここから愛の迷宮ということばが生まれる。







ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, (…)  dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung』1925年)




※附記


なお、先のトーラス円図のひとつとしてラカンは男と女のあいだに去勢マーク(- φ)を置いた。




  


« - φ» « - J »である。


われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


厳密には次のように表示される。





この斜線を引かれた享楽は、《享楽の喪失[déperdition de jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)を示す。そしてこれが先に示したフロイトの愛の喪失[Liebesverlust]のトラウマ、つまり傷である。


誤解のないように。享楽は単純には愛ではない。そうではなく愛の欲動ーー喪われた愛の対象を取り戻そうと駆り立てる力ーーである。





愛への意志、それは死をも意志することである[ Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode]。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる[Also rede ich zu euch Feiglingen! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)

(表面に現れているものではなく)別の言説が光を照射する。すなわちフロイトの言説において、死は愛である [Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. ](Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969)



愛が迷宮であるのは、究極的には、愛への意志=死への意志ゆえにである。いやいや断言してはならない。愛の迷宮は、愛への意志=死への意志ゆえにデハナカロウカ、ーーこれが本来のカイエである・・・


ラカンによる享楽とは何か。…そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ](J. -A. MILLER, LES DIVINS DETAILS,  1 MARS 1989)

死は享楽の最終形態である[death is the final form of jouissance](PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006)