2022年に発表されている立木康介の「トラウマ記憶とトラウマ経験のあいだ --精神分析的外傷論のアップデートの試み」2022-06-30、PDF)には、次の記述があるがね、 |
問題は,外傷的記憶をこのように「欲動が関与するもの」としてのみ捉えると,今日 PTSD と呼ばれている症候群における外傷的記憶を議論の埒外に措いてしまうことになる,ということである。というのも,災害や惨禍に晒されることで被った心的トラウマには,通常,いかなる「欲動の関与」も認めることができないからだ。〔・・・〕 外傷性神経症・PTSD におけるトラウマと,「欲動が関与する」神経症的トラウマの違いは明白だ。(立木康介「トラウマ記憶とトラウマ経験のあいだ --精神分析的外傷論のアップデートの試み」. ISSUE DATE: 2022-06-30) |
《外傷性神経症・PTSD におけるトラウマと,「欲動が関与する」神経症的トラウマの違いは明白だ》ってのは、明白に誤謬だよ。それはフロイトの次の二文を掲げるだけで「明白に」わかる。 |
外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する。 Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation; (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年) |
欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。 Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年) |
外傷神経症は固着であり、欲動の対象も固着なのだから、《外傷性神経症・PTSD におけるトラウマと,「欲動が関与する」神経症的トラウマの違いは明白だ》ってのは大嘘だよ。なぜフロイトラカン業界は、現在、日本ラカン協会理事長らしい立木くんのトンデモ誤謬を誰も指摘しないのだろう? 私にはそれが不思議で不思議でならないね。 冒頭に掲げた記述の後、この立木論文にはーー「精神分析的外傷論のアップデートの試み」をするつもりなのだろうがーーラカンのセミネール1の狼男の症例をめぐる発言の引用がある。 |
この〔4 歳の誕生日を迎える晩の〕不安夢は、私が先ほど想像的侵入と呼んだものの最初の顕れである。今日研究が進んできた本能理論からことばを借りるなら、これはPrägung ―― この語には貨幣の刻印という意味での「刻印」の響きがある ――,すなわち,根原的な〔originatif〕外傷的出来事の Prägung である。 この Prägung はまず,抑圧されたのではない無意識のうちに位置づけられる。Prägung は主体の言語化されたシステムに統合されておらず,言語化〔verbalisation〕の高みにまで、それどころか意味作用〔signification〕にまで、達してすらいない。厳密に想像界の領域に限定されるこの Prägung は、主体が進歩するにつれて,どんどんと組織化されてゆく象徴的世界のうちに再出現するのである。根源的瞬間である x と,彼が抑圧を位置づける 4 歳のあいだの主体の歴史全体を語りつつ、フロイトが私たちに説明するのは、このことである。(Jacques Lacan, Le Séminaire, Livre I, Les écrits techniques de Freud (1953-1954), Seuil, 1975, p.214.) |
このPrägungの箇所の原文を引用しよう。 |
Prägung ―― この語には貨幣の刻印という意味での「刻印」の響きがある ――,すなわち、根原的な外傷的出来事の刻印Prägung である。 la Prägung [ frappe, empreinte, impression ]… emportant avec lui des résonances de la frappe, frappe d'une monnaie …de la Prägung de l'événement traumatique originatif. 〔・・・〕 この Prägung は抑圧されたのではない無意識のうちに位置づけられる。 cette Prägung se situe dans un inconscient non refoulé (Lacan, S1, 19 Mai 1954) |
この刻印としてのPrägungは固着のことである。そして「抑圧されたのではない無意識」とは後期抑圧された無意識ではないということ。事実、ラカンは一月前の講義で次のように言っている。 |
次のことを忘れないように。抑圧は何よりもまず固着としてフロイトは説明している。しかし固着の時期、抑圧のようなものはなにもない。狼男の抑圧は固着のはるか後に生じる。抑圧は常に後期抑圧である。 N'oubliez pas ceci, que la façon dont FREUD explique le refoulement est d'abord une fixation. Mais à ce moment-là il n'y a rien qui ne soit le refoulement comme le cas de L'Homme aux loups, il se produit bien après la fixation. La Verdrängung est toujours une Nachdrängung. (Lacan, S1, 07 Avril 1954) |
フロイトの後期抑圧については「原抑圧と後期抑圧」を見よ。 後期抑圧とは抑圧された表象[verdrängten Vorstellungen]あるいは抑圧された願望[verdrängte Wünsche]のことであり、他方、フロイトにとって原抑圧は固着のこと。 さらにラカンにとって固着とは現実界のトラウマのこと。 |
固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1, 07 Juillet 1954) |
現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964) |
後年のラカンはこのトラウマを穴とも言うようになるが、このトラウマの穴こそ原抑圧だ。 |
現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
つまり現実界のトラウマは固着=原抑圧だ。これが、「日本フロイトラカン派三馬鹿トリオを批判することの「はしたなさ」」で、2人の「まともな」ラカン派注釈者が言っていることだ。 |
話を刻印 Prägungに戻そう。 Prägungが固着Fixierungであることは、フロイトにも現れている。 |
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 (症状)は、或る出来事と印象(刻印)の結果だという事である。したがってそれを病因的トラウマと見なす。Es hat sich für unsere Forschung herausgestellt, daß das, was wir die Phänomene (Symptome) einer Neurose heißen, die Folgen von gewissen Erlebnissen und Eindrücken sind, die wir eben darum als ätiologische Traumen anerkennen.〔・・・〕 この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる。 ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an〔・・・〕 トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我への傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs] 〔・・・〕 このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ] これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに取り込まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
フロイトは上で、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]を不変の個性刻印[unwandelbare Charakterzüge ]と等置しているが、フロイトはこの直後、この個性刻印[Charakterzüge]をPrägungを使って言い換えている、個性刻印[Prägung des Charakters]と[参照:トラウマへの固着文献]。 つまり、Prägung=Fixierungだ。これがセミネール1のラカンが事実上示していること。 |
さらに後期ラカンは現実界の症状を刻印[inscription]という語を使って語っているが、これがPrägungにほかならない。 |
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である[Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel](Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30. Nov 1974) |
症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569, 16 juin 1975) |
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme]. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
つまり「現実界の水準における刻印」とはトラウマへの固着を指し、身体の出来事[un événement de corps]自体、先に引用した『モーセと一神教』の《トラウマは自己身体の出来事[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper ]》にダイレクトに結びついており、つまりはリアルな症状はトラウマへの固着のこと。 |
この固着が事実上、ラカンの享楽つまり欲動のこと。 |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021) |
最も重要なのは、災害による外傷神経症のトラウマであれ、幼児期の出来事のトラウマであれ、身体の出来事への欲動の固着であること。この二つはともに欲動の身体的要求に関わる。フロイトが発見したのは、幼児期の欲動の固着の反復強迫であり、これが外傷的出来事への固着の反復強迫と同じメカニズムであること。
トラウマへの無意識的固着[die unbewußte Fixierung an ein Trauma]…… ここで外傷性神経症[traumatische Neurose ]は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々は幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることをまた認めなければならない[aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen ](フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年) |
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このフロイトの洞察は、日本では中井久夫が阪神大震災後のトラウマ患者の臨床をへて、フロイト用語を使いつつ明白に断言している。
しかも異物=異者としての身体 [Fremdkörper]は、フロイト1926年の症状論の白眉『制止、症状、不安』の定義ではエスの欲動蠢動[Triebregung des Es]である[参照]。独語の欲動[Trieb]は 駆り立てること[Treiben]であり、最後のフロイトの定義は、《欲動は心的生に課される身体的要求[Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.]》(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)、つまりこの身体が異者としての身体だ(ラカンもこのフロイト用語を異者身体[corps étranger]という訳語で、現実界の身体=享楽の身体として多用している)。 |
で、先のラカンに戻るなら、固着としての現実界の症状あるいは享楽の別名はサントームであり、サントームは幼児期の外傷神経症にほかならない。➡︎「サントームは外傷神経症である」 |
したがってーー繰り返し強調すればーー、立木康介曰くの《外傷性神経症・PTSD におけるトラウマと,「欲動が関与する」神経症的トラウマの違いは明白だ》とは開いた口が塞がらないほど呆れ返らざるを得ない初心者的誤謬である。 |
ま、21世紀は知的退行の世紀だからな、フロイトをまともに読んでいないことが明白なラカン学者が「精神分析的外傷論のアップデートの試み」をしようとしたら、ダウンデートになるんだろうよ |
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収) |
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なおこの投稿は仮厦の表の顔蚊居肢の「ちょろくない悪口の外観をそなえるのは難しい」に引き続いている。