女性の享楽[la jouissance féminine]は女性的享楽とも訳すことができるが、フロイトには女性的マゾヒズム[der feminine Masochismus]という概念がある。ラカンの《享楽の本質はマゾヒズム[La jouissance est masochiste dans son fond »]》(Lacan, S16, 15 Janvier 1969)であり、とすれば、女性的享楽と女性的マゾヒズムは等置しうるのではないか。 以下、それをいくら廻り道をして吟味してみる。 |
①女性の享楽=享楽自体=身体の出来事の享楽=サントームの享楽=固着の反復 まずジャック=アラン・ミレールは2011年のセミネールで女性の享楽について次のように言った。 |
確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。 だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕 |
ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011) |
この女性の享楽(女性的享楽)は男女両性にある享楽自体、かつ身体の出来事の享楽とは、ミレール独自の解釈ではない。セミネール21以降のラカンの発言に厳密に基づいている。 |
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ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! [« qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975) |
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症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975) |
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ーーこの二文から「ひとりの女なる症状は身体の出来事」となる。この症状は現実界の症状「サントーム」である。 |
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ラカンが上のように言った段階ではまだ「サントーム」概念はなかった。サントーム概念を初めて提出するのは1975年11月である。 |
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サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME. C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
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引き続き1976年2月に次のように言う。 |
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サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome, …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient] (Lacan, S23, 17 Février 1976) |
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ひとりの女はサントームである [une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976) |
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したがって「ひとりの女なるサントームは身体の出来事」となる。 |
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サントームは身体の出来事として定義される [Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011) |
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つまり女性の享楽は身体の出来事の享楽であると同時に《サントームの享楽[la jouissance du sinthome]》 (Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)となる。 |
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ところで、フロイトのトラウマの定義は身体の出来事あるいは固着であり、かつ固着の反復である。 |
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トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕 このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
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したがって次の注釈が生まれる。 |
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享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
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身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021) |
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さらにーー、 |
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サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06) |
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フロイトラカンにおいて固着はトラウマ(身体の出来事)と等価であり、固着の反復はトラウマの反復とすることもできる。
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そして②で示したようにラカンの現実界の享楽はマゾヒズムだが、それと同じくフロイトのリアルな欲動はマゾヒズムである。 |
欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
かつまたこれも②で示したように、人はみな、初期幼児期に、母に対して受動的=マゾヒズム的立場に置かれる。したがって母の名とは「マゾヒズムの名」と言い換えることができる。これがリアルな「欲動の名」とすることができる。