2024年3月22日金曜日

超自我文献③ーーエロス的固着[erotischen Fixierung]とトラウマ的固着[traumatischen Fixierung]

 

さて「超自我文献①」にて原超自我は母であり、前回の「超自我文献②」にて、まず次の二文を抽出した。

超自我へのエロス的拘束[ erotischen Bindung an das Über-Ich](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』8章、1930年)

母へのエロス的固着[erotischen Fixierung an die Mutter ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


そしてフロイトは、拘束と固着を等置しつつ使っていることを示しつつ、フロイトには直接的にはない表現である「超自我への固着[Fixierung an das Über-Ich]」を導き出した。


前エディプス的母への拘束はこよなく重要であり永続的な固着[nachhaltige Fixierungen]を置き残す。Der Ödipuskomplex des Mädchens hat uns lange den Einblick in dessen präödipale Mutterbindung verhüllt, die doch so wichtig ist und so nachhaltige Fixierungen hinterläßt.(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)


ところで、先の二文から、超自我へのエロス的固着[erotischen Fixierung an das Über-Ich]とするべきかとまずは思ったのだが、敢えてそうしなかった理由がある。読み手に混乱を与えるだろうと思ったからである。


……………


ここでフロイトにおける「エロス」をまず振り返ってみることにする。

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)


上の二文から、まずは「エロス=リビドー=欲動」であることがわかる。さらにリビドーは愛、プラトンのエロスであり、フロイトはこれを愛の欲動あるいは性欲動としている。

リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all 〔・・・〕


哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse〔・・・〕


この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)




つまりーー固着用語の使用例を取り出すならーー、フロイトにおいてリビドーの固着、欲動の固着、愛の固着は等価である。


幼児期のリビドーの固着[infantilen Fixierung der Libido]( フロイト『性理論三篇』1905年)

幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年)

ーー《欲動の固着[Fixierungen der Triebe]》(フロイト『症例シュレーバー』 第3章、1911年)

初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen].(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)


ところで、ーーである。フロイトは次のようにも言っている。

不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)


不安とはフロイトにとってトラウマである。

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


つまりリビドーはトラウマと密接な関係があるとなる。先に示したように、リビドーは愛あるいはエロスである。とすれば、愛はトラウマ、エロスはトラウマと密接な関係があることになる。おそらく一般にはひどく奇妙だろう。


先に《トラウマにおける寄る辺なさ[Hilflosigkeit im Trauma]》とあったが、次の文とともに読むと、愛はトラウマに関わることがわかるようになるのではないか。


寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)


つまりフロイトにおけるエロス的固着とは事実上、愛の喪失に対するトラウマ的不安への固着[Fixierung an die traumatischen Angst vor dem Liebesverlust]なのである。


このトラウマ的不安は原幼児期の母の喪失に関わる。

自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ]〔・・・〕

母を見失う(母の喪失)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


母は常に幼児の側にいるわけではないーー《行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? 》(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)ーー、愛の喪失に対するトラウマ的不安は何よりもまずここにある。


以上より、エロス的固着とはトラウマ的固着を意味することがおわかりになっただろうか。

トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]〔・・・〕ここで外傷神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[Die traumatische Neurose zeigt uns da einen extremen Fall, aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen](フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年)


フロイトが、《母は幼児にとって過酷なトラウマの意味を持ちうる[die Mutter … für das Kind möglicherweise die Bedeutung von schweren Traumen haben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)と記しているのは、この文脈のなかにある。


したがって次の二文から導き出せる「超自我へのエロス的固着[erotischen Fixierung an das Über-Ich]」とは「超自我へのトラウマ的固着[traumatischen Fixierung an das Über-Ich]」という内実をもっているのである。


超自我へのエロス的拘束[ erotischen Bindung an das Über-Ich](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』8章、1930年)

母へのエロス的固着[erotischen Fixierung an die Mutter ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


なお、フロイトにおいて欲動がトラウマであることは、「欲動のトラウマーー欲動の定義とトラウマの定義」にて示してある。


したがって次の四つの表現は同義である。




ラカンは享楽・欲動・リビドーを穴用語で結びつけている。

享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられないの[ La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou] (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


この穴とはトラウマの穴である。

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


すなわち事実上、「享楽=欲動=リビドー=トラウマ」である。ここに愛つまりエロスが加わるのは一見奇妙だが、繰り返せば、フロイトの定義においてリビドーはエロスなのである。そしてこのエロスは愛の喪失に対するトラウマ的不安に関わる「リビドー=愛の欲動=性欲動」なのである。