さてここで「超自我文献①ーーエディプス的超自我[Ödipales Über-Ich]と前エディプス的超自我[Präödipales Über-Ich]」にいったん戻って、フロイトにおいて前エディプス的超自我が母であることを明瞭に示している文を掲げよう。 |
去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust〔・・・〕 死の不安[Todesangst]は、去勢不安[Kastrationsangst]の類似物として理解されるべきである。自我が反応するその状況は、運命の力としての保護的超自我に見捨てられること[das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten]であり、危険に対するすべての保障が消滅してしまうことである。 die Todesangst als Analogon der Kastrationsangst aufzufassen ist und daß die Situation, auf welche das Ich reagiert, das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten – ist, womit die Sicherung gegen alle Gefahren ein Ende hat. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年) |
ーーここに、保護的超自我に見捨てられる死の不安≒去勢不安とされつつ母の乳房の喪失が語られている。したがってこの超自我は疑いようもなく母である。 この死の不安はより一般的に言えば、《母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts]》 (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)に対する不安である。 |
この不安の別名がトラウマであり、愛の喪失に対する不安である。 |
不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年) |
すなわち超自我はトラウマ的喪失(愛の喪失)に関わる。 フロイトは次のようにも記している。 |
自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…) die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ]〔・・・〕 母を見失う(母の喪失)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは傷ついた身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年) |
これは先の『制止、症状、不安』第7章の《保護的超自我に見捨てられる死の不安 Todesangst(…) das Verlassensein vom schützenden Über-Ich 》とともに読むことができる。 |
なお、メラニー・クラインはおそらく上のフロイトの記述をもとにしてだろう、超自我の核[Kern des Über-Ichs]は母の乳房だとした。 |
私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である[In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formation…The core of the superego is thus the mother's breast] (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951) |
ラカンもこのクラインを受け入れて次のように言っている。 |
母なる超自我 ・太古の超自我 、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 」 の効果に結びついているものである[Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN] (Lacan, S5, 02 Juillet 1958) |
ただし、母の乳房に特化せず、母の身体と言っている(さきの『制止、症状、不安』11章の《傷ついた身体部分への苦痛備給[Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ]》を想起されたし)。 |
モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20 Janvier 1960) |
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
ラカンにとってこの母なるモノが原超自我だとしてよいだろう。 そしてこのモノが現実界のトラウマであり固着である。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964) |
固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1 07 Juillet 1954) |
問題となっている母は、いわゆる固着と呼ばれるものにおいて非常に重要な役割を担っている[la mère en question joue un rôle tout à fait important dans ce qu'on appelle les fixations] (Lacan, S1, 27 Janvier 1954) |
すなわち事実上、「現実界のトラウマ=母なるモノ=原超自我=固着」である。 |
これは対象a概念を通しても確認できる。 |
私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).] (Lacan, S10, 15 Mai 1963 ) |
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
現実界の対象a=穴=超自我=母=固着であり、穴とはトラウマである、《現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».]》(Lacan, S21, 19 Février 1974) |
すなわち「現実界=トラウマ=超自我=母=固着」となる。そして《死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel ] (Lacan, S23, 16 Mars 1976) これはフロイトにおいてももちろん同様である。 |
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
すなわち「超自我=固着=自己破壊欲動=死の欲動」。 |
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※附記 なおフロイトにとって原不安としての去勢の原点にあるのは母の乳房ではなく母胎である。 |
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいない。〔・・・〕そればかりか、出生行為はそれまで一体であった母からの分離として、あらゆる去勢の原像である[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, …ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. ](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) |
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出産不安も乳児の不安も、ともに母からの分離を条件とするという、顕著な一致点については、なんら心理学的な解釈を要しない。Das auffällige Zusammentreffen, daß sowohl die Geburtsangst wie die Säuglingsangst die Bedingung der Trennung von der Mutter anerkennt, bedarf keiner psychologischen Deutung; これは生物学的にきわめて簡単に説明しうる。すなわち母自身の身体器官が、原初に胎児の要求のすべてを満たしたように、出生後も、部分的に他の手段でこれを継続するという事実である。es erklärt sich biologisch einfach genug aus der Tatsache, daß die Mutter, die zuerst alle Bedürfnisse des Fötus durch die Einrichtungen ihres Leibes beschwichtigt hatte, dieselbe Funktion zum Teil mit anderen Mitteln auch nach der Geburt fortsetzt. |
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出産行為をはっきりした切れ目と考えるよりも、子宮内生活と原幼児期のあいだには連続性があると考えるべきである。Intrauterinleben und erste Kindheit sind weit mehr ein Kontinuum, als uns die auffällige Caesur des Geburtsaktes glauben läßt. 心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている。忘れてはならないことは、子宮内生活では母はけっして対象にならなかったし、その頃は、いったい対象なるものもなかったことである。 Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. Wir dürfen darum nicht vergessen, daß im Intrauterinleben die Mutter kein Objekt war und daß es damals keine Objekte gab. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
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この出産不安をフロイトは原不安と呼んでいる。 |
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不安は対象の喪失に対する反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, (…) daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
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この原不安こそ原トラウマ=原固着である。 |
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出産外傷、つまり出生行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。 Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要) |
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フロイトにおいて欲動の対象は固着である[参照]。そしてこの母への原固着への回帰こそ母胎回帰であり、これこそ死の欲動の原像である。 |
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人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年) |
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母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年) |
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つまりひょっとして死の欲動としての超自我の核は母胎[Kern des Über-Ichs ist der Mutterleib]ではないか。少なくともフロイトの記述からそう想定できないことはない。 |
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なおラカンにおいての究極の享楽の対象は胎盤である。 |
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享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
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例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. ](Lacan, S11, 20 Mai 1964) |
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先に示したように母なるモノが原超自我なら、原超自我の核は胎盤ではなかろうか? 何はともあれ母の乳房と母胎を抱えているすべての女性は原超自我の後継者である。私は女性陣が歩いているのを見ると、超自我が歩いていると言いたくなるときがある。
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