2024年3月15日金曜日

抑圧文献④ーー欲動代理[Triebrepräsentanz]

 


さて次の二つの表現はどう違うのだろう?

抑圧された欲動代理[verdrängten Triebrepräsentanz](フロイト『抑圧』1915年)

抑圧された欲動[verdrängte Trieb ](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


まずは欲動代理とは欲動の表象代理をつづめた表現である。


例えばフロイトは抑圧論文で抑圧の第一段階としての原抑圧あるいは固着に関わって、欲動の心的(表象-)代理 [psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes]と記しつつ、その後で欲動代理[Triebrepräsentanz]と言い換えている。


われわれには原抑圧[Urverdrängung]、つまり、抑圧の第一段階を仮定する根拠がある。それは欲動の心的(表象-)代理 [psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes] が意識的なものへの受け入れを拒まれるという事実から成り、これにより固着[Fixerung]がもたらされる。問題となっているこの代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束される。

Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden.〔・・・〕

欲動代理[Triebrepräsentanz]は抑圧により意識の影響をまぬがれると、よりいっそう自由に豊かに展開する。それはいわば暗闇に蔓延り、極端な表現形式を見いだし、異者[fremd]のようなものとして現れる。

die Triebrepräsentanz sich ungestörter und reichhaltiger entwickelt, wenn sie durch die Verdrängung dem bewußten Einfluß entzogen ist. Sie wuchert dann sozusagen im Dunkeln und findet extreme Ausdrucksformen, […] fremd erscheinen müssen (フロイト『抑圧』1915年)


そして『無意識』論文では、欲動蠢動は粗雑な表現であり、厳密には欲動の表象代理 [Vorstellungsrepräsentanz]しか知ることはできないとしている。


…欲動は、無意識的なもののなかでさえも、表象によって代理されるしかない[Er kann aber auch im Unbewußten nicht anders als durch die Vorstellung repräsentiert sein. ]


欲動が表象に付着するか、あるいは一つの情動状態としてあらわれるかしなければ、欲動についてはなにも知ることができないであろう[Würde der Trieb sich nicht an eine Vorstellung heften oder nicht als ein Affektzustand zum Vorschein kommen, so könnten wir nichts von ihm wissen. ]


われわれが無意識的な欲動蠢動とか、抑圧された欲動蠢動について語るとしても、それは無邪気で粗雑な表現ということになる。われわれはそのさい、欲動の表象代理 [Vorstellungsrepräsentanz]が無意識的であるような欲動蠢動を考えているに過ぎない。

Wenn wir aber doch von einer unbewußten Triebregung oder einer verdrängten Triebregung reden, so ist dies eine harmlose Nachlässigkeit des Ausdrucks. Wir können nichts anderes meinen als eine Triebregung, deren Vorstellungsrepräsentanz unbewußt ist, denn etwas anderes kommt nicht in Betracht. (フロイト『無意識』第3章、1915年)


つまり1920年の『快原理の彼岸』に現れる《抑圧された欲動[verdrängte Trieb ]》は、1915年の『抑圧』と『無意識』論文観点からは粗雑な表現であり、厳密には《抑圧された欲動代理[verdrängten Triebrepräsentanz]》しか知ることはできないと。


そして《無意識の核は欲動代理で成り立っている[Der Kern des Ubw besteht aus Triebrepräsentanzen]》(フロイト『無意識』第5章、1915 年)ともある。


先の抑圧論文にあったように、欲動代理[Triebrepräsentanzen]とは固着ーー厳密には、欲動の固着[Fixierungen der Triebe] ーーである。この欲動の固着という表現は、抑圧の第一段階(原抑圧)として『症例シュレーバー』にあらわれる。


抑圧の第一段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕

この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年)


つまり、次の二つの表現は等価である。

抑圧された欲動代理[verdrängten Triebrepräsentanz](フロイト『抑圧』1915年)

抑圧された固着[verdrängten Fixierungen] (フロイト『精神分析入門』第23講、1917年)


この二つの表現が《抑圧された欲動[verdrängte Trieb ]》という粗雑な言い方に比べていっそう厳密だということになる。別の言い方をすれば、欲動を把握するには「欲動代理=欲動の固着」しかないということである。


とはいえ、後年のフロイトは欲動代理という表現を使わなくなる。他方、固着は多用し続けている。

より初期段階のある部分性向の置き残しが、固着(欲動の固着)と呼ばれるものである。daß ein solches Verbleiben einer Partialstrebung auf einer früheren Stufe eine Fixierung (des Triebes nämlich) heißen soll. (フロイト『精神分析入門』第22講、1917年)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


もちろん欲動の固着とリビドーの固着は等価である、リビドー的欲動蠢動[daß libidinöse Triebregungen]》(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)




なお超自我自体も事実上、欲動の固着である。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


フロイトは超自我をエスの代理ともしている。

超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代理としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている[das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)

超自我は外界の代理であると同時にエスの代理である。超自我は、エスのリビドー蠢動の最初の対象、つまり育ての親の自我への取り入れである[Dies Über-Ich ist nämlich ebensosehr der Vertreter des Es wie der Außenwelt. Es ist dadurch entstanden, daß die ersten Objekte der libidinösen Regungen des Es, das Elternpaar, ins Ich introjiziert wurden](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


エスとはもちろん《エスの欲動蠢動 [Triebregung des Es]》 (『制止、症状、不安』第3章、1926年)であり、このエスの代理[Vertreter des Es]とは欲動代理[Triebrepräsentanzen]と等価ではないかと私は考えている。


なにはともあれ固着概念を通して、《超自我と原抑圧との一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire]》 (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)のである。この意味でエスよりも超自我のほうが重要である、欲動よりも欲動の固着が重要であるように。




固着は、フロイトが原症状と考えたものである[Fixations, which Freud considered to be primal symptoms,](Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002年)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の顕れは、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)