2022年9月21日水曜日

自由文献ーーあるいは「文化制度への軽蔑」の帰結

  


◼️自由と制度への軽蔑

今日のために生き、きわめて迅速に生き、 ――きわめて無責任に生きるということ、このことこそ「自由」と名づけられているものにほかならない。制度を制度たらしめるものは、軽蔑され、憎悪され、拒絶される。すなわち、人は、「権威」という言葉が聞こえるだけでも、おのれが新しい奴隷状態の危険のうちにあると信じるのである。それほどまでにデカタンスは、私たちの政治家の、私たちの政党の価値本能のうちで進行している。だから、解体させるものを、終末を早めるものを、彼らはよしとして本能的に選びとる・・・


Man lebt für heute, man lebt sehr geschwind – man lebt sehr unverantwortlich: dies gerade nennt man »Freiheit«. Was aus Institutionen Institutionen macht, wird verachtet, gehaßt, abgelehnt: man glaubt sich in der Gefahr einer neuen Sklaverei, wo das Wort »Autorität« auch nur laut wird. Soweit geht die décadence im Wert-Instinkte unsrer Politiker, unsrer politischen Parteien: sie ziehn instinktiv vor, was auflöst, was das Ende beschleunigt... (ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」第39節『偶像の黄昏』所収、1888年)


◼️欲動の飼い馴らされていない暴力に対する防衛手段としての制度

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 [unbändigen Gewalt dieses Triebs]に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための防衛手段から生じたものであることを見てとった。Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs – ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888年)


◼️家畜化されていない欲動蠢動の暴力の幸福

荒々しい「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である[Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes.] (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)

欲動蠢動、この蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである [la Triebregung …Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute](ラカン, S10, 14  Novembre  1962)



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◼️文化制度と文化への敵意

いうまでもないが、人類の文化――この中には、人間の生活がその動物的な諸条件から抜けだしたと考えられる一切のもの、人間の生活を動物の生活から区別する一切のものがふくまれる――しかも私は、文化と文明[Kultur und Zivilisation]を区別する必要を認めないーー人類の文化には、二つの面がある。すなわち、文化とは、一面においては、人類が、自然のもろもろの力を支配し、自分の必要をみたすよう自然からさまざまの物資を奪いとるために獲得した知識と能力の一切を包含するとともに、他面においては、人間相互の関係、その中でもとくに、入手可能な物質の分配を円滑にするための全社会制度を含んでいる。


しかし、文化が持つこの二つの面は、たがいに関連している。 それはまず第一に、人間相互の関係は、存在する物資によって可能となる欲動満足[Trieb-befriedigung]の程度によって大きな影響をうけるものだからであり、第二には、人間自身も、労働力として利用されたり、性的対象[Sexualobjekt]とされたりする限りでは、他人にたいし物としての関係に立つことがあるからであり、さらに第三には、すべての人間には、 本来ならば人類全体の関心事であるはずの文化への敵意[Feind der Kultur]が潜んでいるからである。


奇妙なことに、われわれ人間は、孤立して生きてゆくことなど全然できもしないくせに、共同生活を可能にするために文化がわれわれに要求する犠牲を非常な苦痛と感ずる。そこで文化は、個々の人間にたいして守られる必要があり、文化の組織・制度および規則は、その目的に奉仕する。これらの組織・制度および規則は、ある種の物資分配方法を生みだすことだけが目的ではなく、いったん生みだされた物資分配方法を維持することをも目的としており、さらには、自然の支配と物資の生産とに役立つ一切のものを、人間の心に潜む文化への敵対衝動[eindseligen Regungen]から守るという使命すらおびているのである。人間の手になったものは破壊されやすく、それらを生んだ科学や技術さえその破壊のために用いられかねない。


そこで、文化とは権力手段と強制手段[Macht- und Zwangsmitteln]とをうまく手に入れた少数の人間が嫌がる多数の人間に無理に押しつけたものだという印象が生じる。もちろん、これらさまざまの難点は文化自体の本質に根ざすものではなく、これまで人類が発展させてきた諸種の文化形態が持っているもろもろの欠点から出たものではないかという疑問も当然起こってくる。 じじつ、この種の欠点を数えあげることはやさしい。 自然を支配するという点では不断の進歩をとげてきたし、今後もいっそうの進歩をとげるものと考えられるわれわれ人類にも、人間相互の関係の処理という点では、これに見合うだけの進歩のあとはしかとは認められないのであって、現代においてもまたもやそうであるが、おそらくはいついかなる時代においても、多くの人間は、自分たちがいま持っている一片の文化なるものはそもそも守るに値するものなのかと自問したのであった。


そこで、人間関係をこれまでとは違った形で処理すること、すなわち、強制や欲動抑制[Triebunterdrückung]などの手段は放棄し、ひと皆が、内面的な葛藤に妨げられることなく、物資の入手と入手した物資の享受に専心できるようにすることによって、文化にたいする不満の根源を絶つことが可能なはずではないかという意見が生まれる。そうなれば、それこそ黄金時代というものであろう。しかし、そういう状態を実現することは可能であろうか。事実はむしろ、あらゆる文化は強制と欲動断念とを基礎とせざるをえないように思われる[Es scheint vielmehr, daß sich jede Kultur auf Zwang und Triebverzicht aufbauen muß]。それどころか、強制がなくなれば、人類の大部分は、新しい生活物資の生産にはぜひとも必要な労働を引き受けようとしないだろうという心配さえある。つまり、われわれとしては、すべての人間は破壊的なーーすなわち反社会的・反文化的な――傾向を持っているという事実、また、この破壊的な傾向が強くて、対人関係のすべてがそうした傾向によって律せられている人間も多いという事実を忘れてはならないのである。


人類の文化を論じようとする場合、この心理学上の事実は決定的な重要性をおびてくる。 最初のうちこそ、文化で一番大切なのは生活物資を獲得するため自然を支配することで、文化をおびやかすさまざまの危険は、生活物資の配分が合理的に行なわれさえすれば取り除かれうるのだと考えてよかったのが、いまや重点は、物質的なものから精神的なものへ移ったらしいのである。そして、人類に無理に押しつけられている欲動犠牲[Triebopfer]の負担を少なくし、 それにもかかわらずどうしても残らざるを得ない欲動犠牲については人類を納得させ、その犠牲の代償を与えることに成功するかどうか、また成功するとしてどの程度まで成功するかがキーポイントになる。


文化維持のための強制的な労働が必要欠くべからざるものであると同様、少数者が大衆を支配するという事態も避けることはできない。なぜなら、大衆は怠惰で愚かなのだから。 大衆は、欲動断念を好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。 die Massen sind träge und einsichtslos, sie lieben den Triebverzicht nicht, sind durch Argumente nicht von dessen Unvermeidlichkeit zu überzeugen, und ihre Individuen bestärken einander im Gewährenlassen ihrer Zügellosigkeit.


文化は労働と欲動放棄のうえに成立するものであるけれども、大衆にこの二つのことをやらせるには、大衆が自分たちの指導者だと認めている模範的な人たちの影響力によるほかはない。 そして、自身の欲動願望[Triebwünsche]を意のままにできる境地に達したこれらの指導者たちが、人間生活に必然的につきまとっているさまざまの事柄にたいしてすぐれた洞察を持った人物である場合には万事問題ない。けれども、それらの指導者は、自分たちの影響力を持ちつづけたいと思うあまり、大衆を自分たちに近づけるよりはむしろ自分たちのほうが大衆に迎合してしまう危険にさらされている。 そこで、大衆からの独立を保つためには、指導者たちに権力手段を与えることが必要に思われてくる。要するに、文化の諸制度維持のためにはある程度の強制が絶対に必要だとされる原因は、人間には自発的に働く意志はなく、 また、情熱のとりこになった人間は道理に耳をかそうとはしないという、多くの人間に見られる二つの性質に求められるのである。〔・・・〕(フロイト『ある幻想の未来』第1章、1927年)



◼️欲動の不満足という不自由

用語の混乱を避けるため、私は、欲動が満足させられえない事態を「拒否」Versagung、この拒否が制度化されたものを「禁令」Verbot、そして、この禁令から生まれる状態を「不自由」Entbehrungと呼ぼうと思う。

Einer gleichförmigen Ausdrucksweise zuliebe wollen wir die Tatsache, daß ein Trieb nicht befriedigt werden kann, Versagung, die Einrichtung, die diese Versagung festlegt, Verbot, und den Zustand, den das Verbot herbeiführt, Entbehrung nennen.


すると、次になすべきことは、すべての人々が忍ばねばならぬ「不自由」と、そうではなくて、一定のグループとか社会階層だけ、あるいは極端な場合には特定の個人だけがこうむる「不自由」とを区別することである。これら二種の「不自由」の中では、最初のものが一番古い。 この種の「不自由」を定めた「禁令」によって文化は、いつとも知れぬ太古の時代に、動物的な原始状態から別れはじめたのである。 そしてわれわれは、この種の「不自由」がいまも生きていて、いまなお文化への敵意の中核[Kern der Kulturfeindseligkeit]をなしていることを知って意外の感に打たれたのだった。この「不自由」の被害者である欲動願望[Triebwünsche]は、いまなおひとりひとりの子供とともに新たに生み出される。そして、この種の「拒否」にたいしてさえはや反社会的な反応を見せる一群の人々ーー神経症患者ーーがいるのだ。〔・・・〕

われわれは、大多数の人々が外的な強制を加えられてはじめて――つまり、外的な強制が実効を持ち、ほんとうに外的な強制が加えられる心配がある場合にだけーー文化の側からのこの種の禁令に服従していることを知って、意外の感に打たれ、また憂慮に満たされるのだ。このことは、すべての人間が同じように守らねばならぬとされている文化の側からのいわゆる道徳的要求にもあてはまる。 人間が道徳的に信用ならない存在だとされる場合の大部分はこの事例に属する。〔・・・〕

罰せられはしないということが分かれば、自分の物欲、攻撃衝動、性欲などを満足させてはばからず、嘘や詐欺や中傷で他人を傷つけることを平気でする文化人種はそれこそ数えきれない[Unendlich viele Kulturmenschen(…) , versagen sich nicht die Befriedigung ihrer Habgier, ihrer Aggressionslust, ihrer sexuellen Gelüste, unterlassen es nicht, den anderen durch Lüge, Betrug, Verleumdung zu schädigen, wenn sie dabei straflos bleiben können]。おそらくこれは、人類が文化を持つようになっていらいずっと長くつづいてきた状態なのだ。


一定の社会階層だけが受けている制約の場合には、事態はきわめて簡単でしたがってまた誰の眼にも明らかである。そういう不利な扱いを受けている社会階層に属する人々が、そうでない人々の特権をうらやみ、あらゆる努力を傾けて、自分たちだけが蒙っている余分の「不自由」から脱出しようとするであろうことは想像にかたくない。 そしてそれが不可能な場合、その文化の内部では、一定量の不満が継続的にあらわれ、ついには危険な爆発にいたることにもなりかねない。しかし、現存文化が全部そうであるように、文化が、その文化を構成している人々のうちの一部分ーーそれもおそらくは過半数の人間――を抑えつけなければそれ以外の人々を満足させることができないという段階から脱け出ていないとすると、抑えつけられているほうの人間が、自分たちの労働によって成り立っているくせにわずかの恩恵しか与えてくれないその文化にたいして強い敵意[intensive Feindseligkeit gegen die Kultur] を抱くにいたるのは当然である。

そうなると、これらの抑えつけられている人間がその文化の側から発せられる 「禁令」を内面化することなど期待できないのはもちろん、逆にそれらの人々は、こうした禁令を受け入れようとはせず、文化自体を破壊し、場合によっては、文化の基盤である各種の前提すら覆そうとする。これらの社会階層が文化にたいして抱いている敵意があまりにも明白であるため、文化の恩恵にあずかるという点でもっと有利な立場にある社会階層の中にも存在するどちらかといえば潜在的な敵意[latente Feindseligkeit]のほうは、その陰に隠れてこれまで見落とされてきた。いうまでもないが、これほど多くの人間の不満と反抗心をかき立てるような文化には、永続の見込みもなければまたその値打もない。


もちろん、文化の側からの命令が内面化される程度――これを素人向きの俗な言葉でいえば、その文化を構成している人々の道徳水準[moralische Niveau]ということになるが――だけが、その文化を評価する場合に問題になる唯一の精神文化財ではない。それとならんで、その文化が持っている理想や芸術作品[Besitz an Idealen und an Kunstschöpfungen]があり、これら両者から得られる満足がある。

ところで、とかくわれわれは、ある文化が持っているさまざまの理想ーーすなわち、最高の人間行為、一番努力に値する人間行動は何かという価値づけーーをその文化の精神財の一部とみなしやすい。すなわち、一見したところ、その文化圏に属する人間の行動はこれらの理想によって方向づけられるような印象を受けるのである。ところが真相は、生まれつきの素質とその文化の物的環境との共同作業によってまず最初の行動が生じ、それにもとづいて理想が形成されたあと、今度はこの理想が指針となって、それらの最初の行動がそのまま継続されるという逆の関係らしい。したがって、理想が文化構成員に与える満足感は、自分がすでに行なってうまくいった行動にたいする誇りにもとづくもの、つまり自己愛的性格[narzißtischer Natur]のものである。この満足感がもっと完全になるためには、ほかのさまざまな文化ーーほかのタイプの人間行動を生み出し、ほかの種類の理想を発展させてきたほかのさまざまな文化――と自分との比較が必要である。どの文化も「自分には他の文化を軽蔑する当然の権利がある」と思いこんでいるのは、文化相互のあいだに認められるこの種の相異にもとづく。

このようにして、それぞれの文化が持つ理想は、異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種になるのであり、このことは、国家と国家のあいだの現状に一番はっきりとあらわれている。[die Kulturideale Anlaß zur Entzweiung und Verfeindung zwischen verschiedenen Kulturkreisen, wie es unter Nationen am deutlichsten wird. ]

文化理想が与えるこの自己愛的な満足はまた、同一文化圏の内部でのその文化にたいする敵意をうまく抑制するいくつかの要素の一つでもある「Die narzißtische Befriedigung aus dem Kulturideal gehört auch zu jenen Mächten, die der Kulturfeindschaft innerhalb des Kulturkreises erfolgreich entgegenwirken]。

つまり、その文化の恩恵を蒙っている上層階級ばかりではなく、抑えつけられている階層もまた、他の文化圏に属する人たちを軽蔑できることのなかに、自分の文化圏内での不利な扱いにたいする代償が得られるという点で、その文化の恩恵に浴しうるのである。「なるほど自分は、借金と兵役に苦しんでいる哀れな下層階級にはちがいない。でもそのかわり、自分はやはりローマ市民の一人で、 他の諸国民を支配自分の意のままに動かすという使命の一端をになっているのだ」というわけである。 しかし、抑えつけられている社会階層が自分たちを支配し搾取している社会階層と自分とをこのように同一化することも、さらに大きな関連の一部にすぎない。すなわち、この社会階層の人々は、一方では敵意を抱きながらも、他面においては、感情的にも支配階層に隷属し、支配階層を自分たちの理想と仰ぐことも考えられるのだ[Anderseits können jene affektiv an diese gebunden sein, trotz der Feindseligkeit ihre Ideale in ihren Herren erblicken. ]。基本的には満足すべきものであるこの種の事情が存在しないとするならば、大多数を占める人々の正当な敵意にもかかわらず、多数の文化圏がこれほど長く存続してきたことは不可解という他はあるまい。

芸術がある文化圏の人々に与える満足は、これとは違った性質のものである。 ふつう一般大衆は、労働のために全エネルギーを消耗するし、高度の教養を身につけてもいないので、芸術とは無縁の存在である。

周知のように芸術は、文化の要求に応じてわれわれが行なってはいるものの、魂のもっとも深い部分ではいまなお未練を残している最古の願望断念にたいする代理満足であり、したがって、 この願望断念のために捧げられた犠牲から生まれる不満をなだめるには、一番適している[Die Kunst bietet, wie wir längst gelernt haben, Ersatzbefriedigungen für die ältesten, immer noch am tiefsten empfundenen Kulturverzichte und wirkt darum wie nichts anderes aussöhnend mit den für sie gebrachten Opfern. ]

他面において芸術作品は、共感と感銘を呼びさますことにより、すべての文化圏があれほど必要としている先述の同一化感情を高めてくれる。そのうえ芸術作品は、それが属している文化独自の業績をテーマにし、その文化が持っているもろもろの理想への関心を強くかき立てるようなものである場合には、自己愛をもくすぐるのである。Anderseits heben ihre Schöpfungen die Identifizierungsgefühle, deren jeder Kulturkreis so sehr bedarf, durch den Anlaß zu gemeinsam erlebten, hocheingeschätzten Empfindungen; sie dienen aber auch der narzißtischen Befriedigung, wenn sie die Leistungen der besonderen Kultur darstellen, in eindrucksvoller Art an ihre Ideale mahnen. ……(フロイト『ある幻想の未来』第2章、1927年)



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◼️知・哲学・芸術・美という性欲動の昇華

プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb](ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882)

芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes   (ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である[daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste... ](ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』1888年)


ーー《性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ]》(ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )


※リビドー(欲動)=プラトンのエロス=愛の欲動=性欲動

リビドー[Libido]は情動理論 [Affektivitätslehre]から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。〔・・・〕

哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕

この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


◼️文化という残酷さの精神化

われわれが「高次の文化」と呼ぶほとんどすべてのものは、残酷さの精神化の上に成り立っているーーこれが私のテーゼである。あの「野獣」が殺害されたということはまったくない。まだ、生きておりその盛りにある、それどころかひたすら――神聖なものになっている。Fast Alles, was wir "hoehere Cultur" nennen, beruht auf der Vergeistigung und Vertiefung der Grausamkeit - dies ist mein Satz; jenes "wilde Thier" ist gar nicht abgetoedtet worden, es lebt, es blueht, es hat sich nur -vergoettlicht. (ニーチェ『善悪の彼岸』229番、1886年)

科学や知において、欲動は聖なるものとなる。つまり「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。知を備えた人間は、聖性において自らをはるかに超える。In der Wissenschaft, im Erkennen sind die Triebe heilig geworden: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht". Der erkennende Mensch ist in der Heiligkeit weit über sich hinaus. (ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)



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◼️欲動の昇華

われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする機制がある。…この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作ーーすなわち自分の空想の所産の具体化[der Verkörperung seiner Phantasiegebilde]ーーによって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、との種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにするととができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 »feiner und höher« なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動[primärer Triebregungen]を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体[Leiblichkeit]までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)


◼️昇華の不可能性

人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)




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◼️戦争は不可欠

戦争は不可欠[Der Krieg unentbehrlich]


人類が戦争することを忘れてしまった時に、人類からなお多くのことを(あるいは、その時はじめて多くのことを)期待するなどということは、むなしい夢想であり、おめでたい話だ[eitel Schwärmerei und Schönseelentum]。あの野営をするときの荒々しいエネルギー、あの深い非個人的な憎悪、良心の苛責をともなわないあの殺人の冷血[jene Mörder-Kaltblütigkeit mit gutem Gewissen]、敵を絶滅しようというあの共通な組織的熱情、大きな損失や自分ならびに親しい人々の生死などを問題にしないあの誇らかな無関心、あの重苦しい地震のような魂の震憾などを、すべての大きな戦争があたえるほど強く確実に、だらけた民族にあたえられそうな方法は、さしあたり、ほかには見つからない。

もちろん、ここで氾濫する河川は、石やあらゆる種類の汚物を押し流して、微妙な文化の沃野を荒すけれど、後日、事情が好転すれば、この河川の力によって、精神の仕事場の歯車が新しい力でまわされることになる。文化は激情や悪徳や悪事をどうしても欠くことはできないのだ[Die Kultur kann die Leidenschaften, Laster und Bosheiten durchaus nicht entbehren]。


帝政時代のローマ人がいくらか戦争に倦いてきたとき、彼らは、狩猟や剣士の試合やキリスト教徒の迫害によって、新しい力を獲得しようとこころみたものだった。大体においてやはり戦争を放棄したように見える現在のイギリス人は、あの消滅してゆく活力をあらたにつくり出すために、別の手段を取っている。 あの危険な探険旅行とか遠洋航海とか登山とかは、科学上の目的からくわだてられるものと言われているが、その実、あらゆる種類の冒険や危険から、余分の力を持って帰ろうというのだ。

人間はまだまだ戦争の代用物[Surrogate des Krieges]をいろいろ考え出すことだろうが、現今のヨーロッパ人のように高度の文化を持った、したがって必然的に無気力な人類は、文化の手段のために、自分たちの文化と自分たちの存在そのものを失わないためには、戦争どころか、最も大きい、最もおそろしい戦争――すなわち、野蛮状態への一時的復帰を[zeitweiliger Rückfälle in die Barbare]ーー必要とするということがむしろこの代用物によって、かえってはっきりわかるようになることだろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』上  477番、1878年)


◼️残酷の享楽

最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeit]である。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つである[Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit].〔・・・〕

「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい![Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年)




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※参照


◼️全人類の神経症

一つの疑問だけはどうしても避けて通ることができない。それはつまり、文化の発展と個々の人間の発展のあいだにこれほど広範囲な類似が見られるとすれば、文化ないしは文化時期の中のあるもの、場合によっては全人類が文化努力の影響によって「神経症」になっていると診断してもよいのではないか?daß manche Kulturen ― oder Kulturepochen ― möglicherweise die ganze Menschheit ― unter dem Einfluß der Kulturstrebungen »neurotisch« geworden sind?   (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)


◼️原抑圧の現勢神経症と後期抑圧の精神神経症

おそらく最初期の抑圧(原抑圧)が、現勢神経症の病理を為す[die wahrscheinlich frühesten Verdrängungen, …in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, ]〔・・・〕精神神経症は、現勢神経症を基盤としてとくに容易に発達する[daß sich auf dem Boden dieser Aktualneurosen besonders leicht Psychoneurosen entwickeln](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


◼️原抑圧という欲動の固着

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden  »Verdrängung«. ]〔・・・〕この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege, und können hinzufügen]〔・・・〕

(原)抑圧されたものの回帰としての侵入は固着点から始まる[Wiederkehr des Verdrängten…Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。そしてその点へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年、摘要)


◼️享楽というリビドーの固着(=欲動の固着)

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する[Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält.] (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


◼️享楽の固着という身体の出来事は常に回帰する。

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…)  on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)



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◼️固着の原点:母なる超自我への自己破壊的固着

①超自我はマゾヒズムなる現実界の享楽の原因

超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme](Lacan, S10, 16  janvier  1963)

享楽は現実界にある。現実界の享楽はマゾヒズムから構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert, ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年)


②母は超自我である

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)

※幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]=母への依存性[Mutterabhängigkeit](フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)


母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial   ]〔・・・〕

母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)


③母なる超自我への固着と自己破壊欲動

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


④自己破壊欲動=マゾヒズム=死の欲動

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


⑤欲動のリアル=自己破壊欲動

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


⑥自己破壊への意志=無への意志

より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887)